第8話 転校生を救いたい
ある日のホームルームが終わり休み時間になると、谷内先生がこちらにスタスタと歩いてきた。
「白峰、ちょっといいか?」
どうやら俺ではなく、白峰さんに用事があるようだ。
「えっ……は、はい……」
「確かお前まだ委員会入ってなかっただろう? どこでもいいから所属して欲しいんだが、何か興味のあることとかないか?」
この学校の決まりで部活動に所属していない生徒は、必ず何かしらの委員会に入らなければならいのだ。
「えっと……その……」
白峰さんはもじもじと口ごもってしまう。
困った様子の先生は、黒髪オールバックの頭を抱えると、おもむろに俺の方を向いて話を振る。
「そういえば夜木、図書委員だったよな?」
「そ、そうですけど……」
「お前ら最近仲いいみたいだし、図書委員を2人でやってみたらどうだ? 夜繋がりってことで」
先生のリムレスの眼鏡が、きらりと光る。
「どんなこじつけですか。俺は別にいいですけど、白峰さんに聞かないと」
「どうだ白峰、図書委員、興味ないか?」
俺はてっきり、白峰さんはすぐ嬉しそうに首を縦に振るものだと思っていた。今までだってそうだったから。
でも今回は、いつもと違った。
両の指をクネクネと絡ませながら、眉をひそめて思い悩んだ表情を浮かべている。
俺と一緒の委員会に所属するのは、嫌だったのだろうか。
「白峰さん、嫌だったら断ればいいぞ?」
「い、嫌じゃないです……! 先生、私、夜木君と一緒に、図書委員になります……」
「そうか。じゃあ夜木、白峰に仕事を教えてやってくれ。後のことは全てお前に任せた!」
そう言い残し、他人任せで無責任な先生は教室から去っていった。
ちらりと隣の席の様子を伺うも、やはりどこか浮かない顔をしている白峰さんに、心にチクリと棘が刺さったような心境になる。
放課後――図書委員の仕事を教える為に、俺と白峰さんは図書室までやってきた。
「毎週月曜日の放課後に返却された本を元の場所に戻すのが主な仕事だから、2人でやればすぐ終わると思う」
「わ、分かりました……」
俺が図書委員を選んだのは、本が好きだからって理由ではなく、ただ単に楽そうだったから。それに月曜日は祝日になることも多いし、他の図書委員達からジャンケンでなんとか勝ち取ったシフトだった。
だけど、白峰さんと2人になるのなら別の曜日でも良かったかな……なんて、少しふしだらなことも考えてしまう。
「本の背表紙に貼ってあるシールに、本棚の場所が書かれてるから、ここ見て?」
俺が本を一冊手に取って見せると、白峰さんが俺の手元を覗き込む。
「どれですか……?」
いい匂いと共に白峰さんの長い黒髪がすぐ目の前へと押し寄せてきて、思わずドキッとさせられた。
自然と身体が硬直する。初めて彼女と会った時と、同じ感覚だった。
白峰さんは距離感をそのままに顔だけを上げつつ「このアルファベット――」と、何かを言いかけたが、途中で言葉を詰まらせる。
――顔が近かった。
言葉で表すならば、たったそれだけのこと。
でもなぜだろう。俺の心拍と体温は上がり、時間がゆっくり進むようにすら感じる。白峰さんの頬はほんのり赤くて、澄んだ瞳の中には、呆けた顔の俺がいた。
「す、すみません……馴れ馴れしく近付いてしまいました……」
慌てたそぶりで距離をとる転校生。
「いや、こっちこそ……」
白峰さんは、俺から顔を背けたままで言う。
「夜木君……今日……なんか元気ないです……」
「え、突然どうした?」
「今日1日、ずっと暗い顔してます……」
「そんなことないって。別に普通……」
彼女はグルンと振り返り、また距離を詰める。
「お、お友達には……嘘は言っちゃダメだって聞いたことがあります……! わ、私が……頼りないからですか……?」
2つの宝石みたいに綺麗な目が、湿気を纏いウルウルと輝いている。
「ち、違うって……実は今朝、白峰さんが俺と同じ委員会になるのを嫌がってるように思えて、それで、なんか、ちょっと落ち込んでたっていうか……」
「わ、私が夜木君と同じ委員会に入るのを嫌がる筈ありません……!」
「え……じゃあ、なんで……」
白峰さんは俯き、握った拳を胸に当てた。
「……私……本が、苦手なんです……」
他に生徒の姿はなかったけど、本来私語禁止とされる図書室で話を続けるのも気が引けてしまい、俺たちは一旦場所を移した。
既に誰もいなくなった2年3組の教室へ戻ってくると、自分たちの席に座り事情を聞いた。
「それで、本が嫌いって……?」
「わ、私……前は女子校に通っていたんです。去年の夏休みの前日に、クラスの人達から、宿題の読書感想文を代わりにやって欲しいと、大量の本を渡されました。それで必死に、頑張って全部読んで、一冊一冊真面目に書きました。でも、気付いた時には……夏休みの最終日になってて……他の宿題は手付かずで、先生にすごく怒られたんです……」
「それって……」
白峰さんはそんなこと一言も言わなかったけれど、それは歴としたイジメだ。なぜ彼女がこんな時期に転校してきたのか……その理由が分かった気がした。それと同時に、こんなにも優しい彼女を追い詰めた、名前も顔も知らない誰かへ、激しい怒りを覚えた。
「だから今でも、本を開くと、あの時のことを思い出してしまうんです……」
「そうなる前は本、好きだった?」
「は、はい。好きな作家さんも何人かいましたけど、あれからはもう、読めてません……」
「そっか……」
「で、でも、図書委員のお仕事は精一杯頑張るので、だ、大丈夫ですよ……?」
――大丈夫なわけあるか。
人から好きな物を奪ったそいつらは、そんなことはすっかり忘れて、今ものうのうと暮らしているに違いない。
俺は、大切な友達に、何が出来るだろう。
「白峰さん……友達には、嘘ついちゃダメだって言ったよな? 本当はどうしたいか、教えてよ」
「そ、それは……また、本が読めるように……なりたい……です……」
「じゃあ図書室に戻って、白峰さんの読みたい本、読みに行こう」
「で、でも、まだ心の準備が……」
「大丈夫」
俺は彼女の手を引いて、図書室まで戻ってきた。
本棚の前で、白峰さんはいつにも増して、怯えたように立ちすくむ。
「あ、あの夜木君……私、本当に……」
「いいから選んで」
「じゃ、じゃあ、これで……」
彼女が震える手でしぶしぶ指さしたのは、ミステリー小説だった。
「分かった。じゃあ借りてくる」
「えっ、夜木君が、借りるんですか……?」
拍子抜けしたような転校生。
「そうだけど?」
「ど、どうして……ですか……?」
「これ、俺が声に出して読むからさ、それを隣で聞いててくれたら、白峰さんにも分かるだろ?」
安堵したようにも、嬉しそうにも見えた彼女は、小さく溢す。
「夜木君……」
「それに俺もせっかく図書委員なんだし、週に1回くらいは本を読んでもいいかなって……」
すると、白峰さんはおちょくったような顔を向けた。
「でもその本、きっと難しい漢字が多いですよ……?」
「それ、遠回しに俺をバカって言いたいのか?」
「遥香ちゃんの真似をしてみました……う、嬉しかったですか……?」
遥香の奴め……白峰さんに余計なこと吹き込みやがって。
こうして俺たちは、毎週月曜日の図書委員の仕事を終えてから少し残って、一緒に読書をすることになった。