第26話 幼馴染とお泊まり1
「ただいま」
「ただいま〜!」
帰宅した俺たちがリビングへ入ると、母はソファに腰掛け呑気に缶ビールを飲んでいた。
「おかえり〜アイス買ってきてくれた〜?」
「ちゃんとこの分の金は貰うからな」
不承不承ながらも帰りすがらにコンビニで買ってきたアイスクリームをレジ袋から出して手渡すと、母さんは仏頂面を浮かべる。
「ケチだね〜あんたは。たまには親孝行のひとつでもしたらどうなのさ?」
「ついさっきそんな気持ちは宇宙の彼方に飛んでって消えた」
「奏向だけに……?」
プププと笑いを堪えるオバサンに、余計に腹が立ってきた。
「くだらん。それにどういうつもりだよ。俺らもう高校生だぞ? なんで遥香を家に泊めるの許可したんだよ!」
「勿論、ちゃんとルールは設けるつもりよ?」
「なんだよルールって……」
「流石に同じ部屋では寝かせらんないから、遥香ちゃんは深夜1時までには必ず私の部屋にくること。いいわね?」
「えぇ!! そんなの聞いてないよ!! ねぇお願いだから〜なしてそげんこと言うと?」
遥香は驚愕した様子で母に詰め寄った。
「だって、ウチの大事な大事な遥香ちゃんをどこの馬の骨かも分かったもんじゃない男に預けられる筈ないでしょう……?」
ん……? あの人、俺の母親だよな?
「なぁ母さん、それ、逆じゃないか……? まぁ俺的には母さんが常識ある大人だったと分かってホッとしてるけど」
「奏向ママ〜……」
遥香は泣きべそをかいた子供のような顔で、俺の母に寄り添い縋るように見つめていた。
「ぐっ……こ、この可愛さ……ビッグバン級だわ。やっぱり今夜は私が遥香ちゃんを抱いて寝るから、奏向には絶対渡さないわよ!?」
「ハァ、勝手にしてくれ……」
さっさと風呂を済ませてふと時計を見ると、現在の時刻は21時を回った頃だった。
熱さで目が回りそうだった俺は、先ほど買ったアイスを取りにキッチンへ向かう。すると隣のリビングでは、俺の母がパジャマ姿の幼馴染の髪をドライヤーで乾かしている。
こうやって見ると、本当の親子みたいだ。
俺の視線に気付いた遥香は母からドライヤーを受け取り、無邪気な顔で手招きをする。
「ねね、奏向の髪はあたしが乾かしてあげる!」
「俺はいつも自然乾燥派だ」
「将来ハゲちゃっても知らないよ〜?」
「そんな先のこと、別にいいよ」
「奏向は良くてもあたしが嫌なんだけど? あたしの叔父さん、まだ20代なのにもう髪の毛薄くなってきたって言ってたから心配なの!」
「なんでお前がそんなの心配してんだよ……」
「いいからこっち来て!」
言われるがままに遥香がさっきまで座っていた場所へ腰を下ろすと、生ぬるい風が頭皮を撫でた。
「お客さ~ん、痒いところはございませんか~?」
「それはシャンプーの時の台詞だろうが……」
遥香の小さな手が、わしゃわしゃと俺の髪をさする。この前も似たようなことがあったが、今回はお互いの顔が見えていない分、少しだけ気が楽だった。
「奏向の髪ってちょっと太いよね」
「そうなのか? 他の人の髪の毛なんてまじまじと見たことないし、今まで知らなかったな」
「だってほら、あたしの髪と比べたら……」
ドライヤーから響いていた騒音が一度鳴り止んだかと思うと、後ろにいた遥香がグッと距離を詰め、俺の目元に自らの毛先を近付けた。
――ふわりと香った、女の匂い。
今日は使っているシャンプーも同じ筈なのに、まるっきり違う香りにも思えてしまう。
それに加えて遥香の髪はそんなに長くないから、呼吸の音が、耳元で聞こえる。
青い髪の隙間から覗くうなじが、どうしようもなく色っぽい。
もう何もかもが、昔とは違っていた。
俺の知っていた、一緒に風呂へ入ったこともある子供時代の遥香は、もういない。
ここにいるのは、ひとりの女性。
そう意識を改めることに、十分すぎる出来事だった。
「本当に、全然違うな……」
「でしょう?」
偶然にも会話は成立していたけれど、俺には髪質の違いなんてどうだってよかった。
髪を乾かし終わって部屋に戻ると、いつも通り2人でゲームをして過ごしていたが、あれから俺は遥香を直視できずにいた。
「奏向って、1人の時も寝る前にゲームばっかしてるの?」
「そ、そうだけど……」
急だったから、慌てて視線を背けてしまう。
「なに? あたしの顔になんかついてる?」
「いや、違うけど……なんでお前は、そんな平然といられるんだ?」
「それどゆ意味……?」
ポカンと口を開き、顔を傾ける遥香。
「こんな時間に男の部屋に2人きりで、緊張とか、警戒心とか、ないのかよ」
喋っている途中でまた恥ずかしくなった俺は、下を向いてしまう。
「なーんだ、そゆことね。そんなのやっぱ、相手が奏向だから? 奏向以外の人とは絶対こんなことしないよ……」
「だからって、もうお互い、子供じゃないんだぞ……」
「あたしは奏向と大人になりたいから、今日ここに来たんだけど……?」
俺が視線を戻すと、そこにあったのは、幼馴染の顔などではなかった。
男を誘惑する――オンナの顔。
わかってはいたけど、言葉にされると瞬く間に現実味を帯びる。
「でも俺ら、まだ付き合ってないだろ……お前、最近ちょっと飛ばし過ぎなんだって……」
「そんなこと言って、奏向だって今、嫌そうな顔してないじゃん……」
自分が今どんな顔をしているかなんてわからない。でももし今の遥香と似たような表情をしているのだとしたら、そう見られても仕方がないと思った。
「俺は男だから、失うものなんてないけど……女のお前は違うだろ……?」
遥香は両手を床につき、二度三度足を擦らせて俺との距離を縮める。
「あたしが一番失いたくないのは、奏向と過ごす時間だよ……? それを守る為だったら、なんだってする……」
もう、逃げられない。
そう思った刹那、部屋の扉がノックされた。
「遥香ちゃん、もう1時だからこっちおいで~?」
扉の奥から母の呼ぶ声が聞こえると、遥香は物寂しそうに立ち上がり部屋から出ていった。
その夜、俺はなかなか寝付くことができなかった。
やっと夢と現実の狭間へ移動しかけた頃、背中に何かが触れた。
「奏向、起きて……? ねえってば……」
夢かとも思ったが、やけにリアルな感触と声に恐怖する。
「お前、なんでっ!」
暗闇で振り返るも、その姿はシルエットすら曖昧だった。
「しぃー! そーっと抜け出してきたんだから大きい声出さないで……!」
「はやく戻れよ……! バレたら俺が文句言われんだから……!」
「ヤダ……ねぇちょっとだけ、一緒に寝ちゃダメ……?」
そんなの駄目に決まっているのに、俺はその問いに即答できなかった。




