婚約破棄編
カスクス公爵家の夜会は、その時まで平穏に運営されていた。公子ジャンニ・カスクスが、すでに公爵家の一員として婚約者、マッキンリー侯爵家長女ハルモニアをエスコートし、公爵夫妻とともに歓迎の挨拶を終え、最初のワルツの前に喉を潤すグラスに口をつけるまでは。
「ハルモニア、いや、レディ・マッキンリー、すまない。婚約を破棄する。今日までの献身に心から感謝しているし、そなたに何の落ち度もない。私の有責での破棄である」
ハルモニアは落ち着いていた。ただため息をひとつ吐いて苦言を呈した。
「公子、何も今ここで。夜会が終わるまでお待ちになれば」
「その通りだ、だが、それでは公爵夫妻に言いくるめられるのは目に見えている。私有責で破棄するには、いま、ここで、それしかないのだ、本当に済まない」
「ミス・ファウンドランドにお子が宿りましたか」
公子の顔色が変わる。
「なぜそれを」
「なぜ知らないかもしれないとお思いで?」
壁際に立ち全体の掌握に努めていたカスクス家の家政婦長 (女性職域の統括職)が、傍に控えるメイドに指示を与えるとそっと使用人用のドアから出ていった。
家政婦長は、招待客に付き従ってきた侍従・侍女のために準備されている控室まで、両側に使用人部屋のドアが並ぶ半地下の通路を走ってたどり着いた。走るなんて何年、いや、何十年ぶりかしら、と心の中で頭を振りながら。
「ミス・マッキンリー、どちらに」
「はい、ここに」
タデイは何ごとかと大部屋に並ぶ椅子のひとつから立ち上がった。ミス・マッキンリーとは、レディ・マッキンリーの侍女という意味である。主に従って他家を訪れる従者は、主の爵位名に侍女はミス、侍従はミスターを付けて呼ばれる。大切なのは“誰の”従者かということだから。
百名を越える従者の名前をその都度覚えるのは負担が大きすぎる。
その場で呼吸を整えている家政婦長のために、タデイが近寄っていく。
「ミス・ロンバルディ、マッキンリー参りました」
「ミス・マッキンリー。ミスター・マッキンリーもいますね、ついておいでなさい」
「はい」
異変を感じてすでに近寄っていたアロイシスとともにタデイは静かに部屋を出る。
廊下を少し進み、手近なメイド休憩室のドアを開いてふたりを招き寄せたミス・ロンバルディは、小声の早口で簡潔に説明する。
「お詫びはまた改めて。今は危急の場合と心得てください。
小公爵様、御乱心です。レディ・ハルモニアに婚約破棄を突きつけました」
はっと息を飲むタデイとアロイシス。
「どうして……」
驚愕に目を見開くタデイ、そして、ただ表情を消しているアロイシス。
「いまはもう、できるだけ早くレディを会場からお出しせねばなりません。
ミス・マッキンリー、お名前はタデイでしたね、こんなにも長く連絡を取り合い、おふたりの末永き未来を支えて行こうと力を合わせてまいりましたのに、本当に残念です」
「はい、ミス・ロンバルディ。レディ・マウントレーニアとお呼びするのも、これが最初で最後となるかもしれませんが、御尊敬申し上げておりました。長きご厚情に感謝します」
「タデイ、ありがとう。涙はまた今夜ゆっくり流しましょう、今は急ぎレディをお帰しなくては。
タデイは私とともに大広間に、アロイシスでしたね、ミスター・マッキンリー、あなたなら信頼できます。馬車を西の車寄せに。公爵家のご家族が使う方の車寄せです、ご婚約以来レディがお使いになっているのでよくご存じですね。必ずわたくしとタデイがレディをお連れします。頼みましたよ」
アロイシスが扉から飛び出し、次いでミス・ロンバルディが、タデイを従えて急ぐ。
使用人用の通路を足早にたどり、目立たないドアから会場に滑り込む。
ハルモニアは、ミス・ロンバルディの短い指示を的確に読み取ったメイドのリードで、マッキンリー家寄子の貴婦人に取り囲まれてドアのすぐ傍に来ていた。
「マイ・レディ、ミス・ロンバルディとともに馬車までご案内いたします」
「タデイ、来てくれたのね」
主の背後にするすると近寄った侍女の声に、ようやくハルモニアの肩の力が抜ける。そして、自分を取り囲んで無遠慮な視線や不躾な接近から庇ってくれた貴婦人に、細く低い声で礼を述べた。
「みなさま、今日の御恩情は決して忘れません。このような次第ですので、しばらくは社交をご遠慮することになるでしょうが、できるだけ早い時期に内々のお茶会にお招きしたく」
壁になってくれた貴婦人は、扇で口元を隠して軽く頷き、あるいは胸に手を当てて微笑み、それぞれのやり方で好意を示した。マッキンリー侯爵家の寄子である以上当然の行動だが、だからと言ってハルモニアが礼を失することはない。
ミス・ロンバルディに先導され、タデイを従えて去っていくハルモニアの、紺色の髪と紫のドレスが閉まるドアに遮られて見えなくなった。
さて、どうなったか見てあげましょう、と公爵家の長男を振り返ったが、そこにはもう彼の姿はなく、ただ公爵夫妻がにこやかに立って、何ごともなかったかのように二、三の貴顕と話しているだけだった。公爵はハルモニアが無事にドアを出たことを視界の片隅で確認し、手を上げた。
ダンスの時間となった。公子とその婚約者が最初に踊るはずだったワルツを、公爵夫妻が優雅に踊り始めた。続いて何人かの男性がパートナーの手を取って軽く手の甲に唇を寄せ、にこやかにワルツに参加していく。何事もなかったかのように。
ミス・ロンバルディに従って、狭い通路を行く。それは、西の車寄せで公爵家の家族を送り迎えする使用人のための通路だ。「このように見苦しい場所をお通りいただくとは誠に申し訳ありませんが、不躾な者に出会いましては無駄に時間を取られます、どうぞご寛恕くださいませ」と謝罪されながらのことだが、ハルモニアとタデイにとっては感謝しかない。家政婦長という、上位貴族家で夫人直属の地位にある者であればこそ選ぶことができる、非常の措置だ。
ロンバルディとは公爵夫人の実家の侯爵家の称号で、公爵家での呼び名である。実の名はマウントレーニア候爵未亡人、マルキオネス・マウントレーニアだ。公爵夫人の従妹に当たり、子がなかったために夫人直属の、侍女長よりさらに上の家政婦長の地位についた。職務は侯爵夫人の相談役および使用人全員に対する冠婚葬祭等諸儀礼への対応だ。使用人の中には公爵領から奉公に来ている者もあり、その出身の把握と儀礼対応には膨大な情報量を必要とする。
彼女の存在によって、公爵夫人は公爵の補佐に集中できるようになっている。
たどり着いた車寄せには、どんな離れ業を使ったか恐るべき手際でこの短時間に馬車を回してきたアロイシスが待ち受けていた。
ハルモニアは、ミス・ロンバルディの手を取り、これが別れであることがわかっていることを伝えた。
「ありがとう、レディ・マウントレーニア、もう会うこともなくなるかもしれません。ですが、この感謝の気持ちは忘れません、公爵夫人と家政婦長のあなたがいれば、公爵家で何年か生活していくことも決して難しくないと思っていました。本当に残念です」
「レディ・マッキンリー、ハルモニアさまとお呼びするのもこの一度だけ、どうぞお許しくださいませ。僭越ながら、マダム・カスクスと同じく娘のようにおかわいらしく思い、賢くおありのご様子に、カスクス公爵様も長生きなさるものと安堵しておりました。誠に今日のことは申し訳なく、わたくしにも責めあることと……」
「いえ、小公爵様は気の病にございましょう、責任など誰にもありません。さあ、もうお義母さま、いえ、公爵夫人の所へ。どれほどお気落ちかと思うと。いまは一刻も早くお仕えする方の所へ」
「はい、それでは。不躾ながら、これにてお見送りの時を惜しませていただきます」
ミス・ロンバルディは、膝を折って一瞬目頭を押さえたものの、すぐに踵を返して足早に使用人通路へと消えていった。
小公爵のしでかしたことの後始末に、彼女はなくてはならない人だ。カスクス家には長い夜が待っている。
「マイ・レディ、さあ、馬車にお乗りになって」
タデイの声に我に返った。
「ええ」
アロイシスがハルモニアを馬車に乗せるために手を差し出しながら、ごくまじめな顔で囁く。
「お嬢、殺りますか?」
「アロイシス、言葉使い」
タデイが小声で叱責するが、問題はそこじゃない、ンじゃないかな~。
「マイ・レディ、この始末をつけてきますが」
「ばかね、アロイシス、今殺すなんて、あなた優しすぎるわ」
「はあ、そうでしたか」
「さあ、帰りましょう。あなたが手を汚す必要なんかないのよ」
「はあ」
「死ぬ方が楽だ、と公子は思うことになるのよ。待っているだけでいいの」
「はあ、そういうもので」
「そうよ、さあ、帰りましょう」
カスクスは、前王の庶子、現王の兄に与えられた、王の兄弟のための公爵位のひとつだ。王兄が神去りませば名は王家に返還され、嗣子には伯爵位が与えられる。
公爵位は現王の二親等までで、嗣子ジャンニの誕生を機に公爵位と地位に付属する領地および城を授かった。たとえ公爵位を受けようとも、王子であること、王族であることに変わりはないから、結婚以来夫人とともに住んでいた王宮内の私的領域に住み続けている。
独身時代に引き続き、王国第二軍を率い、外交で定められた役割を果たし、内政では主として地方巡行で国内を巡り、多くの慈善団体や国際交流機関の名誉総裁を務める。公務の量が量だけに、領地の城に滞在できるのは、施政会議が休みになる夏の間となる。しかも公爵は施政会議や社交パーティーが続く間に後へあとへと回されていた書類仕事をこの間に片付けなくてはならないから、夏休暇と言っても僅かの間だ。
公爵夫人はふたりの息子とともに領城に帰り、夏をそこで過ごす。幼い子をのびのびと山野であそばせ、からだを作るためだ。領城なら王城にいるよりも若干であれ自由度が高い。
それが裏目に出たというべきか、ジャンニは領地にいる間にひとりの少女と出会い、幼心に恋をし合い、そして、ついに父が息子たちの未来のために結んだ婚約を破棄してしまった。
公爵は自分の死後のことを考慮して、伯爵位を復位として保持しながら侯爵位を名乗れるよう、長男ジャンニとマッキンリー候の一人娘、侯爵家継嗣であるハルモニア・モニカ・マッキンリーとの婚約を成立させた。次代の王の従兄との婚姻だ、侯爵家にも受け入れるだけの理由はあった。
夜会から一日置いたその日は、空が抜けるように青く晴れ渡っていた。
ハルモニアは王都屋敷にいて、祖母から受け継いだ花園の中でお茶と軽食を楽しんでいた。花園はレンガの壁に囲まれた縦横二十メートルほどの土地で、先代候爵夫人のために先代公爵が造らせた花園だ。
その花園は、足腰が痛んで庭仕事が難しくなった先代夫人から、孫であるハルモニアに譲られたのだった。大きな真鍮の鍵を首に掛けてもらい、孫は祖母の膝に両手を組んで置き、「大切にします、今のまま守っていきます」と誓った。
花園には、そこで同じ時間を過ごした祖母との思い出が詰まっている。壁には蔓バラが絡み、春から初夏に白い一重の花を咲かせる。蜂が蜜を集めに来て、あちこちの花をブンブンと羽音をたてながら巡回していく。バラの棘に守られて、胸の赤いコマドリが巣を作る。
壁で囲まれた花園は、常に人目に晒されている貴婦人にとって数少ない息が付ける場所だ。花園の鍵が彼女の秘密を守ってくれる。そこで手紙を読み、腹心の侍女と同じテーブルに着いてお茶とをいただく。ここでしかできないことだ。
肥料を運んでくる口の重い庭師と一言二言交わす場でもあるのだが、ハルモニアの場合は、庭師は当然のようにアロイシスが務めているし、同じお茶のテーブルに、アロイシスの席もある。
「マイ・レディ、公子をこのままにしておけません」
アロイシスが、テーブルについてゆっくりとお茶を楽しんでいる主に訴える。
「まず座ってお茶になさい、話は聞きましょう」
「はい」
いつもの椅子に掛け、ティーカップを手に取る。その作法は侯爵家の嗣子の身近に仕える者に必要十分な、洗練されたものだ。
「マイ・レディ、わたくしも気になっております。あのような場所でミス・ロンバルディがお謝りになるほどの異常事態、一体何が」
「そうですねぇ、気の病としておくのが一番ですよ」
「それはそうではありましょうけれども」
「アロイシスも気になるのはそこですか?」
「いえ、マイ・レディ、今すぐちょっと殺ってきたいのですが」
「もう、人の話を聞きなさいって、そんな必要ないのです」
「はあ」
「それはつまり?」
「いいですね、大きな声を出してはいけませんよ、壁の中だからこそ誰かが聞き耳を立てているかもしれないと用心しましょう。
公子はもうおしまいです。二度と人前には現れません」
「え?」
「そうなのですか?」
「驚くことですか? 当然でしょう。
公子は、夜会の途中で突然錯乱なさったのです。直ちに執事が衛兵とともに公子を広間から連れ出しました。執事は泣きそうな顔をしていました。
つまり、公爵家では公子がこの夜会を乗り切れるかどうか試しておいでだったということです」
「試して?」
「ええ、公子には恋人がおいででした。幼少時に過ごした夏の公爵領で出合い、幼い恋に落ちてそのまま成長なされてしまいました。
お相手のミス・ファウンドランドは、もとファウンドランド伯爵家のただ一人処罰を免れた娘です。十五年前伯爵家が外患予備というほとんど冤罪のような、それでも処罰するしかない罪で一族三親等まで処刑された時、まだ乳児だったため身分も財産もすべて失いはしたものの、命は許されて王領の孤児院預かりになっていたのです」
「マイ・レディ、公子はマッキンリー家にお入りになる御予定でしたのですよね? そのような方が、婚前に恋人ですか? しかもお子を宿しておられたのですよね」
「いえ、違いますわ。わたくしの嫁入り準備が進んでおりましたでしょう?」
「はい、ですが……」
「そうですね、このあたりは貴族の面倒なところです。
公爵家の嗣子が養子に出ることなどありませんわ。ですが、カスクス公爵がお亡くなりになった後公爵家はどうなるか知っていますよね」
「はい。本来貴族家は嗣子が称号を継ぐので、公子もカスクス公爵となるはずです。ですが、公爵家は現王の二親等までです。ですから、現王が子を残さずに死亡し、カスクス公が王位に就くということにならない限り、一代限りの爵位です」
「そうです、王には三人のお子がおありです。第一王子への王太子宣言も出ておりますし、公子はカスクス公となることはありません。
アロイシス、少しは勉強していますか? この状態でカスクス公が亡くなれば、ジャンニ・カスクスの処遇はどうなります?」
アロイシスはちょっと頭が痛そうな顔つきになったが、なんとか答えることができた。
「カスクス公爵の称号と地位は王に返還されます。これを継ぐのは第二王子殿下で、ご結婚なされ、子を得た時となる? そうですね?」
「はい、よくできました。その通りです。公爵位は現王の二親等まで、つまり、王の親、子、兄妹までですからね。現王の甥、そして次王である現王太子の従兄であるジャンニ・カスクスがその地位につくことはありません」
「では、タデイ、公爵を継ぐことができないジャンニ・カスクスはどうなります?」
「マイ・レディの婿となって侯爵位を名乗る予定でした」
「そこが間違っているのよ、タデイ。
わたくしはカスクス家に嫁ぎますが、名は、ハルモニア・モニカ・マッキンリー・カスクスとなるはずだったのです。マッキンリー家の相続権を持ったまま、カスクス家に嫁いだということです」
「はあ、面倒なことですねぇ。ではわたくしとアロイシスはカスクス家にご一緒しますけれども、身分はマッキンリー家の使用人ということですか? あ、すいません、そうなるはずだったと?」
「そうです。ふたりは、わたくし個人の使用人としてわたくしの監督下にあり給金も休暇の許可もわたくしが出すことになっていました」
「なるほど、そういうことだったのですね」
アロイシスが口を出す。花園ではこれが許される。
「ですが、マイ・レディ、そうなるとジャンニ公子は公爵の死後、伯爵位を授けられる予定ですよね、その時は、カスクス公爵の公子であったが、マッキンリー侯爵の跡継ぎの夫であり、伯爵位を授けられるということになるのですか?」
「ええ、そうよ。今までカスクス家が自由に出入りしていた王宮の生まれ育った領域は、現第二王子殿下の領域となります。そのままではなく、位置は変わると思いますよ、安全のためですから。おそらく先王の頃使用していた場所になるでしょうね、ドアの位置や通路を詳しく知っている者がいなくなってから使うのです」
「ジャンニ・カスクスは、カスクスの返還と同時に新たな伯爵位と紋章を受けます。ですが、受け取ってすぐに弟であるジョバンニにそれを譲り、マッキンリー侯爵夫人、つまりわたくしね、マッキンリー家の跡継ぎの夫としてマッキンリー侯爵を名乗る予定になっていました。別に婿ではないのです、継承権の内のひとつはわたくしを通じて持っていることになるのですが、様式美です。ジャンニは、マッキンリー候を名乗り、その時点で父が生きていれば父は引退することになっていました」
「つまり、次代侯爵はジャンニ公子になる予定だったと?」
「ちがいます。次代侯爵はわたくしです。わたくしの代の侯爵位はマルキオネス・マッキンリーとなり、爵位に付属するすべての権利と義務はわたくしにあります。
ジャンニ公子は名誉称号で侯爵を名乗ることができるのです。それは主として軍事については夫となる人が行くことになるからですよ」
「はあ、面倒なことですね」
「わざと面倒にしてあるのでしょうね。これを理解しない者は貴族たりえないし、我が国と外交関係を持つ資格なし、ということです」
「そうでしたか」
「満足しましたか? アロイシス」
「え、いや、そうではありません、マイ・レディ。ジャンニ・カスクスをこのままにしておいていいのですか」
「あら、このままにしておくかどうかはカスクス家が決めること」
「いや、私がキメてきますけど」
「必要ないわ。
アロイシス、考えればわかることよ」
「はあ、そうですか」
「宿題にしておいてあげるわ、考えてごらんなさい」
ほほほほ、と、ハルモニアは楽し気に笑って、サンドイッチに手を伸ばした。
タデイとアロイシスは宿題と言われて少々不満げではあったが、ハルモニアは「別に難しくはないわよ、貴族の考え方を知るにはちょうどいいでしょ」と、回答が出る日を楽しみに待つことにした。




