死にゆく聖女は愛の呪いをかけた
聖女とは、万能な道具だ。
この世界は平穏ではない。病気。怪我。周りを見渡せばそんなものは日常だ。
死の危機に直面した人間を救えるのは誰か。
病気や怪我を一瞬で治すことができるのは、聖女だ。
聖女は自身の命を削るとの引き換えに、治癒魔法を使うことができる人間だ。
そんな聖女として生まれた人間が、自分の人生に疑問を持たないのは、当然のことだった。
自分の命を削って。削って。削って。削って。
最後に辿り着くのは死だ。
私も例外ではなかった。当然のように、依頼されるままに、命じられるままに治癒魔法を使って、命を削ってきた。
もう命の灯火が消えようとしているとき。私にすがりつく男が1人。
「やめてくれ、アウロラ。いかないで」
聖女様、としか呼ばれない中、私の名を呼んでくれるのはこの人だけだ。
ヴェスパー・リースト侯爵。私の夫。「聖女」と結婚することを押し付けられた彼だったが、私のことを大切にしてくれた。
そんな彼がぽろぽろと涙を流すのを見て、愛おしい気持ちが広がる。
私達の結婚に私達の意思はなかった。それでも、今の私はこの人に愛情を持っている。きっとヴェスパーさまも同じ。
「ヴェスパーさま」
「アウロラ。愛しているよ」
この人と結婚できて良かったな、と思う。それと同時に醜い感覚がわき上がる。
この人に、私以外の人間と結婚してほしくない。私が死んだあとも、忘れてほしくない。
なんて狡くて酷い願いだろうか。この人を縛り付けるなど、そんなことをしてはいけないのに。それなのに。ドロドロとした感情に覆われる。
ああ。本当なら、聖女として、こんなことを考えてはいけない。
それでも、ごめんなさい。私のことをどれほど恨んでもいいから。私のことを、忘れないで。
「ヴェスパーさま」
「アウロラ、どうしたの?」
そう言って声が聞こえるように顔を近づけてくれた彼に、私は口づけをした。
聖女としての最後の力を使いながら。
「アウ、ロラ。まさか……」
「ごめんなさい。ヴェスパーさま。愛しているわ」
金の瞳を大きく見開いている彼に微笑みかけた。
彼の動かなかった左腕の治療と引き換えに、私の最後の命を。
ヴェスパーさまの左腕は怪我により動いていなかったが、私からの治癒魔法を拒絶していた。私の命を削ることはしたくないと言ってくれていた。
そんなヴェスパーさまの優しさを踏みにじり、私は最期の瞬間に治癒魔法を使った。
薄れゆく意識の中、彼がぽろぽろと涙をこぼしながら私の名を呼んでいる気がした。
ごめんなさい。ヴェスパーさま。
これは、呪いだ。私の死後、この人が私のことを忘れないようにするための、呪い。
死の間際にそんな呪いをかけた。聖女としてはあるまじき行為。
願わくば。来世があるのなら。彼と会うことはありませんように。私は優しい彼を愛してしまうだろうから。
◆
「……は?」
私はなぜか目を覚ました。死んだはずなのに。死んだ年よりも幼い、10歳として。すぐには何が起こったのか、全く理解ができなかった。それでも私は「アウロラ・ベルク」のままだ。西暦などを確認したところ、時間がまき戻ったようだった。
世界は、私の知るものと大きく変わっていた。
私が治癒魔法を使える「聖女」ということには変わらない。それでも、前と比べて世の中が圧倒的に「平和」になっていたのだ。
前はこの国を蝕んでいた病は流行っていない。前は絶えなかった戦争は起こっていない。
その平和に慣れるのに時間がかかった。病気の人がいる、怪我人がいる、といつ呼び出されるか気を張っていたが、一向に呼び出しを食らわなかった。
それに何か、物足りない感覚があった。私は――聖女は、国家の道具だ。言われるままに治癒魔法を使うだけの存在。ただ、それだけ。
しかし、今の世界では国家の道具ではない。ただ、治癒魔法を使える人間というそれだけだ。聖女として呼びつけられることもなく。私は普通の貴族令嬢のように生活をすることになった。
◆
ある日。この生活に慣れてきた私に来客があった。
私の目の前で跪く男。彼は真っ赤な薔薇を数え切れないほど抱えている。
「どうか、私と結婚してください」
「え……?」
求婚にしきたのは、ヴェスパーさまだ。前の結婚は国からの命令。しかし、今回はそんな命令は出ていないはず。ヴェスパーさまの行動が理解できない。
「なぜ、あなたが私に求婚なさるのですか?」
「なぜ? それはアウロラ、嬢。あなたと結婚をしたいからです」
結婚したい理由は、結婚したいからなんて。全く説明になっていない。
そして、気になることがあった。ヴェスパーさまが私の名前を呼ぶときに、自然と呼び捨てをしようとして、慌てて「嬢」を付け加えたように聞こえたのだ。
「リースト侯爵閣下。今、私のことを……。いえ、なんでもありません」
わざわざ聞く必要はないと途中で思い直し、止めようとした。しかし、勘の良い彼には伝わったのだろう。ヴェスパーさまは一気に表情を明るくした。
「アウロラ。もしかして、覚えている?」
「はい。何が起こったのかは分かっていませんが」
そう言うとヴェスパーさまはとても嬉しそうに笑った。大きな花束が落ちる音とともに私の視界はヴェスパーさまでいっぱいになる。
「待ってください、ヴェスパーさま。婚約も、していないのに。抱きしめるなど」
そう言うと私を解放したヴェスパーさまが、泣き出しそうな顔で私を見つめてきた。
「今度は、結婚してくれないの?」
その表情は、私の最期のときの表情を似ていて。心臓をぐっと掴まれたような感覚となった。
「結婚します」
「良かった」
つい勢いで言ってしまった。それでも、心底嬉しそうにふんわりと笑ったヴェスパーさまを見ると、拒絶の気持ちは湧いてこなかった。
しかし、すぐに我に返る。ヴェスパーさまと再び結婚するのは、現実的ではない。
「ヴェスパーさま。私はあなたと結婚したいです。それでも、難しいのではないですか?」
「なんでそう思うの?」
じっと見つめてくるヴェスパーさまの表情に懐かしさを覚える。昔もこうやって、優しい目を私に向けてくれた。
その眼差しに気を取られながらも、私は口を開いた。
「前は聖女という価値があるからあなたと結婚できました。今回は聖女の地位はそこまで高くないです。だから、侯爵のあなたとの結婚は難しいかと」
前はヴェスパーさまが押しつけられる形で「聖女」である私と結婚をした。結婚という名目で、国から逃がさないことが目的。それを分かっていながらも、国からの命令を無視できるはずがない。
しかし、今回は違う。聖女を縛り付ける必要もなく、国は平和だ。私とヴェスパーさまが結婚する理由はどこにもない。
軽く首をかしげたヴェスパーさまが、ふっと笑った。その表情はあまりにも自信ありげだった。
「私がなんとかする。してみせる。アウロラの家の名誉を少しも傷つけることなく、君と結婚する。絶対に」
その真剣な眼差しに、思わず息を呑んだ。なぜ、そんなに断言をできるのか。この人は、私の知るヴェスパーさまだろうか。
「ヴェスパーさま」
「なに?」
「なにか、変わりましたか?」
「私は私のままだよ。君を愛している私は、何も変わっていない」
そう言って笑う姿は穏やかだ。しかし、違和感が拭いきれない。何かが、違う。
それは、私からの呪いのせいかもしれない。
「ヴェスパーさま、ごめんなさい」
「何への謝罪?」
不思議そうにしている彼にこのことを言えば、嫌われてしまうだろうか。それでも、言わないと。私の最期の呪いから、解放しないと。
「私が死ぬ直前、あなたに治癒魔法を使ってごめんなさい。あの後、ずっと忘れられなかったでしょう?」
「……忘れた日はないよ」
寂しげに目を伏せたヴェスパーさまを見ながら、私は思いきって告げる。
「あれは呪いのつもりだったのです」
「呪い?」
「私を忘れないでという、呪い。非道で残酷なもの」
呆気にとられて私を見つめたヴェスパーさまだったが、声を上げて笑い出した。
「あはは。そうか。呪いか。言い当て妙だね」
彼から怒りは見えない。むしろ楽しげに笑い出した彼を見て、私は恐る恐る尋ねる。
「……怒らないのですか?」
「怒らないよ。私だってアウロラのことを忘れたくなかったから」
その言葉に、ぶわりと温かい感情が広がった。良かった。私だけではなかった。ヴェスパーさまも私を忘れたくないと思っていてくれたなんて。夢みたいだ。
少し思案していた彼が、私に笑みを向けた。
「それなら、私も君に呪いをかけよう」
「え?」
「本来なら、この世界には『ないはずのもの』を『ある状態』にした。私は、この世界を歪めたんだ。君に魔法を使わせないために」
話がよく見えない。見えないけれど。今の「平和な世界」にするために、ヴェスパーさまが何かをしたのではないか。
そんな予測をしながら、彼の言葉を理解しようと尋ねる。
「本来ならこの世界になかったもの、ですか?」
「手洗いが大事。石鹸やマスクの幅広い普及。換気の重要性。公衆衛生という概念。絶対にこの世界の人間なら知らなかったこと。それを周知させた。戦争が起きそうな原因も全部潰した。それらは、『聖女』が治癒魔法を使わないために、流行病や怪我を減らしたかったから」
確かにヴェスパーさまが言ったものは、以前はなかった。その「なかったもの」を「存在するもの」に変えたのがヴェスパーさまだというのか。
『世界を歪めた』とヴェスパーさまは言った。歪んだかどうかは分からない。
少なくとも、聖女が治癒魔法を使う理由の大部分が排除されている。
ヴェスパーさまがこの国を変えた原因が私だとするのなら。確かに特大な呪いだ。
「なんでそんなことができたのですか?」
「……ごめんね。本当は、前もできたんだ。私は知っていた。それでも、いろいろ言い訳を作ってやらなかった。そのせいで、君は……」
苦しそうに下を向いたヴェスパーさまにかける言葉が見つからない。何を言えば、彼は笑ってくれるだろうか。
必死で考えていると、ヴェスパーさまの金の瞳が真っ直ぐに私だけを見つめる。
「だから今度こそ。絶対に君を死なせない」
その断定的な言葉に、自分の心臓がうるさい音を立てて鳴り始める。
穏やかな笑みを浮かべたヴェスパーさまが、私にだけ聞こえる声の大きさで囁いた。
「アウロラ、愛しているよ」
「私もヴェスパーさまを愛しています」
そう言うと、ヴェスパーさまがこの世の幸福を全部手に入れたような顔で笑うから。
この人と一緒になれるのなら、いくらでも呪いをかけるし、かけられても構わない。そんな気持ちで笑った。
転生者のヴェスパーさま。地球の知識をいろいろ持ち込みました。