#8|残されたものは
公園での散歩から数日後、孝人からの連絡は一切無かった。もしかすると、あの日一人で帰った孝人は、もう私の顔なんて見たくないのかもしれない。
そんな、どうしようもない不安に反して、私は今日も、孝人にきっと会えるであろう図書館に、立ち寄っていた。
いつもの二人席に向かうと、予想通り孝人が本を読んでいる。手元には、変わらない押し花の栞。後味の悪い別れ以来、初めて顔を合わせるため、不安からか本を持つ手先がわずかに震える。前のように、手を振ってみたり机を叩いたり、気安く呼びかけてもいいのだろうか。
私は熟考した結果、わざと音を大きくして本を置いてみた。すると、孝人はすぐに気付き、顔を上げる。
「こんにちは」
私は普段通りを装い、笑いかけて席に着く。
「お久しぶりです」
孝人は気まずいのか、目線を逸らして黒縁眼鏡をクイッとあげた。
その後の会話は続かなかったが、私は気にせずに本を広げる。孝人は、多少なりとも一人で帰宅したことを悪く思っているのだろうが、私は別に会話が出来なくても、二人で一緒に過ごせる時間が好きなのだ。
それにきっと、孝人から謝罪をしてくれるのだろうと、思っていた。
「あの」
しばらくして、孝人が声を発する。
「香織さん、ここで読んでいて構いませんので、僕は別の席に移動しますね」
孝人は荷物を抱えて、席から離れようとする。私はその言葉を聞いて、思わず「は?」という言葉が出そうになったが、直前で飲み込んだ。
気まずさの余り、本に集中できないことが理由なのだろうか。それとも、私の顔をもう見たくないのだろうか。
どっちにしろ、目の前にことから逃げようとしている孝人に苛立ち、私は机越しに、孝人の腕を勢い良く掴んだ。
「ひっ」
私の睨みつけるような形相に怯えたようで、孝人が小さく悲鳴を漏らす。
「孝人さん。今すぐ、庭園で話をしましょう。本を読むのは、後からです」
私は空いている手で、窓の方を指した。
孝人は、年上とは思えない程に顔を強張らさせて、「はい……」と消えるような声で答えていた。
庭園に行くと、曇り空のせいで気温が下がっていた。涼しい程度だったため、いつも座っているベンチに腰掛ようとすると、突然空から雫が落ちてきた。その直後、雨が勢い良く降り出した。
「香織さん! 向こうに屋根ありますから、一旦こっちに入って下さい!」
「うわっ!」
孝人は、急いで持参したビニール傘を広げると、私の肩を無理矢理掴んで、傘の中に入れた。勢い余って孝人に衝突してしまったが、孝人は構わず屋根小屋の方へ、私を連れて行く。
もう傘の中に入ったのに、右肩から離れない広くて大きい手に、胸がざわつく。いつもより距離が近いせいか、空気を纏う雨の匂いより、清潔感のある柔軟剤の香りの方が、私の鼻をくすぐっていた。
東屋と言われる、屋根の下にあるベンチに着き、孝人が傘の雨を払っている。
「すみません。無理矢理掴んでしまって」
孝人が傘を閉じて、振り返る。
「全然! むしろ助かりました」
私は笑って返し、逆に嬉しかったですという本音を、胸の奥にしまっておいた。
孝人はその表情を見て安心したのか、ベンチに座っていた私の隣に腰掛ける。
「香織さん。あの時は迷惑を掛けて、すみませんでした。香織さんを置いて、先に帰ってしまいましたし」
両膝に手を当てて、俯きながら話す孝人の姿は、いつもより小さく見えた。
「体調が悪い日もありますよ。正直に言うと、私にとっては、公園に置いてけぼりにされた方が辛かったです」
「そうですよね。僕が自分のことで沢山だったために、巻き込んでしまってすみません」
孝人は、また頭を下げた。
こんなこと、以前にもあったような気がする。誠実な孝人から、何度も「すみません」と謝られると、私まで段々と申し訳なくなってくる。
「孝人さん、もう謝らなくていいですよ。何か理由でもあったんですよね」
一旦、孝人の謝罪を止めようと、私は話の流れを変えた。
「はい。そのー……」
孝人は何かを言おうとして、また口を噤んでしまった。孝人にとって、まだ私は打ち解けられる人間ではないのだろうと、嫌でも分かった。
「無理に話さなくてもいいですよ。その時まで、私は待っていますから」
再び気まずい関係になりたくないため、私は孝人を慰めることしか出来なかった。孝人は申し訳なさそうに、お礼を言った。
静かになった空間に、屋根に当たる雨音が、ザーザーと響く。
「意外と、今日みたいな雨の日もいいですねー」
「うん、そうだね」
私は一つ、深呼吸をする。
「私、孝人さんと居る時間が好きです。なんだか、落ち着きます」
「それは、僕もだよ」
心臓の音が、加速していく。孝人に、この音は聞こえていないだろうか。胸のあたりを、ギュッと掴む。
「香織さん」
「な、何でしょう?」
孝人は顔を俯かせたまま、口を開いた。
私は、胸に当てていた手を、もう一度強く握る。雨音よりも、胸の鼓動が全身に響いている。
「さっき香織さんは、僕が全部話すその時まで待つって、言ってくれましたよね」
「はい。いつまでも待ちますよ」
私は、さぞ当たり前だという風に、孝人を見つめた。
孝人もゆっくりと顔を上げ、私をじっと見る。その瞳には、わずかに涙が浮かんでいた。
「——その時って、いつですか?」
そう呟いた孝人の顔は、どこか寂しそうで、助けを呼んでいるようだった。
私は勢い良く、孝人を抱きしめる。
「私は、今話してくれてもいいんですよ。でも、孝人さんが話したいタイミングもあるでしょ?」
「でも僕は、そこまでの勇気が出ないんだ」
私の肩が、濡れた感覚がする。きっと、孝人が涙を零したのだろう。鼻を啜る音がする。そっと、私の背中に、孝人の手が触れた。
きっと、孝人は人に、何かを打ち明けたい気持ちはあるのだ。それとは反対に、相手の反応を怖がっているように見える。プラスとマイナスの気持ちに挟まれて、苦しい思いをしているのだろう。
この私が、孝人を救うために出来ることは—
「じゃあ私が、孝人さんの側にずっと居るって、約束します!」
「僕の為に、そこまでしてくれるの?」
孝人の照れたように笑う声が、耳元で聞こえる。私は、孝人の側にいるために、想いを伝えるなら今しかないと確信する。
抱きしめ合っていた体を離し、再び孝人を見つめる。その顔は、涙のせいで幼く見えた。
「だって私、孝人さんのことが好きなんです」
孝人は涙で潤んでいた目を、大きく見開いた。
きっと、私は破裂しそうなくらい顔が紅潮しているのだろう。生まれて初めて、こんなにも告白することは勇気のいることなのだと、実感した。
孝人は何も言わず、数秒間黙り込んでいる。沈黙に耐えられなくなった私は、諦めて口を開いた。
「孝人さん。何か言ったら——」
突然、口を閉じられる感覚がする。目の前には、閉じられた切れ長の目。それはすぐに離れていき、代わりに柔軟剤の匂いが、フワッと香った。
「ごめん……」
孝人はその一言だけ残して、また私一人を置いて、立ち去って行った。
雨の音が反響する、屋根の下。私に残されたものは、唇に残った柔らかい感触と熱、だけだった。
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