#1|当たって砕けろ
「あの香織がねー。そんなことあるんだね」
「私もびっくりした。やっぱり私、ギャップに弱かったんだなあ」
次の日、私が担当している文芸コーナーがある三階の休憩室に、頭頂部が少し黒くなった桃色の髪を一本に束ねている同僚の泉知紗が、昼休憩だからと遊びに来てくれていた。
二階にある漫画コーナーを担当しているのにも関わらず、昨日私が『恋に落ちちゃった』とメッセージを送ったことを気に掛けて、わざわざ話を聞きに来てくれている。
知紗と出会った当初は少しぶっきらぼうな喋り方のせいか、とっつきにくい人間なのかと思っていた。しかし、同い年ということもあって意気投合し、今ではお互いに良い相談相手となっている。本屋の店員とは思えない派手な見た目に反して、気を遣ってくれる優しい一面もあり、そういう所が好きだと常々感じる。
「それで、その後声掛けたの?」
知紗は、私の隣のパイプ椅子に座り、コンビニのサラダパスタを長机で開封しながら問いかける。
「実は——」
私が恋に落ちたと確信した直後、急いで適当に本を取り、例の彼に「向かい座ってもいいですか?」と、わずかな勇気を振り絞って声を掛けた。すると、彼から優しい笑みと共に、「大丈夫ですよ」という言葉を貰い、無事に同じ机を共有して座ることが出来たのだ。
しかし、私が手に取った本が思った以上に私の好みで面白かったため、集中して読んでしまった。
読み終えた頃には、すでに辺りが暗くなっており、気が付くと向かいの席に座っていた彼の痕跡が、跡形もなく消えていた。あの時の、自分を何度馬鹿だと思ったことか。
彼のことで最終的に覚えていたのは、机の上にあった押し花の栞と、彼が読んでいた『幾田村事件』という、いかにもミステリ小説っぽい本だけだった。
「馬鹿だねー」
話を聞いた知紗の第一声は、少し呆れていた。いかにも同情するといった顔を作りながら、サラダパスタを啜り始める。
「もう会えないのかな……」
自分のやってしまった行動に対して少し落ち込み、ぽつりと呟く。
すると突然、
「じゃじゃーん。ここで朗報です!」
と知紗が大きい声を出す。
「香織って今日は何時上がり?」
「十五時だけど?……あっ!」
知紗は思惑に気付いた私に向かって、いかにも名案だという風にドヤ顔をする。
「今日は例の彼がいるか分からないけど、当たって砕けろじゃない?」
「図書館は二十時までだから、全然余裕!今日は残業ならないようにしなきゃ!」
気持ちをすっかり立て直して張り切る私を横目に、知紗が「頑張れー」と無気力な応援をしながらサラダパスタを啜った。
その余裕そうな姿が、なんだか恋の先生みたいでかっこよかった。
知紗に言われた通り、「今日が早番だ」という強運を逃さないように、定時に間に合うように急いで仕事を片付けた。それから、桜が咲いている木々を他所に街中を走り抜け、あっという間に夏川図書館まで来ていた。
自動ドアをくぐり抜けて図書館の中に入ると、少しだけ空気がひんやりとする。久しぶりに走った後で火照った体が、徐々に冷えていくのが分かる。
全身の火照りが鎮まった直後、頭も冷えて正気に戻り、すでに彼は帰ってしまっただろうかという不安が押し寄せる。
しかし、知紗から「当たって砕けろ」と言われた手前、裏切るようなことはしたくない。「もしかしたら前と同じ席に居るのかもしれない」というわずかな期待があることも、本音だ。
色んな思いを胸に、その方向へ一直線に向かう。
あの席に近付くにつれて、彼が居るのか早く知りたい気持ちと裏腹に、彼と会えない不安が増していく。そう考えると急激に緊張が走り、席の見える手前の本棚で急に足が止まった。
これは緊張からか期待からか、はたまた不安からなのか。心臓が波打つ音が、全身に響きわたって抑えられない。
本棚に背中を預け、走った後からまだ整っていない息を無理やり深呼吸をして鎮める。
「よし」と意を決して本棚から一歩踏み出す。
そこから見えた先に、彼の姿は——
「居た……!」
嬉しさのあまり、かすかに声が漏れた。口元を手で抑える。
彼は黒縁眼鏡をかけて紺色のパーカーを身にまとい、昨日と同じ窓際の二人席で少し分厚い本を読んでいた。その机の上には、あの押し花の栞。捲っているページが表紙に近かったため、まだ読み進めたばかりのようだ。
私は、近くにあった文芸のオススメコーナーから、一冊選んで手に取る。
「向かい座ってもいいですか?」
と、彼の目の前に立つ。
彼はゆっくりと顔を上げ、少し驚いた顔をするとすぐに、
「どうぞ」
と、優しく微笑んだ。
きっと私の顔には、彼とまた会えた喜びが表れていたのだろう。そう思えるほど、口角が上がっていた感覚が残っている。
これ以上喜びを溢れさせまいと落ち着かせるために、私は向かい側の椅子に座る。
そして、本のページを捲り始めた。
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