第55話
皆が寝静まる夜、私は一人、校内を彷徨っていた。
僅かな魔道具の光だけがほんのりと路を灯して、耳鳴りがするほどの静寂に包まれている夜の校舎は、どこか幻想的で、冥府へと繋がっているようにも思えてくる。
このままいっそ地獄にでも連れて行ってくれないかなと、切に願いながら私は歩を進み続ける。自分の足音が、不気味に鳴り響く。
アルドリノール先生とウェリカちゃんは今頃どうしているのだろうか。まだここに帰ってきていないという事は、出先で外泊しているのだろう。
ウェリカちゃんの結婚騒動を通して、二人の間に何が起こったのかはわからない。だけど、以前よりも明らかに距離が縮まっている。物理的にも、心理的にも、だ。
あれは教師と生徒の関係というよりも、もっと――。やめておこう。いくら私が邪推したところで、私には関係の無い事だ。
もうすぐ、そうなる。
私は校舎の三階にある、一際存在感を放っている大きな扉の前で立ち止まった。
「……いらっしゃいますか」
私は扉に、声を掛ける。
「はーい」
するとすぐに、高くて明るいそんな声がくぐもって耳に伝わる。
「どうしましたか、ってレイノちゃんじゃない。どうしたのこんな夜遅くに」
扉が内側から開き、きっちりとした服装のままの理事長が私の顔を見て、驚いたような、不思議に思うような、そんな複雑な表情を見せた。
「十代から夜更かしはよくないよー……って、軽く言える感じじゃなさそうね。とりあえず、中で話、聞かせて?」
「……はい」
私は理事長に言われるまま――理事長室へと足を踏み入れた。
*
理事長室の中は、一言で言ってしまえば、まさに偉い人がいる部屋、だった。
正方形に近い間取りの部屋の奥には高級そうな黒い木材で作られた大きな椅子と机があり、机の上には数多の書類が綺麗に整頓されて置かれていた。椅子の後ろにある窓は壁面積の半分以上を占めており、夜だからか分厚く赤いカーテンが閉められている。床は一面深緑の絨毯が敷かれていて、隅にも埃一つ無いように思えた。
「聞きたい事は、なに?」
理事長が椅子に座り、扉の前で立ち尽くしていた私を真正面から見据えて単刀直入に聞いてきた。握っていた拳に、自然と力が入って爪が手の平に食い込む。
「どうして、私をアルドリノール先生のクラスに入れたんですか。私は、先生の……」
ここまで言って、喉がつかえて声が出なくなった。
だけど理事長はそれで理解したようにうんうんと頷くと伸びをして、派手なシャンデリアが吊るされた天井を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「あなたがアナザークラスの生徒に決まってから、アルドリノールが担任に決まった。それだけの事だよ」
「それだけって、そんなの……!」
あまりにもあっけらかんとした答えに、思わず言葉を失いかける。
「私は! 先生の家族を殺したんです! そんな人間、いや、魔物が! そばにいていいはずないんです!」
「殺したくて、殺したの?」
「それは――!」
「だとしたら、私……」
理事長が椅子から立ち上がり、静かに、だけどはっきりと靴音を鳴らして徐々に私の方へと詰め寄って来る。その表情は、さっきまでの気の抜けた表情では無く、怨嗟に満ちていた。
「そんなわけない!」
感情が胸の奥から噴火の如く湧き立ち、自然と言葉が口を衝いて出る。
「殺さずに済むならそうしてた! だけどあの頃の私には考える力も無くて! ただただ目の前で起こっている非現実的な現実を受け入れる事しか出来なくて! だから、私は――」
自分でも何を言っているのかわからないまま、膝から崩れ落ちる。
「辛いんです……何も知らずに、私なんかにも優しくしてくれる先生が……」
理事長は、何も言わずに私の前で止まる。視界は水分で滲み、顔は見られない。
「殺すなら……殺してください……」
「殺す訳ないよ。こうなって欲しくなかったから言わなかったんだけど、間違ってたのかな……」
理事長は段々と声を小さくさせながら言う。それから、頭の上にほんのりと温かいものが乗せられた感覚がした。数秒して、それが理事長の手だという事に気づく。
「こんな事お互いに知っても幸せになるはずないと思ったから、言わないでおいたの。だけど、結果的に苦しめる事になっちゃったのかな、ごめんね」
私は無言で首を横に振る。
「この事を黙って学校を続けるか、辞めるか。この事を話した上で続けるか、辞めるか。レイノちゃんには、たくさんの選択肢がある。そこでどんな道を選んだとしても、私は止めないし、止める権利も無い。だけど、自分が絶対に後悔しないっていう選択をして欲しいな」
理事長は絨毯の上で蹲る私に、優しい声で言った。
……ちゃんと、言おう。
言えば、私は何もかもから解放される。
そう、思うから。
「私も、謝らないとな……」
理事長の独白にも近いそんな言葉を聞いて、私は理事長室の扉を開けた。
「待って! 最後に、これだけは言わせて」
背後で聞こえる焦り声に、私は足を止める。
「レイノちゃんは、魔物じゃなくて、ちゃんとした人間だよ! だってこんなに――」
それから先の言葉は自分の嗚咽でよく聞き取れなかったが、必死で私を慰めようとしてくれているのはわかった。
だから、私は。
「いってきます」
精一杯の作り笑いで、振り向いた。




