第157話
宿の屋上からオルシナスを追って飛び降り、石畳の地面に落ちる前にオルシナスの手を掴んだかと思った瞬間、俺は記憶には無いが随分と見覚えのある空間に立たされていた。どっちが上で下なのかも右で左なのかもわからない暑くも寒くも無い暗闇の空間だ。
ここはどこだ?
まさかオルシナスが転移魔法で……いや、いくらなんでもあの状況では発動する事はどんなに彼女が天才だとしても不可能なはずだ。
じゃあここはどこなんだ?
浮遊感も重力も感じない空間で寝転びながら何度考えても思考が振り出しに戻ってしまう。
「やれやれ。君はもう少し考えてから行動をする人間だと思っていたよ」
ふわふわと漂っているのか静止しているのかもわからずにここがどこなのかも整理出来ないでいると、よく通る若い男の声がどこからともなく聞こえてきたので上半身を持ち上げる。
「まるで今の私の姿の人間みたいだ」
声がする方向に従い身体を動かすと、黒髪の男が暗闇の中でひとり光を放ちながら立っていた。男はこちらを見上げるでも見下すでもなく、口角を少し上げながらこちらを真っすぐ見ていた。
「誰だ」
まさかな、と思いながら俺は男に尋ねた。
「君はもう、私が誰かとっくに知っているはずだよ」
「……やっぱりか」
曖昧なその答えでも、その喋り方で誰かなのかはわかった。わかりたくもなかったが、それでもわかってしまう自分が少し憎い。
「ちなみにこの姿の人間は軽い思い付きで人生を滅ぼしかけた。そんな男だよ」
「なんだよそれ」
「今の君みたいなものだよ」
なんだよそれ。俺は立ち上がると、男の方へと歩き寄る。地面が無いので歩けているかは怪しいが、一歩ずつ距離を詰められてはいる。
「オルシナスの手を掴んだところで、彼女を助けられるとでも思ったのかい?」
「だからどういう意味だ!」
何が言いたいのかわからない発言に思わず声を荒げてしまう。それに俺が近づくと、ふわふわと身を翻してまた距離を取ってきたので余計に苛立ちが募る。
「オルシナスはもうすぐ時間切れで死ぬ。君が飛び降りる彼女を救ったところで、彼女は助からない。生まれた時点でこの日に死ぬのだと運命を定められているからね」
「は……?」
「オルシナスを作り出した人間がそういう風に設定したんだ。酷い話だよね。だから思わず、彼女が助かるように運命を変えてしまったよ」
「は……?」
「私がいて良かったね。……いや、私がこうして君と出会えたのはウェリカのお陰だから、ウェリカに感謝するといいさ」
「オルシナスは助かるのか?」
回りくどい話はもういい。俺は簡潔に結論を求めた。
「助かるよ。けれど、もうすぐこの世界は破滅の危機を迎える事になる。だから大事になのはこれからだよ」
「は……?」
「まあ、いざとなったら私も干渉させてもらうから、その時はよろしくね。君と、《《あっちの世界》》で《《また》》会えるのを楽しみにしているよ」
そう言って、男の姿が煙のようにゆらゆら揺れ動き、次第に暗闇に消えていく。
「おい!」
俺が咄嗟に叫ぶも、男の姿は見えなくなり、空間は次第に光に照らされ始めていった。
そして俺は強制的に思考を中断させられ、次第に浮遊感のようなものを全身に感じ始めたのだった。