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第90話

「では、行くとしようか」


 ブーゲンビリアへと向かう日がとうとう訪れ、澄んだ空気の中で晴れ渡る空の下、モンブランが銀色の髪を煌めかせながら言った。そして背中には、雄大な翼が生えている。


「本当に、お前も来るのか」


 俺は隣に立つウェリカに再度確かめる。今ならまだ引き返す事も出来るし、考えを変えたところで咎めるつもりも無い。


「行くわよ。行かなかったら、それこそ一生後悔しそうだもの」


 しかしウェリカは、迷いを一切見せる事無く、そう返事してきた。もう考えは変わらなさそうだな。だったら言う事は一つだけだ。


「わかったよ。だけど実際向こうで何が待ち受けているかわからない。いざとなったら、お前だけでも逃げろ」

「逃げないわよ! あたしを誰だと思っているのよ!」

「可愛い貴族のお嬢様」


 素直に言ったらなぜかウェリカに無言で肩を叩かれた。なんでだ。


「やはり貴様――」

「ロリコンじゃないから、とにかく行くぞ」


 答えを先読みした俺は同じような問答の繰り返しを阻止すべく催促した。


「そう急かさずとも我は逃げん」


 モンブランはやや呆れながらも、俺の手を左手で握ってきた。温かくて柔らかくて、小さな手で、とてもドラゴンの手だとは思えなかった。ちなみに右手は、ウェリカの手を握っている。


「だがここで無駄に時間を費やす必要が無いのも事実だからな。貴様の言う事に従おう。だが覚えておけ、貴様が悪のロリコンになった暁には、我がその魂を破壊するとな」

「意味わかんなあああああああああああああああああ!?」


 い事言ってんじゃねえよと口にしようとしたところで強烈な浮遊感と衝撃を感じ取り、魂が勝手に声帯をこじ開けて叫び声を上げさせてきた。


「まああああああああああああああああああ! 腕がちぎれええええええ?」


 手だけを持たれて腕がもげるのではと思っていたが、そこまでの負荷は腕には感じず、全身がふわふわと宙を高速で移動している感覚に陥っている。進めという指示が脳から発せられていないのにも関わらず身体が勝手に動いているように感じて気持ち悪くなってきそうだ。


「間違っても我に吐瀉物を掛けるんじゃないぞ。幼女以外の体液は断固拒否だからな」

「ああ、うん……」


 俺が気をつけようと思いながら返事すると、浮遊感がみるみるうちに消失し、まるで氷の上を滑っているような感覚になる。しかしそれでも強烈な風が顔を打ち続けるのは一向に変わらないが。


「なんか楽しくなってきたんだけど! あはははははっははあああ!!」


 心身ともに落ち着いてきたところでふと隣を窺うとウェリカのテンションがおかしくなっていた。風魔法使いは強い風を浴びるとこんな風になるのかと一瞬思ったが多分違うなと思い直した。楽しそうでなによりだけど俺は下を見ると今すぐにでも失神しそうだから全然楽しくはない。


「身体からは血が出るが、魂からは血が出ない」


 変な笑い声を上げ始めたウェリカを半ば無視して、モンブランが軽く俺を振り向いて意味深な事を言ってきた。


「だからこそ厄介な事も多いが、だからこそ我はこの手を汚さずに来れた。だから貴様も、ウェリカの手を汚すな」

「……わかってるよ。それくらい」

「もちろん我の服も汚すんじゃないぞ。汚した瞬間手を離すからな」

「汚さねえよ!」


 俺は誰一人の手も、汚すつもりは無い。争いの止まないブーゲンビリアに行く以上、そんな考えは甘いと一蹴されるのかもしれない。だけど俺は、たった一人、何にも手を染めずに生き残った人間として、この手を保っていきたい。


 そう、考えている。

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