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王と龍と転生者  作者: タチバナ マキ
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第5話 強くなれ

 森の中を、二人きりで歩いていた。

 背の高い木々が陽を遮り、頭上では淡い光が落ち着きなく揺れている。湿った土の匂いが鼻をつき、足元の枝葉がやけに大きな音を立てた。


 先を歩くリントはずっと無言だ。外套の裾が小さく揺れるたびに、どこか距離を感じる。歩調は乱れずただ前を見据えて進む。その背中には声をかける隙間が一つもないように思えた。


 けれど僕の心は静かではなかった。

 耳の奥にはまだ、あの場で響いた金属音が残っている。義足のきしむ音。砂塵を割って現れた巨躯。あの瞬間、場の空気は一変した。


 リントも、リガーレも、マグナスも。皆が言葉にできないものを抱えていたはずだ。だが、僕は結局その中心から外れて、ただ傍観するしかなかった。




(……あれは、何だったんだろう)




 歩を進めながら、思考が勝手に逆流する。森の静けさは消え、あの場の空気が鮮明に蘇っていた。














 先ほどまで殺意をぶつけ合っていた二人の視線は、新たに現れた大男――マグナスと呼ばれた男に引き寄せられていた。つい先ほどまで一瞬の油断すら許さなかった殺伐とした空気は、構えすら見せないその男の存在感によって、いつの間にか別の緊張へと塗り替えられていく。

 僅かに風が鳴り、義足の金属が軋む音が耳に残る。その歩みはゆったりとしているのに、一歩ごとに場の空気が重く沈み、足元から押し寄せるような圧迫感が広がった。息を吸うのを、ほんの一瞬だけ忘れた。




「久しいな。元気だったか」




 地を揺らすような低い声が、しかし僅かに弾んだ調子を帯びてリントに投げかけられる。それは再会を喜ぶ旧友の響きを帯びていた。

 リガーレは無言で目を細め、リントは剣を構えたまま、ほんの僅かに刃先を下げる。




「そうだな。お前も生きていて何よりだ。聞きたいことは山ほどある。だが、まずは……」




 リントは振り返りもせず、剣を三度払った。瞬間、周囲の地面が六方向に裂ける。

 それは恐らく、もとは三つの斬撃だったのだろう。だが残滓となった衝撃波がさらに地を裂き、砂埃を巻き上げながら空気をざわりと震わせる。




「これをなんとかしろ」




 リントは刃先をリガーレへと向ける。

 リガーレは一瞬だけ息を詰め、掌をリントに向けたまま舌打ちをした。鋭い視線が火花のように交錯し、再び場の緊張が張り詰めていった。

 どうやら今の鎌鼬(かまいたち)はリガーレが仕掛けたものらしい。


 舌打ちを聞き咎めたマグナスが、静かにその義足を止めた。重たげな視線がリガーレに向く。




「俺たちの弟子ともあろう者が何てことする。年長者に礼を欠くぞ」




 淡々とした声だが、そこには叱責というより、わずかに苦笑を滲ませた親しみがあった。

 リガーレは睨み返しながらも、掌を下ろす。




「そっちが勝手に割り込んできたんだろ」


「割り込んだのは事実だが、ここで戦うことが最善だと思ってるのか? それにお前じゃこいつに勝てないことがわかっただろ」




 言い返す間も与えず、マグナスは肩をすくめてリントの方へ向き直った。リントもそのやりとりを見て剣を鞘に収め、口を開いた。




「まったく、お前は昔から周りに変な奴を置くな」


「嫌な奴じゃないさ。……まあ、扱いづらいのは認めるがな」




 二人の口調で、さっきまでの殺気立った空気が嘘のように和らいでいた。その輪の外で、僕だけが取り残されている。




「それよりあのガキは何者なんだ? 風魔法使いだろう?」


「まあそこは追々話す」



 

 マグナスは周囲を見回し、まだ漂う緊張を手で払うように言った。




「……俺たちはこの村を離れることはしない。ここで血を流す理由もない。今日はこれで散れ」




 リントも小さく頷き二人は短く笑い合い、それぞれ背を向けた。リガーレは一拍遅れて舌打ちしながらも、しぶしぶマグナスの後を追う。

 砂塵がまだ漂う中、互いに背を向けた二組は静かに歩き出した。

 リントは剣を鞘に収めたまま一言も発せず、ただ前を見据えて進む。その背に続きながら、僕は振り返る。そこには義足の響きを残して歩くマグナスと、苛立ちを隠そうともしないリガーレの姿があった。




「……ラルム」




 短く名を呼ばれ、思わず足を止めそうになる。

 リントは振り返らない。視線も向けない。ただ低い声だけが耳朶に響く。




「今は戻ることを優先する」




 それだけだった。説明ではない。ただ方針を示しただけの、揺るぎない声。

 それ以上の言葉は続かない。リントは常にこうだ。考えていることを容易く口にはしない。そのため、彼が何を思い、何を決めているのか……傍にいても推し量りにくい。


 義足の金属音が遠ざかり、背後の二人の背中が木々の影に溶ける。残された僕の胸の中で、疑問だけが置き去りにされたままだった。

















 森の小径は、昼を少し過ぎたばかりなのに薄暗かった。鬱蒼と茂る枝葉が空を覆い、陽の光は細い糸のように地面へ落ちる。小舟を降りてからずっと無言で歩き続けるリントの背中を追いかけながら、僕は落ち葉を踏みしめる音ばかりを聞いていた。


 __このままでいいのか。


 胸の奥でその問いが何度も繰り返される。村の襲撃、リガーレやマグナスとの衝突……あの一瞬ごとの出来事を思い返すたびに、足取りが重くなる。剣を振るった感覚も、恐怖も、何もかもがまだ鮮明に残っている。

 リントやリガーレは迷わずに力を振るっていた。迷いのない行動が、彼らを強く見せていた。自分はどうだっただろう。流れに押されるように剣を握っただけで、それは本当に僕の意思だったのか。


 風に揺れた枝がカサリと音を立て、視線が自然と前に向く。リントの背は揺るぎなく、歩調も一定だった。その背中があまりに遠く感じて、僕は思わず口を開いた。




「……ねえ、リント」




 踏みしめた落ち葉の音が途切れ、言葉だけが森に溶けた。

 返事はない。だが歩みは止まらず、僅かに顎が動いたように見えた。__聞いている。その確信が、鼓動を速める。




「僕……役に立ててるのかな。僕は必要なのかな」




 吐き出した瞬間、胸の奥で後悔がざらりと逆流した。けれど、もう取り消すことはできない。

 梢を抜けて吹いた冷たい風が、二人の間をすり抜ける。沈黙が続き、緊張で喉が張り付く。やがて、前を向いたままのリントが低く答えた。




「正直なところ、役に立つとまでは言えない。力不足だと言うことはお前自身が一番自覚しているだろう」




 その言葉は刃のように鋭く、胸を抉った。だが声は冷酷ではなく、余計な飾りを剥いだ真実そのものだった。そして彼は続ける。




「だが、今回のお前の働きは俺とルーナ様だけでは成せないものだった。得たものは大きい。マグナスにあの礼儀知らずの子供もその一つだ」




 振り返らない背に、抑え込まれた熱のような響きがある。淡々としていても、それは切り捨てではなかった。むしろ僕の望んでいた答えに、心臓が痛むほどに跳ねた。彼はいつも僕の心を見透かしているように思えて、少しだけ心地悪い。




「不安そうだな」




 その言葉にハッと顔を上げる。気付けば彼は顔だけでこちらを見ていた。鋭いはずの眼差しには、今は試すような圧はなく、むしろ微かな柔らかさが宿っていた。寄り添おうとする意思が、確かにそこにあった。




「教えよう、お前が知りたいことを。答えられないこともあるだろうが、俺が答えられることはちゃんと答えよう……龍に誓って」




 低く、胸に響く声。森を渡る風音に紛れても、その一語一語ははっきりと耳に残った。


 これは、僕が正式に彼らの仲間になるために儀式だ。確証はないのにそう思えてしまった。


 リントは一拍の間を置いて、静かに問いかけた。




「……何が聞きたい?」




 森の空気がさらに濃くなったように感じる。問いは淡々としているのに、逃げ道を与えない重さがあった。


 喉が乾く。胸の奥に絡まっていた疑問が、堰を切ったように浮かび上がってくる。

 どうして僕たちは襲撃を受けたのか。最初の盗賊といい、今回の魔獣といい、無関係だとは思えない。リガーレやマグナス__彼らは何者で、何故立ちはだかったのか。そして、国家すら敵意を見せるのはどうしてなのか。




「君たちは……ううん、正確にはルーナかな。ルーナは何者? 君たちは何が目的なの?」




 言葉がまとまらず、唇だけが乾いた音を立てた。リントは急かさない。ただ、背を森の奥へ向けたまま耳を傾けている。リントは振り返らず、わずかに歩調を緩めただけで応じた。




「言える範囲で答えよう。全てを明かすわけにはいかないがな」




 森を渡る風に混じりながら、低く落ち着いた声が続く。




「ルーナ様が高貴な血筋であること、俺があの人の騎士であること。これに偽りはない。だがお前が知りたいのはそんな表面じゃないだろう?」




 頷くだけで応じる。振り返らないリントの背は揺るがず、それでも僕の反応を見抜いたかのように、言葉が重ねられた。




「少し前、この国の王が代わった。クーデターだ。戦争を忌避していた先王を慕う家臣や貴族は多く、新たな王は彼らを徹底的に排除し始めた。俺たちのようにな」


「そうか、それで……」




 思わず息が漏れる。これで村が襲撃された理由の合点がいった。国がなぜ、辺境の村ひとつをあんな回りくどいやり方で襲ったのか。狙いは敵対者の抹殺。表立って軍を差し向ければ非難を浴びる、だからこそ魔獣を従えて破壊を繰り返している。


 けれど、引っかかる。どうしても辻褄が合わない部分が残る。




「じゃ、じゃあリントの動向は敵に筒抜けってこと?」


「そうとは限らん。恐らく奴らはめぼしい村をああして襲い続けている。標的を絞っているというより、広く潰しているんだ。クーデターから一年も経っていない。情勢の不安定さを口実に、魔獣による襲撃の増加を上手く誤魔化しているのだろう」


「そう……なんだ」




 納得しかけて、しかし胸の中にまだ謎が残る。村が狙われた理由はわかった。だが、あの場にいたマグナスやリガーレの存在は依然として霞のように掴めない。




「じゃあマグナスとリガーレは? マグナスはリントと知り合いみたいだったけど」


「……マグナスは元々国の騎士だ。騎士団兵士長が冠する『峰』の称号を持つ、土魔法を操る男だ。クーデターの時に死んだと思っていた。リガーレという子供の方は知らん」




 その声に一拍の間があった。リントの視線がわずかに下へ落ち、森の奥へ続く薄闇を見据える。




「だが、子供が使った魔法が少し気にかかる。お前は覚えているか?」




 リントの問に僕は頷く。リガーレが手を振るい地面を裂き、踊るように宙を舞った光景。それらの力は僕の目には形となって映らなかったが、あれは紛れもなく『風』だった。今まで見た魔法以上に明らかに自然現象の延長ではなく、意思を帯びた力。


 しかし、僕にはそれで納得できない。


 リントは以前、魔法にはいくつかの種類があると言っていた。水、火、土、白、回復、雷。そうだったはずだ。正確な分類までは、正直よく分かっていない。

 僕はあの時も嘘を吐かれていたのだろうか。

 リントは僕の返答に頷く。そして同時に「その懸念はおかしいがな」と続けた。




「言ったはずだ。それら以外にも一種存在すると。それがあの子供が操る魔法……風魔法だ」


「ああ~……っと? そんなことも言ってたっけ?」


「言った。風魔法は希少、と言うよりも突然変異に近い。分類と呼ぶにはあまりにも該当者が少ないからな。人類が文献を残し始めて数千年、確認された風魔法使いはあいつを含めてたったの三人だ」




 正直、魔法がどれほど一般的なものなのか僕にはよく分からない。それでもその数が異常だということだけははっきり伝わってきた。




「あの子供の存在は王宮騎士団には報告されていなかったはずだ。それならマグナスはあいつをどこで見つけてどうする気なのか、追々聴取する必要がある」


「……マグナスって、どんな人?」


「義理堅い男だ。不正を嫌う、人情が服を着て戦うような人柄……峰の中では最年長であったことも踏まえ、王宮騎士団の中で最も頼りになると言える存在だったな」


「峰の中?」


「ああ、峰は風と回復を除いた全ての属性に一人ずつ存在していた。いわば六つの系統を象徴する騎士たちだ。現在生存が確認できているのはマグナスのみだが、いずれも近衛騎士をも超える猛者だった。あの村に滞在しているか、別件で別の場所にいるんだろうな」




 リントの口調には、懐かしさのような響きが混じっていた。

 貴族の令嬢に仕えていた彼が、そんな上位の騎士と肩を並べていた時代があったのだろう。平和だった頃の記憶。

 何度か知らない単語も出てきたが、取りあえず聞き流して元の話題を思い出す。リントが自分たちのことを話してくれるのはありがたいけれど、説明が多くてどうしても脱線しがちだ。




「あ。元は君たちの目的は何なのかって話だったよね?」


「そうだ。国を追われた元騎士団の連中に、現国家軍隊に追われている俺たち。ここまで話せばもうわかるか?」




 この人は本当に、話を遠回しにする。

 まるで僕に答えを考えさせるように、わざと情報を散らしてくる。


 けれど、ここまで話してもらえたのなら、もう答えは一つしかない。ルーナが、リントが、そしてマグナスが決意したであろう茨の道。




「国の奪還。平和な国の」




 リントは満足そうに鼻で笑い、道の先に見える木々の切れ間を抜けた。

 森の出口の向こうには、まだ見慣れない僕たちの家があった。

 その光景を前に、彼の口元には微かに、しかし確かに笑みが浮かんでいた。



























「そうですか。マグナスさんが……良かったです」




 数日ぶり。まだ住んでいると言うには日が浅すぎる自宅に、僕たちは帰ってきた。想定よりも長く村に滞在していた僕たちの安否を心配していたルーナはリントから事のあらましを聞き、安堵の息を吐いた。

 その過程でリントが僕に彼らの情報を明かし始めたことも説明した。


 彼女らの国のこと。彼女らの現状。そして僕が置かれている状況。僕が僕の知っている限りのことを打ち明けると、ルーナはちらりとリントを見た。




「ラルムくん。私たちの事を知りたいと言いましたね。確かに私もあなたに私たちの事を知ってもらいたいという思いはあります。でも全てを知るのは……今じゃない。今知れば、引き返せなくなります。あなたにそんな後悔は間違ってもして欲しくない。全て教えることができるのは、あなたが一人で生きていくことができるようになるほど強くなってからです。それでも知りたいなら教えますが」




 ルーナの声は冷たく、決して僕に寄り添うようなものではなかった。でも、突き放すようなものでもない。節々から僕のことを心配してくれる優しさが滲み出てきていた。

 ルーナは為政者には向かないのかもしれない。この優しくて真っ直ぐで正直な少女は駆け引きが下手だ。


 ルーナの言葉を聞きながら、僕は胸の奥がゆっくりと熱を持つのを感じていた。知りたいという衝動と、彼女が言う「引き返せない」という言葉の重さ。その間に、息が詰まる。

 窓の外では、木々に遮られた斜陽が行き場を探すように弱々しく地面に張り付いていた。風で家の壁が鳴る度に僕の心も少しだけ揺れる。


 ルーナの心遣いに応えたい。その思いだけで、僕の覚悟は決まった。




「強くなるよ、僕。そしたらまた『君たちは何者』って聞くから、その時教えて。大丈夫、僕は絶対君たちの敵にはならない」




 僕の言葉が終わると、しばらく沈黙が続いた。ルーナは伏せたまましばらく目を閉じていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。頬にかすかな紅が差しているのが見える。あの冷たい声は消え、代わりにとても静かな柔らかさが戻ってきていた。




「……分かりました、ラルムくん。あなたがそう言うなら、私は待ちます。あなたが自分で答えを掴みに来るまで」




 言葉は小さく、それでいて強かった。ルーナは立ち上がると、僕の方へと一歩だけ近づいた。手は触れなかったが、その仕草だけで十分に伝わるものがあった。安心と、少しの期待。胸の奥がぎゅっと熱くなる。

 リントは横で黙ってそれを見ていた。彼の表情は読み取りにくいが、肩先が僅かに緩むのが見えた。やがて彼は口を開く。




「言葉は頼りになりそうだ。だが覚えておけ、強さは願うだけで手に入るものじゃない。明日から訓練だ。基礎から叩き込む」




 あっさりと言い切る。僕は思わず手を握りしめた。リントの言葉は厳しいが、そこには裏切らない確信がある。それが僕には救いだった。




「うん。僕、頑張るよ」




 ルーナが小さく笑い、台所の方へ歩き出す。短い距離だが、その背中に僕はこれまでとは違う光を見た。家の中は薄暗く、薪の匂いと煮炊きの温かさが満ちていた。静かな日常が戻ってきたことを、僕は心からありがたく思った。










 夜、窓の外に月が昇る頃、僕は窓辺で手を擦り合わせながら小さな誓いを反芻していた。どれほどの時間がかかるかは分からない。失敗するかもしれない。それでもこの約束だけは、これからの指針になる。

 明日から始まる訓練のことを考えながら僕は深く息を吐いた。眠りに落ちる前に、ひとつだけ確かな感覚が胸に残る。

 怖さは確かにあった。それでも、行き先が決まったというだけで胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。

 立ち止まる方が、今は何よりも怖い。そう思えた。


























 翌朝。まだ陽が完全に昇りきる前、リントに叩き起こされて外に出るように言われた。空気が冷たい。息を吸うと肺の奥が少し痛む。

 家の前の開けた草地。地面は朝霧で濡れていて、足を踏み出すと湿った地面に靴が沈んだ。


 僕の前を歩いていたリントが立ち止まり、いつの間にか手に持っていた木刀を一本投げ渡してきた。彼の手にも同じ物が一振り握られている。




「俺がお前に稽古を付ける」




 瞬間、身体が水に沈められたかのような錯覚を覚えた。リントの目が鋭く僕を射貫いている。

 今まで感じたことのないような、濃密で、確実に仕留めるという狩人の目を向けられている。それを理解した瞬間、身体が自然に木刀を構えた。




「いい反応だ__行くぞ」




 合図と同時に、踏み込みが来た。

 木刀が空を切る甲高い唸りが耳に届いた時にはもう間合いの内側だった。肌を駆け抜ける悪寒に従い反射的に柄を握り締め、受けに回す。乾いた衝撃が腕に走り、手首が痺れた。


 軽い。だが速い。


 リントの木刀は、上から、横から、間を置かずに角度を変えて振り下ろされる。どれも致命には至らないが確実に体勢を崩しに来ている。考える暇はない。感覚だけで刃筋を追い、弾き、流す。


 思わず一歩下がった足が滑った。


 朝霧で湿った地面が裏切る。重心が一瞬遅れたのをリントは見逃さなかった。すぐさま踏み込まれ、脇腹に木刀が叩き込まれる。

 鈍い痛みが走り息が詰まる。だが、致命的ではない。叩き込む直前で力を抜いているのが分かる。

 それでも身体は正直だ。反射的に距離を取ろうとして、さらに足が流れる。


 次は首。


 一直線に迫る軌道を、ほとんど倒れ込むようにして避けた。木刀が頬のすぐ横を通り抜け、冷たい空気を切り裂く。

 地面に片膝をついた瞬間、もう一撃が来る。

 慌てて木刀を差し込む。受け止めきれず、腕ごと押し込まれて肩が軋んだ。それでもリントは止まらない。

 動きに無駄がない。呼吸は一定で、表情も変わらない。まるでこちらがどう動くかを一拍先で見ているようだった。


 防ぐだけで精一杯。それでも、剣を下げた瞬間に終わると本能が告げていた。

 歯を食いしばり、無理に踏み込む。拙い反撃。狙いも甘い。だがそこで初めて、リントの木刀が僅かに進路を変えた。

 弾かれる。次の瞬間、手首に軽い衝撃。木刀が跳ね、地面に落ちた。

 完全な隙。しかし訪れると思っていた痛みは来なかった。


 胸元で止められた木刀が、服越しに押し当てられる。圧だけが伝わってくる。




「真剣なら二回死んでる。だが俺は三度殺す気で打ち込んだ。避けたのは見事だが……やはり動きに無駄が多いな」




 胸元に押し当てられた木刀が離れる。まるで最初からそこに触れていなかったみたいに距離が戻った。

 リントは一歩下がり、木刀を肩に乗せた。相変わらず息一つ乱れていない。さっきまで僕を叩き伏せていた人間とは思えないほど静かだ。

 視線がこちらに向く。

 値踏みされている、というより__確かめられている感じがした。




「今のどうやって避けた」




 短い問い。その問いはまるで奇異な物を目の当たりにした時のそれだ。


 ……確証はない。だけど何度も助けられた。肌の裏をなぞられるような、()()()()()。命を落とすような場面で現れるそれは、僕への敵意に反応しているとしか言いようがなかった。しかしその感覚を言葉にして伝えるとなると難しい。




「……感じるんだ。凄く嫌な予感を身体で感じて……そこを守ろうとすると、いつも攻撃が来る」




 まるで未来予知。自分にだけ特別な何かが備わっているとでもいうのだろうか。


 その瞬間、視界の端で何かがぶれた。思わずその正体を確かめようと視線をやると、振り切ったリントの木刀が目に入った。

 途端、痛み出す頬。




「痛っ……」


「どうだ? 何か感じたか?」




 頬を抑えた手を見ると、少しだけ血で濡れている。リントが僕の感覚を確かめる為に襲ってきたようだ。荒い奴め。

 リントは何も言わず、もう一度間合いを詰めてきた。

 今度は構えがない。木刀をだらりと下げ、まるで気の抜けた散歩でもしているかのような歩調だ。


 それが、ひどく気味が悪かった。


 ——来る。


 そう思った瞬間、背中がひやりと冷えた。

 理由は分からない。たださっきまでとは明らかに違う。攻撃の気配ではない。殺意ですらない。それなのに、身体の奥が警鐘を鳴らしている。


 反射的に一歩、後ろへ下がった。


 直後、視界を横切る影。

 下から薙ぎ払われた木刀が、さっきまで僕の膝があった空間を叩いた。




「……っ!」




 息が詰まる。

 もし下がっていなければ、確実に足を払われて転倒していた。

 リントの動きは止まらない。

 次は上。次は横。連続でも連携でもない、間の抜けた一撃。それなのに、全部が「当たってはいけない」場所を正確に狙ってくる。


 分からない。どうしてか分かる。どうして——身体が、勝手に動く。


 考える前に足が動き、腕が上がる。視線が追いつくよりも早く、嫌な予感のする方向から離れている。

 数合。ほんの十数秒だったはずなのに、息が切れ始めていた。

 最後に、リントが大きく踏み込んだ。

 真正面。速い。避けられない——そう思った瞬間。


 胸の奥が、きり、と痛んだ。


 嫌だ。

 ここじゃない。


 ほとんど転ぶように体を捻る。

 木刀が服を掠め、風だけが通り過ぎた。

 そのまま地面に尻もちをつく。息が荒く、心臓が喉までせり上がってきたようだ。


 リントは、そこでようやく動きを止めた。


 木刀を下ろし、じっと僕を見下ろしている。その目にはさっきまでの厳しさとは別の色があった。




「……やはり、違和感があるな」




 独り言のように呟き、リントは視線を逸らす。




「反応が速いんじゃない。判断が早いわけでもない。お前は先に嫌がっている」


「……嫌がってる?」


「そうだ。攻撃を認識する前に、身体が拒絶している。まるで……ふむ」




 そこでリントは言葉を切り、何かを考え込むように顎に手を当て動かなくなった。




「まあ、いいか」




 ふっと息を吐きながらそう言ったリントは再び僕の目を覗き込むようにこちらを見る。




「回避ができるなら話は早い。あとはその無様な避け方を何とかすればそう簡単に死ぬことは無くなるだろう。それに気を抜いてると何も感じ取れないようだからな」




 頬をトントンと叩いてリントは僕の頬を見た。そこにはリントがつけた傷……僕が何も感じ取れずに受けた切り傷がついている。

 頬に残る痛みが、じん、と遅れて主張してきた。

 それでも不思議と、さっきまで胸に張り付いていた恐怖は薄れている。


 立ち上がろうとして、足に力が入らないことに気づいた。膝が笑っている。情けなくて思わず視線を逸らした。

 リントはそんな様子を一瞥しただけで、もう興味を失ったように踵を返した。


「午前はここまでだ」


 短く言い捨て、草地を離れていく背中。その歩き方は相変わらず気負いがなく、さっきまで人を叩き伏せていたとは思えないほど静かだった。


 取り残される形で僕は朝霧の中に立ち尽くす。

 冷たい空気が肺に入り、ようやく呼吸が落ち着いてきた。


 ——生き残れるかもしれない。


 僕には何もわからない。でも確かにそう言ってもらえた。あの嫌な感覚が、確かに僕を守った。

 リントの言う通りなら、これは偶然でも奇跡でもない。磨けば使えるものだ。


 同時に背筋がぞくりと冷えた。

 今朝の稽古は、手加減だったのだとはっきり分かってしまったから。


 木刀を拾い上げ、握り直す。

 震えはまだ止まらない。それでも、指先には確かな重さがあった。


 遠ざかるリントの背中を見つめながら、僕は静かに息を吸い込む。この先、どれだけの刃を避けることになるのか分からない。

 いつか僕は、あの背中に追い付けるだろうか。その目標は流石に傲慢じゃないのか。

 だけどきっと並んで見せる。あの手の木刀を叩き落として、君たちの目的は何だと、声高々に聞いてやる。


 痛む頬が、頑張れよとリントの代わりに僕を奮い立たせた。

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