第3話 震えて駆けて
『お兄さんを戦争に巻き込もうとしてるよ』
僕の前から姿を消した少年の言葉は、今この状況を予見していたかのようだった。
遠くに立ち上る煙が見える方角へ、僕はゆっくりと歩を進めていた。人の声や金属がぶつかり合う音が風に乗って聞こえてくる。心臓の鼓動が次第に速くなるのを感じながらも、僕はできるだけ冷静でいようと努めた。
広場が近づくにつれて、ざわめきの正体がはっきりしてきた。巨大な魔物が、村を囲む壁の一部を豪快に壊しながらゆっくりと進んでいる。おそらく五メートルはあろうかというその魔物は、粗い鱗に覆われ、太い爪を地面に叩きつけている。吐息はまるで地鳴りのように響き渡った。
その周囲には、二メートルほどの小柄な魔物たちが何匹もいて、まるで戦士のように俊敏に動き回っていた。彼らは破壊された建物の残骸を縫うように飛び回りながら、村の兵士たちと戦っている。しかし、兵士たちは人数も装備も明らかに劣勢で、後退を強いられていた。
広場の奥からは怒号と武器がぶつかり合う激しい音が響く。逃げ惑う村人たちの姿も見える。家族を探す声、悲鳴、慌てふためく様子が、僕の胸を締めつけた。
リントを探しに行くか、少し迷った。きっと彼ならこんな魔物たちすぐに蹴散らしてしまえるだろう。だけど僕にできることはリントを探すことだけだろうか。彼ならこの非常事態に既に動き出している可能性が高い。だからこそ、自分にできることを、ここで探さなければならなかった。
煙の匂い、叫び声、金属がぶつかり合う音が交錯する中、僕は視界に入る光景に息を呑んだ。巨大な魔物が壁を壊しながらゆっくりと進み、周囲の小柄な魔物たちが兵士や村人を追い詰めている。
僕は深く息を吸い込み、目の前の敵へと集中した。まだ魔法を使えない僕にできることは限られているかもしれない。だが、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
僕は息を整え、瓦礫の影から身を乗り出した。まだ気づかれていない。あの小型の魔物たちの動きには隙がある。あれなら――少しは足止めできる。
そう思い、足を踏み出そうとした、その瞬間だった。
「おい馬鹿、こっちだ!」
鋭い声とともに、肩を誰かに掴まれた。振り返ると、浅黒い顔の若い男が、土埃まみれの鎧姿で立っていた。村の警備兵か。
「何やってる! 戦場に出てきてどうするつもりだ! 魔物はもう門を越えた、こっちは包囲されかけてる!」
「でも……誰かが……!」
「お前が出て行ったって、足手まといだ!」
荒い口調だったが、彼の手は震えていた。僕の後ろでは、空気を裂くような咆哮とともに、大型の魔物が建物を押し倒す音が響いた。
「……くそっ、間に合うかどうか……!」
男は僕の腕を引いて駆け出した。どこへ向かっているのか分からないまま、僕は無理やり路地裏を走らされた。歯がゆい。目の前で人が戦っているのに、自分は何もできず逃げている。
曲がりくねった道をいくつも抜けた先、村の東端にある穀物倉庫の裏手に、古びた井戸のような石造りの構造物があった。蓋を開けると、中には地面に続く階段がある。男が叫ぶ。
「こっちにまだ通路がある! この地下道を通れば、塔まで逃げられるはずだ!」
既に何人かの村人がそこに集まっていた。年寄りや幼い子どもを抱えた者たちばかりだ。皆、疲れ切った顔で列をなして、闇の中へ一人ずつ降りていく。
「さっさと入れ!」
押し込まれるようにして、僕は狭い階段へと踏み込んだ。背後で、地響きのような音が再び鳴り響く。
「くそっ……頼む、持ちこたえてくれよ……!」
兵士のような男が最後に入り、蓋を閉めた瞬間、外の音が遠のいた。
闇に包まれた階段を降りながら、僕はただ、自分の中に渦巻く無力感を押し殺していた。誰かが戦っている。でも僕は――ここにいる。
狭く湿った階段を下りきると、目の前に広がったのは、思ったよりもずっと広い空間だった。
暗がりの中、仄かな灯りがいくつか灯っていて、それが広場全体をかろうじて照らしている。石造りの床は何世代も前からあるようで、中心には古びた石柱が一本、まるで見張りのように立っていた。そこかしこに避難民の姿がある。膝を抱える者、泣き止まない子どもを抱いている者、ただぼんやりと立ち尽くす者。それぞれが疲れ切った表情を浮かべていた。
「地下道……? まるで地下広間だ」
呟いた声が聞こえたのか、近くにいた老婆が僕を見上げ、小さく頷いた。
「こんなことになるとはねぇ……。塔に繋がる通路がなければ、もう逃げ場なんてなかったよ」
老婆の背後には、壁際に口を開けたトンネルのような空間があった。崩れそうな天井を支えるように太い梁が組まれ、その奥には仄かに続く灯りの列が見える。そこが――塔へと続く地下通路だ。
何人かの村人が、通路へ向けてゆっくりと歩を進めていた。トンネルの入り口付近では、舞い上がった土埃が空気に混じっていた。咳き込む子どもの声が響く中、先導する若い男が、腕に巻いた布で口を覆いながら叫ぶ。
「負傷者を優先しろ! 子どもと老人もだ! 他は順番を守って並べ!」
場の統制は取れていたが、その空気の中に漂うのは不安と緊張だった。村がどこまで持ちこたえてくれるのか、塔の中に逃げたところで本当に安全なのか。誰もが心の中で同じ問いを抱えているのだと、僕は感じた。
ふと、階段の別の出入り口から、別の避難者の一団が現れた。中には血のついた布を抱えた者もいて、その表情は重かった。恐らく、村の別の場所から避難してきたのだろう。ここには、複数の地上階段から人々が集まりつつあるようだった。
つまりこの地下広場は、村の各地に設けられた避難口から繋がる中心であり、そして唯一、塔への避難経路に通じている場所だった。
その現実に、僕はようやく事の深刻さを肌で感じ始めていた。
地上では、まだ誰かが戦っている。
リントは。村を守る兵士たちは。あの魔物たちと、今この瞬間も。
それなのに僕は、こうして地下に逃げている。
「……僕は、ここで、何をすればいいんだ」
声は誰にも聞こえなかった。けれど、心の奥に突き刺さるような重さが残った。
すると、ふと誰かが背中に手を添えた。振り返ると、小さな子どもが立っていた。目に涙を浮かべながら、震える手で僕の服の裾をつまんでいる。
「お兄ちゃん……お父さん、迎えに来てくれるよね……?」
胸が締めつけられた。何も言えなかった。言葉が、出てこなかった。
――そうだ。僕には、何もできないんじゃない。何もしようとしてなかっただけだ。
目の前の子どもを見て、ようやくわかった。誰かのように剣を振るうことはできない。誰かのように魔法で敵を薙ぎ払うこともできない。それでも、この場にいる人たちの不安や孤独に、寄り添うことはできる。
「……うん、大丈夫。必ず迎えに来るよ」
そう言って、そっと頭に手を乗せると、子どもは不安げに頷いた。
広場の中では、避難民の数が着実に増えていた。階段から降りてくる人々を、誰かが出迎え、誰かが誘導し、誰かが布を差し出す。混乱の中にも、少しずつ秩序ができ始めていた。
その一角で、先ほどの老婆が手を振っていた。彼女の傍には倒れ込んでいる若者がいる。怪我して意識がないらしく、呻き声すら上げていない。
僕は迷わず駆け寄った。
「すみません、その人、運びます!」
老婆が驚いたように見つめる中、僕は若者を抱え上げた。彼を壁際の毛布の上へと慎重に移す。近くにいた別の女性が、水の入った皮袋を差し出してくれた。
「ありがとう。あなたも避難してきたのに……」
「何かしてないと落ち着かないんです」
自分に言い聞かせるように、僕はそう答えた。誰かのために体を動かすことで、少しずつ、胸の中にあった沈殿した感情が動き出していく。だから動き続けろ。何が最善かじゃない、今必要なのは誰かのために動き続けることだ。
広場の奥――塔へと続く地下通路には、まだ余裕がある。だが、この場にいる全員が一度に入ることはできない。今は、順番を待ち、耐え、支え合うしかない。
僕は改めて空間を見渡した。通路の先に何があるのか、塔の中に何人が避難できるのか、それはまだわからない。だが、少なくとも、逃げ道はある。
――生きるための道は、まだある。
その事実が、今はただ、心を支えてくれていた。
狭い地下通路を抜けると、重厚な石の扉が目の前に現れた。扉は古びていて、幾重にも彫られた模様が歴史を感じさせる。数人の若者が慎重にその扉を開け、僕たちは静かに中へと足を踏み入れた。
塔の内部は思っていた以上に広く、複数の階層が螺旋状に続いているようだった。人が立てるところには、既に多くの避難者たちが集まっていた。大人も子どもも、互いに寄り添い、震えながらもどこか安心したような表情を見せている。誰もが声を潜め、疲れきった体を少しでも休めようとしていた。
負傷している若者を負ぶって運んできた僕はまだスペースが残っている広間に通された。応急として治療室として使われている部屋のようで、優先的に治療が必要な者からここに運び込まれているようだ。
「できる限りのことは地下の広間でやっておきました」
「ありがとう。君も休みなさい」
若者を治療室に預け、僕は軽く息をついた。ここで少し休むべきだろうけど、胸のざわつきは収まらなかった。何か、次にしなければならないことがある気がしていた。
広間の出口に向かい、螺旋階段を少し上ったところで、マントに身を包んだ蒼髪の男が目に入った。リントだ。彼は窓から外の戦いを眺めているようで、瞬き一つしない。しかしその手は腰の剣の柄に添えられて動かなかった。
「ラルム、ここにいたか」
「リント……」
門で別れたままのリント。言葉とは裏腹に僕を探していたとは考えにくい態度だ。
「襲撃してきたのは魔獣七体。デカいのが二、小さいのが四。どうやら施設破壊と兵との交戦は分担しているらしいな」
「……分かってて、見てるんだね」
リントが階段を上がろうと背を向けた瞬間、僕は胸の奥に浮かんだ引っかかりを言葉に変えてしまっていた。リントは応えなかった。ただ、その目がもう一度、遠くの煙を捉えた。
「どうして……戦わなかったの?」
その問いに込めたのは責めではなかった。ただ、窓の外を眺める彼の姿を見てから、どうしても頭にこびりついてしまった疑問だった。
君ならできたはずだ。
あの魔獣を止めるくらい、きっと容易いはずなのに――どうして、と。
しばらく返事はなかった。静寂のなか、リントの後ろ姿は揺らがない。やがて、ふいに彼は少しだけ体をこちらに向け、火の手が上がった村の壁付近をゆっくりと指さし、口を開いた。
「妙だ」
「妙……?」
「魔獣とは基本徒党を組まない。特に別種同士では。それが今回編隊を組んでいるかのように現れ、動いている」
やはりリントは瞬きもしないまま、淡々と言葉を並べる。
「狙いもおかしい。奴らは執拗に壁だけを壊し、住民ではなく兵士ばかりを狙っていた。殺すでも、食うでも、略奪するでもない。ただ、戦力の排除に徹していた」
「……理性があるってこと?」
「それに近い。いや……明らかに、何者かの意志が働いている。あれは操られている動きだ。目的はまだ掴めていないが、間違いなく――裏に何かがいる」
それでも、僕の疑問の答えにはなっていなかった。なぜ、リントは戦わなかったのか。それを問おうとした矢先、彼は足を動かし、階段を上り始める。
「言ったはずだ。俺やルーナ様は追われている身だ。相手の目的が俺になくとも俺が姿を晒して戦うのはリスクが大きすぎる。今は――まだ、時期じゃない。剣を抜く場所と時は、選ばないと意味がない」
彼の横顔は冴え冴えとしていた。感情を抑えているというより、既に何かを覚悟し、それでも前に進もうとしている人の顔だった。誰かに見せるためでも、誰かに誇るためでもなく、守るべき何かのために“今は振るわない”という選択。
「とはいえ、もう出るしかない。他にまともに戦える奴もいないしな。顔も魔力も極力隠しながら囮になる。その間に戦場に長く居続けられる奴が必要だ」
しばらくの沈黙のあと、リントはまた足を止めた。踊り場の扉から繋がる、小さなバルコニーだった。かすかに焦げた匂いが空気に溶けている。
「戦えるか?」
リントの横顔は相変わらず感情を見せていない。けれど、その手がわずかに強く握られているのを、僕は見逃さなかった。
「俺が先に出る。囮になれば注意は分散する。……その間に、動け」
「僕が……?」
言いかけて、唇が自然と閉じた。剣は持っている。けれど、それが“武器”であるという実感は、いまだ希薄だった。ただの鋼の塊だ。重さに慣れず、正しい振り方すら知らない。
それでも。
「怖いか?」
不意に、リントがこちらを見た。その瞳が、まっすぐ僕を射抜いた。
静かで澄んでいて、僕の心の奥にある何かを見透かしているようだった。
「……うん。だけど、それより……誰かを見捨てるほうが、怖い」
僕の答えに、リントは小さく頷いた。それは承認というより、確認に近かった。僕が何を言うか、きっと最初から分かっていたのだろう。
「いい目だ」
彼のその一言は、決して慰めではなかった。戦場に出る者同士として交わす、わずかな信頼の証だ。
静かに鞘から剣を引き抜く。刃が露わになる瞬間、かすかに空気が鳴ったような気がした。
……気のせい、かもしれない。でも、それはまるで――何かがこちらを見ているような感覚だった。
「……この剣、なんなんだろう」
ぼそりと漏らした僕の独白に、リントはわずかに目を細めた。
「お前がその答えを見つけろ。それも“戦い”の一部だ」
塔を出てすぐ、土の焦げる匂いが鼻を刺した。
村のあちこちで小さな火が燻っている。空は煙や煤に覆われ暗く、煙だけが生き物のように不気味に流れていた。
地響きが近づいてくる。すぐそこまで、大型の魔獣たちが迫っていた。重たい四肢が地面を叩き、低く咆哮を漏らす。空虚な腹を満たすものを探すかのように、気配を嗅ぎ回るような仕草だった。
その周囲では、小型の魔獣たちがざわつき始めている。まるで何かを感じ取ったかのように、ぴりぴりとした緊張が走っていた。
次の瞬間、視界の端を銀の閃きが駆け抜けた。灰の舞う中に、まるでひと筆の光を走らせたような鋭い動き。小型の魔獣の一体が何かに叩きつけられたように仰け反り、その牙と爪――獣の命とも言える武器が砕け散る。
無言のまま、リントが舞っていた。布で顔を覆い、呼吸すら制限しながら、それでも魔獣たちの間を軽やかにすり抜けていく。彼の周囲に視線が集中していくのが分かった。
……あれが、彼の本気なのだろうか。
魔力を隠すと言っていたのは、僕から見て力を抑えているという意味ではないように思えた。あの動きは、まさに人外のものだ。
「……すごい」
思わず呟いた声が、自分でも驚くほど震えていた。
僕は咄嗟に身を低くし、近くの建物の陰に身を潜める。リントの役目は“囮”。あくまで気を引くのが目的だ。真正面から斬り伏せるのではなく、狙いは“攪乱”。
つまり、魔獣の背後ががら空きになる。
リントの動きに釣られるように、小型の魔獣が四体、背を向けて駆け出した。こちらに背中を晒したその瞬間、僕の肺が一気に膨らむ。
(――行ける。今なら……!)
足に力を込めて蹴り出す。剣の重さを感じながら、一歩一歩確かめるように踏み出す。心臓がうるさく脈打ち、喉が渇く。手の汗が柄を滑らせそうになるが、構わず距離を詰めた。
一体目の頭に、躊躇いを殺して剣を突き刺す。
__ズブリ。
鈍い手応え。リントから聞いていた。骨は固い。刃が通らないこともある。けれど急所を突いて、捻じれば――抉ることができる。
思いっきり体と手首を捻って剣を引き抜く。鮮血が吹き出した。大きく身震いした魔獣はそのまま体を倒した。
(倒せた……!)
だが、息をつく間はない。残る三体が振り向いた。目が合った。理性を感じない、獣の本能のままの視線。怖い。足が、動かなくなりそうだった。
――そのとき。
「後ろに下がれ!」
風を裂く音と共に、リントの声が飛んできた。すぐ目の前で疾風のような蹴りが炸裂し、三体の魔獣が同時に吹き飛ぶ。剣を抜きながら、リントが僕の前に立っていた。
「悪くない動きだったが、まだ次が見えてない。次は挟まれるぞ。気配を読め」
「うん……!」
震える手で剣を握り直す。手はまだ震えているが、さっきより少しだけ、柄がしっくり馴染む気がした。
リントは再び跳躍し、風に乗るような身のこなしで建物の屋根を駆け抜けていく。大きな魔獣の方へと、わざと踏み込むような動きで。
その瞬間、巨体が怒りに震える咆哮を放ち、建物を破壊して突進を始めた。地面が跳ね、土煙が上がる。巨大な四肢が街道を削りながら動く。
(あんなの、どうやって倒せっていうんだよ……)
だけど、恐怖の奥で、なぜか足は止まらなかった。 気づけば僕はリントの描いた導線をなぞるように動いていた。巨獣の横腹――死角――そこを目指して走る。
(これで……!)
叫びと共に、剣を突き出す。硬い皮膚に弾かれながらも、先端がかすかに喰い込む。叫ぶ暇もなく、巨獣の尾がこちらに向かって振り払われた。
昨日感じた、明確な死の予感。
その直後、僕の体が横から弾かれ、地面に転がる。視界がぐるりと回って、肺が押し潰されるような衝撃が胸を突いた。
「くっ……!」
だが、致命傷ではない。かすかに剣の先が、魔獣の肉を削っていたのが見えた。
どうやら僕を突き飛ばしたのはリントだったようだ。立ち上がる僕に、リントが近づいて言った。
「良い踏み込みだった。あとは力の流し方だ。剣を“重さ”で振ってるうちは斬れん」
「……うん!」
息が乱れ、視界が揺れる中、僕は何とか体を起こした。地面の冷たさと、湿った土の匂いが鼻を突く。
背後から、リントの声が響いた。
「動け!」
その声に、思考が跳ねた。痛みが体を這い上がってくる。でも、逃げるわけにはいかない。振り向いた巨獣の目が、怒りで赤黒く染まっていた。剣を強く握り直す。震えは止まらない。でもそれはもう逃げる理由にはならなかった。
「リント!」
リントは即座に反応し、剣を横一文字に振り抜いた。空気を裂く音と共に、彼の一撃が巨獣の脚の健を深く切り裂く。巨体は傾き、動きが鈍った。しかしリントは倒しきらず、そのまま後回しにする判断をした。今は他の魔獣たちを抑えるのが先決だ。
リントは身軽に跳び上がり、別の大型魔獣の注意を引きつけながら、手際よく攻撃を繰り返す。彼の動きはあえて目立つようにし、小型魔獣たちの視線も自然と彼に向けられた。小型魔獣三体はリントの動きに気を取られて、一瞬だけ油断した。僕はその隙を見逃さず、一体目に集中して剣を突き出す。
先ほどの教訓を活かし、急所を狙って剣を深く刺した後、すぐに魔獣から距離を取った。魔獣は苦しげにうめき、倒れこむ。
「___!!」
二体の魔獣が同時に飛びかかってくる。そしてやはりあの感覚。脇腹と右頬、それに左太腿。攻撃が当たりそうな場所――どこか空気がざわつくような、皮膚の裏側がなぞられるような、不思議な感覚。何度もその「気配」を頼りに、ぎりぎりで体を避け、逆に剣を振り抜いた。
爪が空を切り、剣の刃が相手の腕に当たる。深くはないけど、攻撃が当たった瞬間、相手の動きがわずかに鈍った。
「……なるほど、そういうことか」
息が荒くなりながらも、僕は感覚を研ぎ澄ませ、敵の動きを探った。次にどこに攻撃が来るか、完全ではないけどなんとなくわかる。だから怖くても体を動かせる。
僕は次の攻撃に備え、身体の動きを最小限に抑えながら敵の“気配”を探った。風の流れ、筋肉の緊張、そして微かな呼吸音。すべてがひとつのパズルのピースのように繋がっていく。
「来る……!」
右斜め前からの爪が襲いかかる。僕は間一髪でそれを躱し、逆手に剣を振り上げた。刃先が敵の肩に食い込み、魔獣が苦悶の声を上げる。だが、反撃はすぐに始まった。もう一体の魔獣が僕の左側を狙い、爪を振り下ろす。
「くっ……!」
片手で剣を振り返し、かろうじて攻撃を受け流す。掠った爪が僕に刻んだ傷は浅かったが、油断はできない。戦いはまだ終わっていない。息を吸う。肺の奥まで冷気が入り込み、震えていた手が少しずつ落ち着いていく。剣の重みが、さっきよりも自分の一部のように感じられた。
(これが、“戦う”ってことか)
今度は僕も躊躇わずに走る。僕の首を噛み千切ろうと突っ込んでくる頭を避け、剣を突き立てた。斬撃は深く、手応えははっきりとあった。魔獣が呻きながら崩れ落ちる。
その間隙を縫って、もう一体が回り込もうとする。けれど、僕はもう焦らない。その気配が、風のざわめきと共に届いていた。
「__ここだ!」
体を捻って後ろ蹴りを放ち、勢いを止めると同時に剣を引き戻して斜めに振り上げる。鋭く、そして迷いなく。その斬撃に魔獣は呻きながら後退した。視線が合う。恐怖を含んだ、しかし冷たい視線だった。
――自分が、戦える。そう思ったそのとき、背後から力強い声が響いた。
「ラルム、かがめ!」
空気が震え、肌に触れる冷気が一瞬で全身を走り抜けた。喉に詰まった唾を飲み込む間もなく、体が無意識に反応する。意識より先に、直感が動きを決めていた。
魔獣の鋭い爪が肩をかすめる。布が裂け、火傷のような熱さが一瞬で走った。怯み、反撃に出れない体勢の僕を魔獣は勝利を確信した目で捉える。振り返る余裕はどこにもなかった。
それでも、僕は信じた。
「ッ……!」
全身の筋肉を引き締め、重心を落として思いきりしゃがみ込む。そのわずかな間に、頭上を何かが風を切る音を伴って駆け抜けていった。
鋼の刃が、まるで風と一体化するように、僕の真上を走った。
リントの剣だった。飛びかかってきた魔獣の胴体は、刃に一撃で断ち切られ、屍となって地面に崩れ落ちる。リントが手を差し伸べ、僕の手を掴んで引き起こした。
「動けるか」
問いかけられ、必死に頷く。だが、震える足はまだ思うように動かず、まるで鉛のように重かった。心は「前へ」と命じているのに。逃げ出したいわけじゃない。でも、体がついてこない。
怖い――その感情を、噛み殺すので精一杯だった。一度押し込めたはずの感情は、流れ出る血と共にジクジクと僕の体を染め上げる。
それを見逃さず、リントは短く告げた。
「なら、そのまま走れ。“怖さ”を飼いならせ。まだ終わってない」
その言葉が、不思議と胸に染み込んできた。
逃げていいわけじゃない。怖さは、ただの“燃料”だ。
もう一度頷くと、リントは満足したように口角を少しだけ上げ、剣の血を払った。
剣を構える。視線の先には大型魔獣が悠然と立ちふさがっている。残る魔獣は健を切られて動けない。今なら勝てる――そんな確信が体を駆け抜ける。
リントが低く、しかし確かな声で告げる。
「最後だ。行くぞ」
僕は一瞬迷いなく頷いた。
自然と声が出た。震えも、もう消えていた。足に力を込める。体が前へと傾き、心臓の音すら遠くなっていく。リントが風のように駆ける。その背を、僕も追いかけた。
リントの剣が、獣の右前脚を斬り飛ばす。巨獣の咆哮が耳をつんざくが、恐怖はなかった。ただ、前だけを見ていた。
振り下ろされる腕。リントはギリギリで、しかしマントにすら触れさせない動きで危なげなく回避する。
ここしかない。
一瞬の隙。跳び込むように踏み込み、渾身の力で剣を突き出す。刃が、巨獣の喉元に深く突き刺さった。重く濁った呼吸音。見開かれた瞳――。そしてその巨体から、ストンと力が抜けた。巨獣の体が、膝を折るようにして崩れ落ちた。
鈍い音が地面を震わせる。巻き上がる土煙の中で、僕は息を吐いた。
――終わった。
一瞬を幾度も繰り返すような命懸けの戦いを生き抜いてここまで来た。
けれど、まだだ。
僕はすぐに顔を上げる。リントも同じだった。
「気を抜くな。大型のもう一体が、まだ――」
僕が振り返る。その言葉の先、後ろを振り返った瞬間――
そこに、姿はなかった。
ただ、土に深く刻まれた爪痕。そこから続く、赤黒い血の痕が湖のほうへと伸びている。湖の縁には、大きな波音と共に揺れる水面。血で赤く染まった波が、静かに寄せては返していた。
――逃げた? それとも、倒れて湖に沈んだ? 分からない。ただ、その場には何もいなかった。
「……終わった、のか?」
誰の問いともなく呟いたその声に、リントは返事をしなかった。
あまりにあっけない終幕。けれど、確かにこの戦いは終わったのだ。僕は深く息を吸って、少しだけ空を見上げた。
戦いの残り香が、風に流れて消えていく。