第一幕:婚約破棄
「フム」
「……!」
ふとリビングに入ると、お父様がテーブルの上に地図を広げ、そこに無数の兵棋を置いて唸っていた。
あ、あれは……!
「この兵の配置、さては昨年の『コウキ戦役』の再現ですね、お父様!」
「……! コーメ、いたのか」
お父様は我が国の軍師を務められているお方。
数々の戦をその軍略で勝利に導いてきた、国の英雄。
子どもの頃からの私の憧れだ。
いつか私もお父様のような軍師になりたいと、日々様々な兵法書を読み漁って勉強している。
「この時もお父様の軍略が見事にハマりましたね! まずは少数部隊で敵陣を釣り出してから、左右から一気に――」
「だまらっしゃい!」
「――!」
お父様に凄い剣幕で怒鳴られた。
お、お父様?
「いつも言っているだろうが! 戦争はあくまで男の仕事だ。チュターツ公爵家の令嬢であるお前の仕事は、皇帝陛下の未来の妻として、子を成すことだ」
「で、ですが、私は……」
私もお父様のような、軍師に……。
「もうこの話は終わりだ。今夜は国中の貴族が集まる大事な夜会が王家で開かれる。お前は早く支度しろ」
「……」
フンと一つ鼻を鳴らすと、お父様は目線を地図に戻した。
私はお父様に背を向けると、奥歯を噛みしめながらリビングを後にした――。
「コーメ・チュターツ、ただ今をもって、貴様との婚約を破棄する!」
「――!」
宴もたけなわとなった夜会の最中。
私の婚約者であり、我がギアン帝国の皇帝陛下でもあらせられるソウソ陛下が、唐突にそう宣言した。
そ、そんな――!
あまりのことに場が騒然となる。
「どういうことですか陛下! 私たちの婚約は、先代の皇帝陛下が決められたこと。それを反故するなど、あまりにも不敬です!」
確かに私も軍師に憧れを持ってはいたものの、自らに課せられた未来の皇后としての役割は果たすつもりだった。
その上で軍師としての道も模索する計画だったのに。
「フン、父上はもう死んだ。今の皇帝はあくまで余だ! 余の決定は神の意志に等しい。貴様のような公爵家に生まれただけのただの女が反論することのほうが、余程不敬だ」
「……!」
ソウソ陛下……。
「そもそもシーベを階段から突き落としておいて、どの口が言えるというのだ、この痴れ者め! これは立派な殺人未遂だぞ!」
「嗚呼、ソウソ様……」
「っ!?」
右腕に仰々しく包帯を巻いた男爵令嬢のシーベ嬢のことを、ソウソ陛下は愛おしそうに抱き寄せる。
「誤解です! あれはシーベ嬢が自分で勝手に――」
「そんな、酷いですコーメ様! 私が噓をついているとでも仰るんですか! ふええぇん」
「おお! 可哀想にシーベ! こんなか弱いシーベが噓を言うはずがないだろうが! いい加減自分の罪を認めたらどうだ、この犯罪者めッ!」
「……」
ダメだ、取り付く島もない……。
先代の皇帝陛下が急逝したことにより、若くして皇帝となったことが裏目に出ている。
今のソウソ陛下は、自分に見えている世界こそが真実にして絶対なのだ。
自分が誤った認識をしているかもしれないという考慮が、完全に頭から抜けている。
「貴様のような大罪人は、本来ならこの場で即死刑に処すところだが、一応長年婚約者として過ごしてきた仲だ。余の寛大な心で、国外への追放処分で済ませてやる。ありがたく思えよ!」
「――!」
国外へ……追放……。
そうなったらもう、私は軍師には……。
「お父様ッ!」
私は縋るように、お父様に声を掛ける。
――が、
「まったく、チュターツ家の恥さらしめ。今まで貴様にかけてきた金と時間がこれで水の泡だ。――貴様とは、今この場で親子の縁を切る。さっさとどこへでも行って、野垂れ死ぬがいい」
「――!!」
お父様は道端で干からびているミミズの死骸を見るみたいな目で、私を見下ろしてきた。
……お父様。
「ソウソ陛下、もうチュターツ家とこの女は一切関係ございません。どうかチュターツ家のことは、今後ともよしなに」
「フン、よかろう。お前には軍師として、我がギアン帝国を支えていってもらわねばならないからな」
「ハハァ、ありがたき幸せ」
もうソウソ陛下とお父様の瞳には、私は映っていなかった。
この瞬間、私は世界から隔絶されたかのような感覚がした。
「来い」
「……!」
屈強な兵士数人に取り囲まれて、私は会場から連れ出された。
そんな私の背中に、「さようなら、コーメ様」という、シーベ嬢の勝ち誇ったような声が落とされた――。
……自分が情けない。
軍師を目指しておきながら、あんな小娘に知略で負けるなんて。
私は涙を堪えるため、奥歯を噛みしめた。