車中にて、兄妹の日常
その日、さとみは兄の運転する車で帰宅する予定ではなかったのだ。
前日の土曜、母の実家である静岡の祖父母の家に遊びに行き、一泊して今日。
横浜で大好きなバンドのライブを楽しんでから新宿にある自宅まで電車で帰るはずだった。
「しっかしサイフ落とすなんてなー」
兄のはじめが、迎えに来るのを電話口では渋っていたとは思えないほど明るく呆れてみせた。車を出すのが面倒で嫌々迎えに来たものの、助手席に乗り込んだ妹のあまりの凹みっぷりに同情したものらしい。
「……盗られたのかもしれないけど……。……わかんないけど……」
暗い。
はじめは大学に通うため、普段は神奈川に独りで住んでいる。といっても、10分も歩けば都内に入ってしまうような場所だが。
この日曜日には新宿の実家で過ごしていて、そろそろ帰るかーー、という時に妹からの救援要請。渋っていようが母親に「迎えに行ってやりなさい!」と、父の中古車と共にたたき出されては迎えに行かないわけにはいかない。
口には出さないが、さとみはこの3つ違いの兄を信頼できる、いざというときに頼りになる存在だと思っている。だからついつい甘えてしまうのだが、はじめは普段は別段、妹に甘い兄というわけではない。
ただ、こんな風にさとみが落ち込んだり困って悩んだりしていると、然り気無く励ましたり手助けしたりしてくれるのだ。
「スマホ持ってて良かったな。カードや学生証は大丈夫か?」
高校生にクレジットカード等は持たせていないが、銀行のカードや個人情報満載の学生証を一緒にサイフにしていたのなら大事だった。
はじめの心配は無用だったようで、さとみは首を横に振り、お金しか入っていないと答えた。
「カードなんて持ってないもん。学生証ってゆーか生徒手帳は制服の上着に入れっぱなしだし」
「そっか。良かったな」
もちろん不幸中の幸いという意味で言ったのだが、良かったと言ってしまってから、良くないんだったと気付いたところで後の祭り。
「よくないよーーっ! 吉良さんのピックが入ってたんだよー!」
「うるさい! 車の中で大声出すな」
以前のライブで、推しのギタリストが投げたピックを奇跡的にキャッチしたという話はそのときアホほど聞いていた。耳たこである。
「……それに現金入ってたし」
サイフの役割を考えると現金が入っているのは当然なのだが、はじめはどうせ大した金額ではないだろうと特に聞かなかった。しかしよく考えたらじじばばの家に行ってきた帰りだ。お年玉並みの小遣いでも貰っていたのかもしれない。だとすると高校生にはかなりのダメージだ。
「いくら」
「はっぴゃくごじゅうえん」
大した金額ではなかった。心配して損した。
「…………お前、サイフ無くさなくても俺を呼ぶつもりだったんじゃないだろうな!?」
まさか、元々タクシーがわりに呼び出すつもりだったのでは。
「そんな事ないよ! 帰るだけならワンコインあれば帰れるもん! 800円あったら余裕だもん!」
横浜から新宿までは電車で一本乗り換えもいらない。500円あれば確かに帰宅できるはずだったと主張する妹に、静岡から帰ってきた事を考えるとギリギリではないのかと呆れる兄だった。