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信長廃嫡  作者: 白紙撤回
第十章  萬松寺
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第十章  萬松寺(10)

 

 

 

 萬松寺の周囲には、烏帽子と直垂の礼服姿ながら槍を手にした侍たちが、そこかしこに立っていた。

 その門前に到着した吉法師は、寺の若い僧に迎えられ、

 

「畏れながら下馬を願いまする。お供の衆は、門前でお待ちいただくようにとの殿様のお指図でございまする」

 

 顔をうつむけたまま目を合わせず告げられて、鷹揚にうなずいた。

 

「……であるか。されば父上のお指図通りといたそう」

 

 吉法師は犬千代と小十蔵、それに馬の口取りや槍持ちなどの小者を門外に留めて、僧とともに境内に入った。

 犬千代たちは心配げであったが、変事が生じたときに逃げるには寺の外にあるほうが容易たやすい。

 萬松寺の見張りにつけた伴与七郎配下の甲賀者もまだ引き上げさせていないから、いざというときは犬千代たちの逃亡を手助けしてくれるだろう。

 境内にも礼服姿の侍たちが槍を手に居並ぶ。

 その礼服は吉法師の婚礼のためという建前のはずだが、花婿である吉法師を祝福する様子はない。

 いずれも緊張した面持ちの彼らは、吉法師と目を合わせようとしないのだ。

 七堂伽藍を構える境内を進んで、吉法師は本堂の前に来た。

 案内役の僧が吉法師に頭を下げた。

 

「殿様と和尚が、若殿を本堂でお待ち申し上げておりまする」

「……であるか」

 

 吉法師はうなずき、階段を上がって本堂の戸を開けた。

 外の明るさに比べて、堂内の薄暗さに目が慣れるまで、ほんの少しかかった。

 あらためて堂内の様子を確かめると、正面に見慣れた本尊の十一面観世音菩薩像があり、その前の祭壇に大小の位牌が並ぶ。

 吉法師の祖父である月巌──生前の諱は信定──と、祖母の含笑院、曽祖父の西巌せいがんと、その前の世代の先祖らの位牌である。

 含笑院の墓所は、もとのまま清須にあるが、位牌を新たに作って萬松寺にも安置したのだ。

 そして戸口から見て左手には七人の男たちが居並び、右手にはしとねが一つきり、置かれていた。

 

「よう来たのう、三郎」

 

 左手から声がかかった。

 居並ぶ者たちの中央に座した、備後守からであった。

 薄暗さのため顔色はわからないが、頬がこけて声はかすれ、しかし目ばかりが、ぎらぎらと輝いている。

 医師が毒を混ぜた薬を備後守に与えようとしたのは吉法師が阻止したが、それより前に飲んだ酒にも、ほぼ確実に砒石ひせきが混ぜられていただろう。

 砒毒でただれた臓腑は、容易に元には戻らない。

 常に胃や腸の痛みを抱え、食欲の衰えた備後守は、しかし百薬の長であるからと酒は飲み続けて、さらに体調を悪化させていた。

 そのため吉法師の婚礼に列席する予定はなかったが、この場には烏帽子と直垂の正装で現れている。

 備後守の両隣には、勘十郎と、大雲永瑞和尚がいた。

 ほかに佐久間大学と佐久間次右衛門、林新五郎と林美作が左右に並ぶ。

 あとは若い近習が二人、備後守の後ろに控えていた。

 両佐久間は吉法師の廃嫡の策謀には関わっていなかったが、いまは怒りに満ちた目で吉法師を睨んでいる。

 林兄弟は揃って口元に笑みをたたえているが、相変わらず目は笑っていない。

 そして勘十郎は、いくらか憐れみを込めた微笑を吉法師に向けていた。

 大雲永瑞和尚は眉をしかめ口をとがらせ、不機嫌を隠さない顔である。

 吉法師は、あえて大仰おおぎょうに驚いた風を装ってみせた。

 

「婚礼の前に、あらためて御先祖へ挨拶せよとのお指図で参りましたが、これは何事でございましょうか、父上」

「まあ、まずは座るがよいぞ」

 

 備後守は言って、右手の一つきりの茵を指し示す。

 吉法師は、首を振った。

 

「父上や和尚はともかく、弟の勘十郎や家来筋の者どもに、何やら詮議せんぎを受けるようなかたちで座すことはできませぬ。お話なら、この場で立ったまま伺いましょう」

「儂が、座れと申しておるのじゃ」

 

 睨みつけてきた備後守に、吉法師は冷ややかな目を向ける。

 

「儂は座らぬと申しておる」

「何じゃと」

「晴れの祝言の日に、ことの仔細も明かされず咎人とがにんがごとき扱いをされて、儂が大人しゅう従う者と父上はお思いか。はよう用向きを申されるがよい」

「ぬう……子が父に向かって、よう申したわ!」

 

 備後守は眉を吊り上げ、声を荒らげた。

 

「されば、おのれがまことに当家の嫡子としてふさわしいか、御先祖の前であかしを立ててみよ……!」

 

 備後守はそこで、咳き込んだ。

 勘十郎が気遣う様子で、その背をさする。

 

「父上、御無理はなされませぬよう」

「無理でも我が家のため、理非を明らかにせねばならぬのよ。勘十郎に家を継がせて、誰にも異を唱えさせぬためにはのう……」

 

 備後守の言葉に、大雲永瑞は首を振った。

 

「そのために家来の前で、家の恥を晒すか。三郎の申す通り、この場には、そなたと儂と、あとは孫三郎でもおれば充分であったろう」

「これは家来にも得心させねばならぬことでござるぞ、和尚。長子を廃嫡いたし──あまつさえ、腹を切らせようと申すのじゃ」

「まことに三郎に罪があれば、腹を切らせたあとで、そのことを家中に触れればよい」

 

 大雲永瑞は、なおも言う。

 

「ここでは御先祖も、観世音菩薩もご覧になっておわす。それで充分ではないのか」

 

 吉法師はそれを聞いて、また大仰に首を振った。

 

「さてなおも仔細を明かさず、今度は腹を召せなどと穏やかならぬ仰せ。父上はそこまで勘十郎が可愛かわゆく、儂をば憎くお思いか。とは申しても祝言には列席なさらぬはずが、この場に烏帽子姿でおわすのは、儂が腹を切るのを見届けるためとすれば、ありがたき親心ではござろうか」

 

 こうして父親を嘲弄ちょうろうするような不遜ふそんな態度も、しかし吉法師の立場では当然のことであった。

 ここまでまだ誰も、ことの次第を吉法師に説明していない。

 だが佐久間大学が、吉法師を一喝した。

 

「往生際が悪うござるぞ御曹司!」

「左様、事の次第は明らかでござる!」

 

 佐久間次右衛門も怒鳴る。

 

「御曹司の御謀叛のあかしが、殿のお手元にございまするぞ!」

「ほう」

 

 吉法師は目を丸く見開いた。

 

「筋立ての見えぬ猿芝居に、さてどこまでつきうてやるかと思案しておったところが、ようやく本題に入ったか」

「さ……猿芝居じゃと!」

 

 次右衛門がわめいたが、吉法師は構わず、つかつかと備後守に歩み寄ろうとする。

 後ろに控えていた二人の近習が慌てて進み出て、吉法師の行く手を遮った。

 

「この儂を邪魔立ていたすか」

 

 吉法師は近習たちに冷たい目を向ける。

 

「よいか。ことの理非が明らかになったとして、そのほうどもの、この儂への態度は決して忘れぬ。覚悟いたすがよい」

「その者たちは、父上の近習として務めを果たしているだけです、兄上」

 

 勘十郎が微笑のまま宥めるように吉法師に言った。

 そして備後守に、

 

「父上、例の書状を。わたくしから兄上に御目にかけましょう」

「……うむ」

 

 備後守はうなずくと、懐から書状を出して勘十郎に渡した。

 勘十郎は席を立って吉法師に歩み寄り、書状を差し出して来た。

 

「お心当たりがおありでしょう。兄上の筆跡です」

「……であるか」

 

 吉法師はそれを受け取り、広げて目を通した。

 眉をしかめた。

 

「……確かに、この儂の手としか思えぬ。儂自身が見ても」

「もちろんでしょう、兄上が書かれたのですから」

 

 そう言った勘十郎を、吉法師は睨みつける。

 

愚弄ぐろういたすな。どこの阿呆が服部半三ごときに謀叛の覚悟を打ち明けるのじゃ。作り物にしても儂を莫迦ばかにしておるわ」

 

 吉法師は書状を勘十郎に突き返し、佐久間大学、次右衛門、林新五郎、美作の顔を順に見ながら、言った。

 

「そのほうどもは、これほどの阿呆と儂を見くびっておったか。父上が竹千代の命を奪おうと望み、この儂を廃嫡いたして勘十郎に家督を継がせる考えでおるのがゆるせぬと。まあ、そこまでの筋立てはよいであろう。されど、何故なにゆえその意向を服部半三がごとき軽輩者に儂が書状で伝えるのじゃ。左様な書状なら太原崇孚か今川治部大輔当人に宛てて送るわ」

「服部半三は三河忍びの頭領にござる」

 

 もっともらしく言った林新五郎を、吉法師は睨む。

 

「あれは忍びをかたっておるばかりの伊賀牢人じゃ。侍として武家に仕官が叶って悦に入っておる者よ」

「見苦しいですよ、兄上」

 

 勘十郎が、やれやれと首を振ってみせた。

 

「この書状が兄上の手によるものであることは、大雲永瑞和尚を含めて、この場にいる誰もが疑っておりません」

「そうまで申すなら、こちらもこの書状を父上にお目にかけよう」

 

 吉法師は懐を探り、自分も書状を取り出した。

 勘十郎が受け取ろうとしたのを、吉法師は手を引っ込めて、近習の一人に呼びかける。

 

「これを父上にお渡しいたせ。さすれば先ほどの無礼な態度は忘れてつかわす」

「は……」

 

 近習は伺いを立てるように勘十郎の顔を見たが、勘十郎がうなずいたので、書状を吉法師から受け取り、備後守のもとへ運んだ。

 備後守はそれを広げて読み始め、すぐに、かっと目を見開いた。

 

「……何じゃ、これは……」

「父上の愛妾でござったユキと申す女子おなごに、勘十郎が宛てた恋文にござる」

 

 吉法師は答えて言った。

 

 

 


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