第十章 萬松寺(9)
吉法師は烏帽子に直垂姿で、髪を元服した当時のように短く整えている。
つまり髪を下ろせば女子のように腰に届くほどだったものを、髷を結いやすいように、ばっさりと切られてしまった。
ついでに眉まで、きりりと締まって見えるように長さを揃えたり周りを剃ったりされた。
自ら望んだわけではない。
母の土田御前の手配りで、那古野城の奥御殿を取り仕切ることになった侍女頭の松枝の仕業である。
これまで那古野城には台所で働く下女はいても、奥御殿に侍女はいなかった。
吉法師の身の回りのことは近習と小姓に任されていた。
まだ正室を迎えておらず側室も抱えていない吉法師は、身近に女の使用人を置いていなかった。
しかし美濃から帰蝶姫の輿入れが決まって、那古野城でも奥御殿の体裁を整える必要に迫られた。
いや吉法師としては、
「侍女など帰蝶とやらが山ほど連れて参るであろう。美濃一国を差配する者の娘であるぞ」
そう思って土田御前に、当家で侍女の手配りは無用と手紙で書き送ったが、すぐに折り返し土田御前と、御前から手紙を見せられたらしい桂木から、吉法師の心得違いを叱責する書状が届いた。
「奥こそが家の要です。子が生まれれば男子であっても物心つくまで奥で育ちます。また万が一、子が生まれなければ側女を迎えなければなりません。その身の回りの世話を全て、他家から参る侍女たちに任せきりにしたのでは、当家の家風が守られません」
ゆえに母である土田御前と、その信頼厚い桂木の二人で、那古野城の奥御殿を守るにふさわしい侍女を選んで遣わしたというのが、松枝とほか五名──朝霧、常春、追分、薄緋、土筆たちであった。
土筆のみ十四と若いが、あとは三十手前の貫禄のある女たちだ。
帰蝶が吉法師に輿入れしたら、織田家の家風をしっかり学んでいただこうなどと意気込んでいる。
そして一人だけ若い土筆はどうやら、吉法師の側室候補として送り込まれたらしい。
松枝以下の年長の侍女たちが、何かにつけて土筆を持ち上げる。
よく気が利く。
裁縫が得意。
和歌の心得がある。
声がよく、歌を詠むのが上手──などなど。
当人がいるその場でそれを聞かされて、土筆は照れたように笑うばかりで、自ら積極的に吉法師に近づこうとはしないが、年長の侍女たちが褒めそやすのを止めることもしないから、おのれの役割は理解しているようだ。
帰蝶の輿入れ直前になって、自分たちが選んだ娘を吉法師の側室にしようと企てた土田御前と桂木は、まだ顔も見ておらず気性も知らない嫁に、早くも敵愾心を抱いているのだろうか。
(嫁取りが決まっての挨拶で孫三郎叔父貴を訪ねたときに、申しておられたな。どうしたわけか女親は、息子の嫁を敵視するものじゃと……)
それは男には止められるものではない。
しかし母には父という味方がいるのだから、自分は嫁の味方になってやらなければいけないのだと孫三郎は言っていた。
(何とも気が重い話であるな。御台所から母上の悪口ばかり聞かされたら、如何したらよいのじゃ。母上から御台所の悪口を聞くのも耐え難いであろうが……)
姑と嫁がうまくいっている実例はないかと思い、内藤や滝川久助など周囲で妻帯している者に聞いてみたが、久助は嫁を迎えた時点で母は亡くなっていたと言い、内藤のほうは、
「我が母は亡くなるまで、妻とは喧嘩ばかりでしたな。されど母が亡くなると妻は棺にすがって泣いてくれました。喧嘩するほど仲がよいとは、よく申したものですな……」
と、しみじみした顔で語られたが、あまり参考になる話ではなかった。
平手五郎右衛門にも聞いてみたところ、いままで見せたこともないような、ぎょっとした顔をされて、
「……それがしのところは、お互いオトナとして、うまくやっていると思いまする……」
と誤魔化され、これまた参考にならなかった。
閑話休題。
松枝のおかげで、すっかり変身させられた吉法師が御座敷に現れたのを見て。
勝千代、万千代、犬千代は、ほうっと感心した様子を一度は見せてから、にやにやと笑い始めた。
小十蔵は感心を通り越して、ぽかんとした顔で吉法師を見上げている。
吉法師は眉をしかめて、勝千代たちに告げた。
「何であるか。言いたいことがあれば申すがよい」
「いやいや、あらためて見ると殿って、ちゃんとした格好をするとホントに貴公子って感じでイケてますよね」
勝千代が言って、万千代がうなずき、
「いやホントです。そのお姿をご覧になれば御台所様は、もう心底から殿に惚れてしまわれるものと」
「最初が肝心ッスからね。男と女の関係は惚れさせたほうが勝ちって、ウチの兄貴たちも言ってました」
犬千代が腕組みをして、我が言葉にうんうんとうなずいている。
小十蔵は目を潤ませ、顔を伏せて涙を拭った。
「本当によくお似合いです、殿……。その晴れのお姿を目にすることができまして、わたくし、いままで殿にお仕えして参りまして本当によかったと思います……」
「それは平手のジイサンみたいな、本当に長年、殿に仕えて来たような年寄りが言うことだぞ」
犬千代が笑い、小十蔵の肩を抱く。
「まあでも気持ちはわかるよ。オイラだって晴れ晴れした気分だし」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
勝千代、万千代、犬千代と小十蔵の顔を順に見て、
「儂がこの日を迎えることができたのも、そのほうたち側近くにあった者の働きあってのことじゃ。礼を言わせてもらいたい」
「いやそんな、殿からお礼だなんて」
勝千代が慌てて、万千代も、
「ええ、もったいないお言葉です」
「でもまだ、ここが出発点じゃないですか。猫十さんが知らせてくれた例の件も、まだこれからどうなるか……」
犬千代が言いかけたところで、御座敷の戸口から声がかかった。
村井吉兵衛が、その場に片膝をついて、言上した。
「申し上げまする。ただいま大殿より火急のお使者が参られまして、殿にはただちに萬松寺へお越しあるようにとのお指図でございまする」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
「我が婚礼当日に事が起きようとは。そして父上が、それに乗ろうとはのう。萬松寺に何故お召しであるかは、使者は申しておったか」
「はい、御先祖の皆様方と大雲永瑞和尚に、婚礼の日を迎えられましたことを、あらためてご挨拶なさるようにとのことでございましたが……」
それが真意であるとは、村井も信じきれていない様子である。
自身に向けられた陰謀があることを、吉法師は村井には伝えていない。
しかし大殿、備後守に毒を盛ろうとした医師が斬罪となった一件は家中に知れ渡っている。
それ以来、備後守は体調が思わしくなく、家中に動揺が続いていることも。
そうした状況で、吉法師の婚礼は、久々に明るい話題であったのだ。
ところがその当日、直前になっての不可解な備後守からの呼び出しである。
吉法師はすでに大雲永瑞和尚と萬松寺にある先祖代々の位牌にも、嫁取りが決まったことは報告している。
婚礼直前になって、あらためて萬松寺へ出向くようにと備後守が命じた理由は何なのか。
「……であるか」
吉法師はうなずくと、勝千代、万千代、犬千代そして小十蔵に告げた。
「よもや萬松寺で父上が、天道に背き先祖にも恥ずべき行いをなさろうとは思わぬ。儂は存分に理非を明らかにして参るゆえ、父上であれ誰であれ、儂を害することなどできぬであろう。しかし、もしも我が敵がこの那古野の城に兵を向けて来ることあらば、侍女と奉公人たちを城から逃がしたのち、そのほうたちは落ち延びよ。安養寺にある足軽衆にもそう申しつけてあるし、伴与七郎には竹千代を連れて三河へ迎えと指示してある。久助は年長であるゆえ、おのれの考えで立ち回るであろう」
「敵を迎えて一戦交えたらダメですか」
勝千代が言って、吉法師は首を振り、
「変事があれば、儂はこの城には戻らぬ。他日を期して尾張より落ちるつもりじゃ。そのほうたちも、そういたすがよい。だが、ほとぼりが冷めたのちに尾張へ戻り、あらためて勘十郎なり孫三郎叔父貴なりに仕えるのは望むがままじゃ。儂も時機を得れば我があるべき場所を取り戻すべく兵を挙げることはあるやも知れぬが、それがいつになるかは約束できぬゆえ」
「わかりました」
万千代は言った。
「そんなことになったらもう、殿が兵を挙げたときでなければ尾張には戻らないつもりですが、ともかくお指図通り城を落ちます」
「オイラは萬松寺まで、ついて行っていいでしょう?」
犬千代が言う。
「誰かお供は必要ですし、いざとなったら小十蔵と一緒にうまく逃げますんで」
「あ、ズりぃ。オレもそっちの役目がいいぞ」
勝千代が言ったが、犬千代は小十蔵の肩に腕を回して笑い、
「これは小姓であるオイラたちの役目だぜ。なあ、小十蔵?」
「はい、犬千代……アニキ」
小十蔵も笑う。
吉法師は、うなずいた。
「では参ろう。儂が天意に適うておるなら、この城に戻るときには祝言の宴となろうぞ」




