第十章 萬松寺(7)
尾張本国から与力として派遣される諸将とその配下の兵のため、安祥城主の三郎五郎は、城下に新たな屋敷と長屋を用意した。
しかし与力のうちでも大身の林新五郎は、用意された屋敷が手狭であるとして、城下の寺に仮住まいすると決めてしまった。
寺にはそれなりの礼金が渡されたが、尾張の織田様の有力な家臣の要求を、寺としては拒めるものではない。
新五郎が書院に、その近臣らが僧房に住まうことになり、僧たちは本堂で寝泊まりすることを余儀なくされていた。
そして。
天文十八年二月の、その日──
日も暮れかけた時分に、尾張から弟の美作が、火急の用件と言って新五郎を訪ねて来た。
灯明に火を入れた書院で、新五郎は美作を迎えた。
「火急とは一体、何事じゃ。まさかまた大殿が御命を狙われたとでも申すか」
「それに絡んだ話じゃ。まずは、兄者にこれを見てもらいたい」
美作は懐から出した書状を新五郎に渡した。
それを広げた新五郎は、ひと目見て、眉をしかめた。
「うつけ殿の筆ではないか」
「やはりそうであるのか。兄者が申されるなら間違いはござらぬ。それがしは判形のほかに、うつけ殿の直筆を目にしたことがないゆえ。いやそれより問題は、その内容じゃ」
「むう……?」
書状を読み進める新五郎は眉間の皺を深くした。
「……何なのじゃ、これは。まことのこととは、とても思えぬ。この書状の出処は、いったい何処じゃ」
「鳴海城の山口左馬助殿から、それがしに届けられた。いや山口殿も真贋を判じかねて、それがしから兄者にお確かめいただきたいとのことで」
「山口殿は、如何にしてこれを手に入れた」
ぎょろりと大きな目で新五郎に睨みつけられ、それとよく似た大きな目を美作は泳がせる。
「されば、鳴海の御城下に胡乱な者が……あいや、順を追って申しましょう」
山口左馬助が城主を務める鳴海城は、東海道の鳴海宿を見下ろす丘の上に建つ。
ゆえに胡乱な者が入り込まぬよう、城から番卒が遣わされて、宿場の人の出入りに目を光らせている。
その番卒の一人が、宿場を通り抜けて東へ向かう旅人の中に見知った男の顔を見つけた。
男は連雀を背負った行商人のような身なりであったが、それが不審であった。
番卒が知るその男は、熱田の商家の三男坊であったが、那古野の殿様に足軽として雇われたはずであるからだ。
果たして、番卒が声をかけると、男は逃げ出した。
番卒はすぐに追いかけたが、人通りの多い東海道のことゆえ、逃げ切られてしまった。
だが、男は逃げる途中で連雀を放り出して行った。
そこで山口左馬助の家来が連雀の中身をあらためると、問題の書状が隠されていた──
美作の説明を聞き終えて、新五郎は、呆れきった顔で首を振った。
「話が出来すぎておるわ」
「じゃが筋は通ってござろう。何よりこの書状が、うつけ……いや、三郎様の直筆であると、兄者も認めたではないか」
美作に念を押されて、新五郎は腕組みをした。
ぎろりとまた、美作を睨んだ。
「そのほうは山口殿から、直にこれを受けとったのか」
「あ……いや、使いの者からであったが」
「ではその使いが、まことに山口殿から遣わされたのか、わからぬわけじゃ」
新五郎が言うと、美作は慌てて、
「待たれよ兄者、書状の出処はどうあれ、書かれておることは明らかじゃ」
「我が家中に騒乱を引き起こしたい松平方の……ひいては今川方の謀事であるやもしれぬぞ」
「そうであったとして兄者、我らが困ることは何もないではないか」
美作の言葉に、新五郎は眉をしかめる。
「むう……?」
「よくよく御勘考なされ。この書状を殿にご覧に入れれば、いかなることになろうか。三郎様の御行状に案ずるところがあれば正嫡について考え直すと、殿は仰せでござった。これが、その考え直す材料になるのではござるまいか。まことは殿とて勘十郎様のほうが可愛いはずじゃ。三郎様を御廃嫡なさらぬのは、それにふさわしい口実がなかったばかりのこと」
美作が言い募ると、新五郎は腕組みをしたまま顔を伏せ、考え込む様子を見せた。
「むう……、なるほどのう……」
「いかがであろうか、兄者」
「だが、もう遅すぎる」
新五郎は首を振った。
「明日には美濃より帰蝶姫様の御輿入れじゃ。それを目前にして、あの体面を気になさる大殿が、三郎様の御廃嫡など断じられるはずもない」
「いや、いまからでも末森へ馬で駆ければ、まだ間に合おう。帰蝶姫様が尾張へ御到着なされたとして、三郎様との祝言を挙げさせなければよいのじゃ。まずは、事の次第を三郎五郎様にも言上して、殿へ急ぎの使いをお送りいただこう。ひとまず祝言を日延べくださるように、仔細はのちほど我ら兄弟が参上して申し上げると」
美作の説得に、新五郎は目を閉じる。
「むう……、……相わかった」
ぎょろりと大きな目を、かっと見開いて新五郎は決断した。
その場で立ち上がり、美作に告げた。
「よかろう。この書状を三郎五郎様にもご覧いただき、大殿へ急使をお送りいただくようお願いいたそう」
「では」
美作の問いかけに、新五郎はうなずいた。
「うむ。我ら二人で末森へ参上いたし、この書状を大殿にお検めいただこうではないか」




