第十章 萬松寺(4)
那古野城内、主殿の御座敷。
「──これにて本日、殿の判形を賜りたき判物、書状は以上にございまする」
村井吉兵衛が言って、島田所之助と四人の右筆とともに一礼した。
上段の間に座した吉法師は、鷹揚にうなずく。
「うむ、御苦労であった」
「それでは失礼いたしまする」
「失礼いたしまする」
村井以下、一同は御座敷を退出して行く。
しかし島田のみが戸口で足を止めて振り返り、
「ではまたあした、御機嫌よう」
真顔でそう言い残して、去って行った。
上段の間の手前に控えていた小十蔵が呆れたように、隣に座る犬千代に言った。
「島田殿はいつも必ず真顔のまま一言、おかしなことを言ってから去って行かれますが、どう反応していいのかわかりません」
「反応しなくていいように去り際に言ってくれてるんだろ」
犬千代は笑う。
そこに、庭先から声がかかった。
「失礼いたしますぞ」
滝川八郎の家人で、老いた忍びの猫十であった。
犬千代は手招きする。
「ああ、猫十さん。殿はたったいま一仕事終えたばかりで動くつもりはないでしょうから、こっちに上がって来てください」
「……である」
吉法師は足を投げ出し、あくびを噛み殺しながら、こくりとうなずく。
猫十は笑い、
「よろしゅうございまするのか。この爺は遠慮しませんぞ」
ひょいっと濡縁に飛び上がると、ためらいもなく座敷まで入って来た。
それが足音も立てず、畳の上を滑るような足取りである。
上段の間の前で無造作に腰を下ろして胡座を掻いても、やはり音を立てなかった。
小十蔵が目を丸くして、
「すごい、床の軋む音もさせないなんて」
「忍びもこの年になると霞を喰ろうて生きるようになりますからな。体が枯れ葉よりも軽うなりますぞ」
猫十が胸を張って、犬千代が笑い、
「いや霞も枯れ葉も嘘だろうけど、とにかくまあスゴい技ですね」
「嘘ではござらぬ。戯言ではございまするがな。忍びの本気の嘘は、容易く見破れるものではございませぬぞ。いやそんなことよりも」
猫十は吉法師に向き直り、頭を下げた。
「女子の首のない骸の一件、我が主、八郎にお報せがありましたのは、忍びに関わりがあるか検めよとのお指図であろうと存じ、いかばかりか探りを入れてございまする」
「うむ、大儀」
吉法師はうなずいて、
「して、何かわかったか」
「されば忍びのことは忍びに当たるべしと、伴与七郎めを訪ねてござる。あやつ、なかなか口が重うござったが、ようやくこの尾張に誰ぞに雇われた別の甲賀者が入っておると認めましたぞ。無論、雇い主が誰かまでは与七郎が知る由もござらぬが、杉谷与藤次と申す頭領の配下の忍びのうち、幾人かの顔を見ておると」
「……であるか。その杉谷とやらの配下が竹千代の命を狙えば、それを防ぐために与七郎は同じ甲賀者と戦うのか」
「そのときはもう、それが御役目でございますからな。せめて同じ頭領に属する者同士は争わぬよう、配下の誰かが或るお武家に雇われたら、近隣の武家には別の配下を送らぬ習わしにござるが、頭領が違えば見知った甲賀者同士で殺し合うことも、なくはございませんぞ、はい」
「……であるか」
「いやしかし、これはこの爺の勝手な見立ててござるがな」
猫十は、もったいぶるように腕組みをして、
「これだけ騒ぎが大きくなりますれば、杉谷配下の忍びどもとて、こたびの仕事を面白く思うてはおらぬはず。いずれ口実を見つけて引き上げるやもしれませぬぞ」
「騒ぎとは医師の一件か」
吉法師は眉をひそめる。
「人の命を預かる医師が、薬に毒を混ぜようといたしたのじゃ。まして狙うた相手が領主とあれば、一族郎党もろとも斬罪となっても致し方あるまい。……とはいえ」
やれやれと言いたげに首を振り、
「当の医師が、薬に毒を混ぜたと知れたその場で斬られたゆえ、まことは誰の指図を受けたか知れぬままよ。表向きは今川の差し金ということになったがのう」
「それはもう口封じにございましょうな。医師を斬った者こそ怪しゅうございますぞ」
「斬ったのは津津木蔵人と申す勘十郎の近習よ。幼きうちから勘十郎に小姓として仕えた子飼いの者じゃ。大殿に毒を盛ろうとした医師への怒りに駆られたと申し開きいたして咎めは無しになったが、常の父上なら左様な粗忽は赦さなかったであろうな。もっとも津津木を問い詰めたところで、何も明かさぬであろうが」
「畏れながら殿のその口ぶりは、勘十郎様をお疑いと聞こえまするぞ」
「ほかに疑わしい者などおらぬであろう」
猫十の問いかけを、吉法師は、あっさりと認めた。
「斎藤山城入道が大垣に兵を向けようとの風聞で、後詰めの手配りのため柴田権六が末森を離れた隙を狙うたのであろう。権六は儂を嫌うて勘十郎を嫡子に立てようと計っておったようじゃが、それより先に父上には忠義の者よ。父上を害しようと勘十郎が目論むなら権六は邪魔になろう」
これには犬千代が驚いて、
「え……それがわかっているのでしたら、勘十郎様の所業を明らかにして家中に訴えるとか、なさらないのですか。勘十郎様は大殿と同じ末森城にいるわけですし、このままだと再び大殿のお命を狙うかもしれませんよ」
「勘十郎のその所業が明るみに出ぬよう津津木が医師を斬ったのであろう。何も証がないまま勘十郎の非道を訴えたところで、家中の者は皆、儂が勘十郎を貶めようとしておるとしか見ぬであろうしのう」
吉法師はそして、きっぱりと言い切った。
「父上が勘十郎めに害されたなら、それが父上の天命よ。謀事を好んだ父上が、謀事を仕掛けられて身を滅ぼすのであるから」
「それでいいのですか、殿は」
念を押す犬千代に、吉法師は告げる。
「儂にとって父上は、行く手を阻む岩塊のようなものじゃ。踏みつけ、乗り越えるべき存在よ。もし父上が御自ら廃嫡をお申しつけあれば、儂は潔く従う覚悟であったがのう。しかし、まことの儂の望みは父上がこの那古野に兵を向けて来ることであった。さすれば儂も足軽衆を率いて、正々堂々と御敵いたしたであろう」
「……そこまでのお覚悟であったなら、オイラには何も言えないです」
犬千代は言って、しかしまだ納得していない様子で首を振った。
小十蔵は何も言えずにいる。
吉法師は猫十にたずねた。
「杉谷の配下のことじゃが、多少の騒ぎになったところで、忍びが仕事を全うせず引き上げるということがあるのか」
「雇い主が約定に違背いたせば、そうしたこともございましょうな。忍びを雇うたなら全てお任せあればよいものを、見よう見真似で下手を打ち、務めの妨げとなるのでござれば」
「……であるか。勘十郎か津津木かどちらの考えかは知らぬが、医師など使わず忍びに全て任せておれば、儂にも事は防げなかったであろう」
「忍びには毒の用意だけさせて、実際に毒を盛るのは自分たちでやるほうが早いと考えたのでしょうな。忍びが狙いの相手に近づくには、しばしの時と手配りが必要でございまするから。もっとも、お武家はそう考えて、たいてい失敗なさるのですが」
猫十は言って、つけ加えて、
「末森の御城の様子も見て参りましたが、大殿のお気に入りの側女が宿下がりと申して城を出たまま戻らぬそうで、これまた騒ぎになってございましたぞ。この者が首無しの骸となってござれば……いや、杉谷の配下はそうと察するでしょうが、いよいよ面白くもなき話にございまするな」
「骸の話も末森まで聞こえておるか」
「それはまだでございましたが、人の口に戸は立てられぬものにございまするからな。杉谷配下の忍びはこちらの御城下にも出入りしておりましょうし、すでに奴らの耳には入っておりましょうぞ」
「……であるか。その忍びどもが離反いたすなら、儂には好都合よ。父上には息子に毒飼されるなど、つまらぬ死に方をしてもらいとうはないからのう」
吉法師は言った。




