第十章 萬松寺(2)
備後守の寝所から下がった吉法師は、広間で待つ孫三郎と喜六郎のもとに一旦戻った。
「食あたりと申されて、医師もそう診立てておるそうだが、御顔の色がすぐれぬ。二人で見舞うて差し上げてくだされ」
「二人で? 三郎そなたはもう話が済んだのか」
たずねる孫三郎に、吉法師はうなずき、
「医師の診立てに誤りがあっては危うい。儂からも心当たりの医師を手配りいたそうと思いまするが、そのために昨日の父上の御様子を大御乳どのに確かめまする」
大御乳どのとは吉法師の乳母であった桂木のことだ。
孫三郎と喜六は席を立った。
「相わかった。そなたの思うようにいたすがよいわ。我らは鬼の霍乱でも拝んで参ろう」
「わはははは! 孫三郎叔父貴でも、父上を鬼と恐れておいでですか!」
「恐れてはおらぬが、三郎兄者を鬼のような者と思うて呆れることは、たびたびあるぞ」
そんなことを言い合いながら、孫三郎と喜六郎は広間を出て備後守の寝所へ向かう。
吉法師もあとに続いて広間を出たが、向かうのは奥御殿の桂木の部屋である。
桂木は、市之丞と侍女とともに自室にいた。
「大御乳どの、ちと伺いたいことがある」
吉法師は挨拶も抜きで部屋に入り、どかっと胡座を掻いた。
桂木は、くすくすと笑い、
「三郎様は相変わらず吉法師様のままと変わらぬ御様子。市之丞様、しばらく御庭で遊んでいらしてくださいませ」
「……うむ!」
市之丞は元気よくうなずいて立ち上がり、侍女に手を引かれて部屋を出て行った。
桂木は、それを見送りながら微笑み、
「市之丞様は、わたくしのそばから、なかなか離れようとなさらぬのですが、御庭で遊びましょうと申し上げたときだけは聞き分けてくださいます」
「……であるか。市之丞も儂に似て、大御乳どのを誰より好いておるのだろう」
「それはありがたい御言葉」
桂木は微笑んでから、居住まいを正す。
「それで、お尋ねの儀とは何でございましょう」
「昨日、父上は胃の腑の痛みを訴えられる前に何を召し上がっておいででしたか」
吉法師の問いに、桂木は眉をひそめた。
「鴨の羹と香の物と聞いております。御側に侍っておりましたのはユキ殿にございますが、取り立てて珍しきものは口になされておらぬはず」
「……であるか」
「ですが勘十郎様が、これは料理人どもの不始末であるとして召し捕らえ、牢に押し籠めてしまわれました。殿が料理人への処罰は無用と申されても、勘十郎様はお聞き入れくださいません」
「それは儂からも、あとで勘十郎に言って聞かせましょう。酒は相変わらず召し上がっておいででしたか」
「はい、徳利一本ほどは。それを飲みきる前に胃の腑の痛みを訴えられたようでございますが」
「酒の味については、何も申されておいででなかったでしょうか」
「御懸念のことがございましたら、ユキ殿をここへ呼びますゆえ、直におたずねになられては、いかがでしょうか」
「その前に周りの者が気づいたことはないか確かめたいのじゃ」
吉法師が答えると、桂木は首をかしげ、
「……そういえば」
「うむ?」
「昨日は梅見酒と申されて、盃に梅の花の塩漬けを浮かべておられたようです。ユキ殿が料理人たちに手配りを申しつけたそうで」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
そして、つけ加えてたずねた。
「いま一つ。そのユキと申す者は、伽羅を好んでおりましょうか」
「ユキ殿の好みかどうかは、わかりかねますが、それだけ殿の御寵愛が深いのでしょう」
桂木は言って、悪戯っぽく笑う。
「伽羅は高価ですからね。だいぶ以前のことですが、わたくしも殿から頂いたことはあるのですよ」
「大御乳どのなら、それに値しましょう」
「まあ、吉法師様」
桂木は、くすくすと笑い、
「お世辞のつもりでそう申されたなら、お気をつけくださいませ。わたくしは、だいぶ以前のことと申し上げましたでしょう?」
「……うむ?」
「つまり、いまは殿から伽羅を頂くことはないということです。殿にとって、それに値する者ではなくなったから。値するという言葉には、そう受け止められる危うさがございますよ」
「なるほど。女子とは難しゅうござる」
眉をひそめてうなずく吉法師に、桂木は微笑み、
「吉法師様もいずれ御正室をお迎えになり、側女も抱えられましょう。その折には、お気をつけくださいませ。奥御殿のような狭い場所に女子を集めすぎると、どろどろと空気が澱みますゆえ」
「肝に銘じまする」
吉法師はうなずくと、懐から紙包みを出した。
「話を戻しまするが、医師が調合して参った薬に、もしもこれと同じものが含まれておりましたら、この吉法師……いや三郎が別の医師を手配りいたしておりますゆえ、しばし待つようにと医師を制してくだされ」
「何でしょうか、それは」
桂木は、吉法師が広げた紙包みを覗き込む。
紙の上には、白くてやや黄ばんだ蝋の塊のような粒がいくつか載っていた。
「砒石にございます」
「ヒセキ?」
「大蒜に似た独特の匂いがありますゆえ、食べ物や飲み物に混ぜるにはあまり向きませぬが、薬と偽り飲ませるのは容易いことと」
「まさか、毒ですか」
唖然とする桂木に、吉法師はうなずいた。
「じわじわと臓腑を冒しますゆえ、病を装い人を殺めるには適したものにございます。さて、塩漬けの梅の花を浮かべた酒なら、砒石を混ぜて味や匂いが変じても、気づかぬやもしれませぬな」
「まさかユキ殿を疑っておいでですか、吉法師様は」
「ユキとやらは何も知らず、道具にされておるだけやもしれませぬが」
「では何者の差し金で」
「わかりませぬ。松平か今川か、岩倉や清須も考えられぬこともない。父上には敵が多くございましょう」
吉法師は、そう言った。
家中にも敵がある可能性は、桂木に告げるべきではないと思った。
無駄に心配をかけるだけであるからだ。
桂木は眉をひそめてたずねた。
「吉法師様は、何故そうした毒があることを御存知なのでしょう。御自身でも敵に用いようと考えたことが、おありなのでしょうか」
「儂は忍びの者どもは、敵方の動きを探るのには用いたとしても、謀事をなすには用いませぬ。それは天意に背くことになりましょうゆえ」
吉法師は答えて言った。
「されど敵の謀事には備えねばなりませぬ。それゆえ、忍びにはいかなる計略があるものか滝川八郎などから学んでおるのです」
★2023/4/2:表記を修正 「大乳」→「大御乳」




