第十章 萬松寺(1)
天文十八年。
年が明けて間もなく、大殿御病気という報せが末森城から届いた。
吉法師は、かねての手筈通りに叔父の孫三郎、弟の喜六郎に早馬を飛ばし、末森城下で二人と合流してから、備後守の見舞いに登城した。
孫三郎は居城の守山城から、喜六郎は勝幡の東にある旧妙興寺領の吉松の居館から駆けつけた。
妙興寺は室町幕府二代将軍の足利義詮や後光厳の帝から篤い尊崇を受けた、尾張でも屈指の臨済宗の大刹であった。
中島郡内に多くの寺領を抱えていたが、早くも三代将軍義満の治世の応永年間には斉藤左近将監なる地侍が、吉松において押妨すなわち百姓からの不法な収奪を働いた記録が残るなど、その支配は決して盤石なものではなかった。
応仁の大乱を経て妙興寺が幕府の庇護を失ったのちは、在地の武士による押領つまり領地の占拠が一層進行したが、それをさらに勝幡を拠点に中島郡を支配下に置いた弾正忠信定が我が物にしたのである。
城内では備後守の側近である勘定奉行の山田弥右衛門が吉法師を迎えたが、孫三郎と喜六郎が同行していることに困惑している様子だった。
三人を主殿の広間に案内すると、
「しばらくお待ちを……」
と言い残して、引き下がった。
喜六郎が、にかっと朗らかに笑い、大きな声で言う。
「父上の御病気とあれば弟の孫三郎叔父貴や、息子の一人のわたくしが来ても何らおかしなことはないでしょうに、摩訶不思議な態度ですな!」
それを孫三郎が苦笑いで、たしなめた。
「オマエはその遠慮のない大声まで三郎五郎に似なくていいんだぞ」
喜六郎は骨太な逞しい体つきは同じ母親から生まれた兄の三郎五郎に似るが、表情にまだあどけなさが残る。
難しいことを考えようとしない猪武者な性格も三郎五郎と喜六郎とに共通するが、それだけに吉法師が、
「父上の側近くにある家来の中に、この儂を嫌って父上との仲を裂こうとする奸臣がおるのだ」
そう言って同情を誘うと、三郎五郎も喜六郎も、備後守と吉法師の仲を取り持つために協力することを約束した。
実は備後守自身が謀略を巡らせる可能性があることは、吉法師は三郎五郎たちには告げなかった。
そう言ったところで彼らは、
「父上が我が子に謀事を巡らせるなど、あるはずもなかろう! わはははは!」
と、信じるはずもないからだ。
しばらくして勘十郎が現れた。
「父上は、まず三郎兄上とだけ話がしたいと仰せです」
「……であるか」
吉法師はうなずいて席を立ち、孫三郎と喜六郎に告げる。
「父上のお指図ゆえ、まずは、わたくし一人で御見舞して参りまする」
「おう。儂らがついとるんじゃ。存分に腹を割って話して来るがええぞ」
孫三郎が頼もしげに笑って請け負う。
吉法師は、勘十郎のあとについて中御殿へ向かった。
ふわっと勘十郎の着衣から華やかな香りが漂い、
「……伽羅であるか」
「え? あ、はい」
勘十郎は吉法師を振り返って笑い、
「先ほどまで母上や……側室方が、父上を見舞うのに立ち会っておりましたから、香りが移ったのでしょうか」
「……であるか」
吉法師は、うなずく。
床に伏せた備後守は、中御殿の座敷を寝所にしていた。
土気色というのか顔色が悪く、寝床に身を横たえていたが、目は覚ましていた。
やつれた頬をひきつらせ、にやりと笑ってみせた。
「……ただの食あたりであろうと申すに、誰ぞ大騒ぎして三郎を呼びつけたようじゃが。孫三郎や喜六郎まで呼んだのは、三郎そのほうか」
「父上が床に伏せられたと聞き及びましたので」
吉法師が答えて言うと、備後守は笑おうとして咳き込む。
苦しげに大きく息を吐いてから、勘十郎に向かい、
「勘十郎そのほう、水を持って参れ。あ……いや、儂が呼ぶまでは戻らぬように。しばらく三郎と二人で話したい」
「承知いたしました」
勘十郎は微笑み、一礼して座敷を退出する。
吉法師は備後守の寝床の脇に座した。
備後守は、またにやりと笑って言った。
「儂が我が身を病と偽り、そのほうを仕物に掛けると思うたか。今川竹王丸から那古野の城を奪うときは、それに近い手を使うたがのう」
「父上の御側近くには、わたくしを嫌う者がおりますゆえ」
吉法師が答えると、備後守は空咳混じりに、くっくっと笑い、
「そのほうが婆娑羅の真似など不品行な振る舞いをいたすからじゃ。前にも申したであろう。そのほうは、おのれを賢いと思い上がっておるが、世の者どもがそれを認めねば、愚かであるのと同じことよ」
「…………」
吉法師はそれには答えず、話題を変えるように、
「食あたりと申されましたか」
「そうとしか思えぬ。きのうのことじゃが、不意に胃の腑が痛んでのう」
その痛みを思い出してか、備後守は憮然とした顔になる。
「吐くだけ吐いても収まらぬ。今朝になってようやく少し落ち着いたところよ」
「医師は」
「勘十郎がすぐに呼び寄せた。その診立てでも、やはり食あたりのようじゃが、胃の腑の病の疑いも捨てきれぬゆえ、あらためて薬を調合して参るということじゃ」
「父上の御声に力があり、安堵いたしました」
吉法師が言うと、備後守は微笑した。
「食あたりくらいで寝込んでもおられぬ。御前やほかの者どもが案じるゆえ、医師が薬を用意して戻るまでは大人しくしておるが、それを飲んだら早速に床払いじゃ」
「まだ痛みが収まりきらぬのであれば、御無理はなさらぬよう」
「だが落ち着いてもおられぬのよ。斎藤山城入道が、どうやら大垣へ兵を向けるようじゃ。権六に後詰めの手配りをさせておるが、犬山と岩倉の動きも案じられるゆえ、味方の兵をこぞって美濃へやるわけにも参らぬ」
「味方が兵を損じる前に、ここは一時、引いておく手もございまする」
「それはならぬわ。大垣の城には、それなりに備えをいたしておる。あれを落とそうと思うなら、美濃方も相当の痛手を覚悟することになろう。それでもなお大垣が落ちたなら、それはそれで次の一手が打てる」
「畏れながら次の一手とは」
「縁組じゃ。そのほうの」
備後守の答えに、吉法師は目を丸く見開く。
「……縁組」
「斎藤山城入道の姫を、三郎そのほうの嫁に貰い受ける」
「大垣を取り戻した山城入道が、我がほうへ娘を差し出すことがありましょうや」
「大垣を取り戻せばこそ、それができるのよ。我ら尾張と美濃とが和睦いたすに妨げとなるのが、大垣が我らの掌中にあること。山城入道の家来のうちでも力を持つのが稲葉、安藤らの西美濃衆じゃが、その西美濃のうち大垣を奪われたままでの和睦は、奴らには受け入れがたいであろう」
「しかしその大垣も、ただ美濃方に渡すのではなく、いくらか犠牲を払わせることで、我がほうの望むかたちの和睦を進めやすくすると」
「そういうことよ」
備後守は満足そうに、うなずいた。
「山城入道の姫が嫁となれば、三郎そのほうが儂の正嫡であると、家中の者にもわかるであろう」
「よろしいのですか、それで父上は」
「よろしいも何も、正室の長子を嫡子として立てねば家中の不和を招くばかりであろう。よほど愚鈍な者であれば別だが」
「わたくしが愚鈍……うつけではないと、父上はお認めくださいますか」
「儂は最初から認めておるぞ。もっとも、世の者どもにそれが伝わるか定かではないとも思うておるが」
それが備後守の本心であるとは吉法師には思えない。
だが、ことのほか外聞を気にする備後守が吉法師を廃嫡にするだけの口実を、ついに見つけ出せなかったということなのだろう。
しかし備後守はそこで、にやりと笑った。
「とはいえ姫を嫁に迎えるとなれば、それは人質の意味にもなる。それゆえ、こちらからもタツを質として美濃へ送ることといたした」
「タツを……」
「三郎そのほうが松平竹千代の側近くに置いた娘よ。儂の許しも得ぬままにのう」
「…………」
黙り込む吉法師に、備後守は床に伏せたまま、にやにやと笑って言葉を続けた。
「母親が身分の軽き者ゆえ、ただ質として差し出しても粗略な扱いにしかならぬであろう。それゆえ山城入道には、側女にしてくれと申し送ろう。山城入道とて情が移れば、タツを大事にしてくれようぞ」
「……父上は」
吉法師は言った。
「褒め言葉として申し上げまするが、心底から意地が悪うございますな」
「それが三郎そのほうなりの褒め言葉か。うむ、気に入ったぞ」
また備後守は、くっくっくっと空咳混じりの笑い声を上げる。
「儂の正嫡の座は、それだけ安うはないということよ。口惜しければ早う、おのれが当主の座に着くことじゃ。家中の皆がそれを得心いたすと思うのであればのう」
「……いまは、まだそのときではございますまい」
吉法師は答えて言った。
★2023/4/1:誤表記を修正(タケ→タツ)




