第九章 末森(7)
折を見て備後守の意向を確かめると、ほかの者には告げた権六である。
しかし広間を出ると、真っ直ぐに備後守がいるはずの奥御殿へ向かった。
城主一族が日常生活を送る私的空間である奥御殿だが、権六は備後守の寵臣として出入りを許されている。
備後守は勝幡城を居城とした当時は、側室それぞれに城下に屋敷を与え、子供が生まれれば子供とともに住まわせていた。
古渡城に移ってからは、側室の幾人かを実家に帰らせたり家臣に嫁がせたが、手元に残した者には、やはり城下に屋敷を与えた。
その際、暇を与えた側室に男子があれば引き取って城内で養育し、女子は生母の実家で育てさせている。
女子は必要になれば、いったん手元に迎えたのちに有望な家臣や近隣の領主に嫁がせて、縁を深めるための手駒にするのである。
このとき、三郎五郎の生母、今板額は、父母の菩提を弔うために出家するという名目で備後守のもとを去っている。
すでに今板額も三十を過ぎて、備後守との男女関係はなくなっていたが、庶子とはいえ男子を生んだ彼女を粗略には扱えない。
だから今板額が自ら暇を願い出たことで、備後守は安堵したものだ。
勝幡は弾正忠信定と備後守の二代にわたる本拠で、津島にも近いため城下は栄えており、古渡も鎌倉道の要衝として、もともと町家が多く集まっていた。
それに対して末森は、田畑に囲まれた丘を要害としたものである。
田畑の生産力は国力に直結するから、むやみに潰すわけにいかない。
いくらかは家臣の屋敷地とするため百姓たちに銭を与えて土地を明け渡させたが、その範囲は限られた。
備後守は末森では、側室を三人だけ残して奥御殿に部屋を与え、あとの者には暇を与えた。
城下に屋敷を用意できないし、奥御殿の部屋も限られる──というのが表向きの理由である。
しかし備後守も四十間近になって、若いときのように日替わりで違う女を抱くのとは嗜好が変わった、ということが大きい。
奥御殿に迎え入れた側室のうち一人は、桂木と風雅な名で呼ばれるが、池田宗傅入道という者の後家である。
およそ十年前に側室として召し出された時点で二十代の半ばで、備後守との間には女子が一人生まれたが、このごろはもう閨に侍ることはなくなっている。
しかし気働きができる利発な者で、正室の土田御前にも気に入られ、奥御殿で養育される側室腹の男子の世話を土田御前とともに引き受けていた。
あとの二人は、いずれもまだ若く美貌であるが子は生んでおらず、ほかにとり立てていうところもない者たちだ。
権六が主殿から中御殿を経て、奥御殿に繋がる渡り廊下を進んで行くと、前から幼い男児の手を引いた桂木がやって来た。
「これは桂木の局殿」
権六は足を止めて一礼し、道を譲ろうとしたが、桂木はさりげなく男児を抱き上げる。
「市之丞様、御家老の柴田殿が来られましたよ、お言葉をかけてやってくださいませ」
男児は権六には目もくれず、桂木に抱かれたことだけが嬉しくて、はしゃいだ声を上げる。
桂木は微笑み、権六に会釈した。
道を譲られたかたちになった権六は、
「……かたじけない」
桂木に会釈をして、先を急いだ。
市之丞は二年前に生まれた備後守の庶子だ。
生母は熱田の商家の娘であるが美貌の評判が高く、備後守が手を尽くして側室に迎え入れた。
しかし末森に居城を移した際に暇を与え、これを水野下野守が譲り受けるかたちで自身の側室としている。
そのため市之丞の母代わりを桂木が務めているが、すっかり市之丞が懐いていることは、いまの様子でわかる。
市之丞に限らず、末森城内で養育される幼い庶子たちは皆、桂木を母のように慕っている。
だが本来、実母に代わって庶子たちの母親の立場となるべきは正室の土田御前であり、桂木も子供たちに土田御前こそが『母様』であると常々から言い聞かせ、その顔を立てるよう気を配っていたから、奥御殿での土田御前と桂木、そして庶子らの関係は良好である。
備後守が側室に次々と子を産ませても、奥御殿がうまく成り立っているのは、桂木のおかげといっていい。
渡り廊下の先、奥御殿の入口には、年配の女中が二人、控えていた。
「殿は、何処か」
権六がたずねると、女中たちは頭を下げて答える。
「ただいまは、ユキ様のお部屋に……」
ユキとは若い側室の一人である。
権六はうなずいて、その部屋へ向かう。
部屋の前には備後守の小姓と、ユキにつけられている若い侍女たちが控えていたが、権六が来るのを見て頭を下げた。
止める様子がないのは、まだ男女の営みが始まっていないということだ。
閉められた戸の外で、権六は片膝をついて、言上した。
「殿、権六にござる。よろしゅうござるか」
「……うむ、入れ」
備後守の返事があり、権六は部屋に入った。
内庭に面した障子が開け放してあり、やはり事に及ぶのはもう少しあとのつもりであったようだ。
備後守は部屋の真ん中で、庭を眺める向きで胡座を掻き、隣にユキが寄り添い、備後守が手にした盃に徳利から酒を注いでいた。
鴨であろうか串焼きにした野鳥の肉と香の物を盛りつけた膳も用意されていた。
権六は部屋に入ったところで両膝をつき、平伏した。
「畏れながら、殿のまことの御存念をお伺いいたしたく」
「おう。ユキよ、ここはそなたの部屋であるのに相済まぬが、しばし座を外しておれ」
「……かしこまりました」
ユキは一礼し、権六の横を通って部屋を出て行く。
ふわっと華やかな香りがした。
南蛮渡りの香木を着衣に焚き染めてあるのだろう。
ユキが去って、小姓が廊下から戸を閉め、備後守は権六に向き直る。
「儂のまことの存念とは何じゃ」
たずねる備後守に、権六は平伏したまま答えた。
「されば、まことに三郎様が性根を入れ替えられたか、時をかけて見極めるおつもりであろうかと」
「方便じゃ」
あっさりと備後守が答え、権六はきき返す。
「方便と」
「嫡子の座がしばし安泰と思わせておけば、三郎め、すぐに気を緩めて本性を表すであろう。そのときこそが、我がときよ」
「いますでに連判状に名を連ねる多くの者が三郎様御廃嫡で心を決めてござるが、それでも、そのときではないと」
「あの広間に集うておった者の全てが、まことに肝を据えておるとは儂には思えぬ」
備後守は言った。
「たとえば前田縫殿助じゃ。与力として林新五郎の下にあり、前田一族の家長である與十郎も廃嫡に賛同しておるが、縫殿助自身は子息の犬千代を三郎に小姓として仕えさせておるままじゃ。犬千代は三郎に心酔しておると聞くゆえ間者として役立つわけでもなかろうし、廃嫡が決まっても決まらなくてもよいように蝙蝠の真似を決め込んでおるとしか思えぬ」
「されば、前田縫殿助殿ほか、どちらつかずの者から三郎様の耳に、いまだ御廃嫡は決まらぬと聞こえることを狙うてのお言葉であったと」
「そういうことよ。山城入道のおかげで目算が違うてしもうたゆえ、いろいろと先延ばしにしておるところもあるがのう」
備後守は、にやりと口の端を吊り上げた。
「そのままでは話しづらいわ。面を上げよ、権六」
「は……」
権六は体を起こし、顔を上げる。
「殿の目算は、山城入道様に勘十郎様の御後見を願い、その御息女を御正室にお迎えすることでしたな」
「あれは実のところ五分五分の話であったわ。相手が乗れば儲けもの、断られても致し方あるまいとは思うた」
備後守は、にやにやと笑いながら口髭を撫でる。
「ところがまさか、ただ断るばかりか三郎に娘を娶せようなどと言い出すとは思わなんだ。あれは儂が越前朝倉と手を組んで、土岐宗藝様の美濃への御帰還を後押ししたことへの意趣返しであろう」
「万が一、殿と三郎様とで争いになった場合、山城入道様は三郎様に味方するという意味ですな」
権六が言って、備後守はうなずいた。
「まことに美濃から兵を寄越して三郎に味方するつもりがあるかは、わからぬ。されどそう脅すことで儂が狼狽えれば面白いとは思っていよう」
「山城入道様が三郎様との縁組を望むというそのお話は、いま家中では、どこまで知られておりましょう」
「平手中務を勘十郎の縁談の使者として山城入道のもとへ遣わした折に出た話よ。仲立ちとして堀田道空居士が立ち会うたゆえ、津島の者どもから、いずれ我が家中にも広まろう」
「あるいは平手殿が」
「うむ。ここに至っては平手も信を置くに値せぬ」
「されば、この先も三郎様に大きな手抜かりのない限り、御廃嫡の断は下さぬと」
「廃嫡と決まって三郎が何をしでかすか、わからぬ限りはのう。あやつが謀叛の兵を挙げ、清須や岩倉、それに山城入道までが呼応することは避けねばならぬ」
備後守は、盃に口をつける。
ぺろりと唇を舐めてから、言葉を続けた。
「しかし三郎が行儀のよい真似など、長く続けられるはずもないのじゃ。そのような殊勝な者であれば初めから婆娑羅な振る舞いなどせぬであろうし、儂とて廃嫡など考えぬでも済んだのよ。いずれ三郎には言い逃れようもない不届きがあるであろうし、そのときこそ儂は三郎に廃嫡を申し渡す。それであれば三郎が謀叛を望んだところで、配下の者の多くは従わぬであろうし、清須や岩倉、あるいは山城入道が三郎に呼応することもないであろう」
「……承知いたした」
権六は頭を下げた。
「されば、いま一つ」
「うむ」
うなずく備後守に、権六は目を伏せたまま、言った。
「このごろ殿の御酒量が増えておると、皆が案じておりまする。されど、それがしの目には殿は一度に少量ずつしか盃に酒を注がれていないと見えまする。そうして盃を重ねておると皆に思わせておるのではないかと。これは、いかなる御存念にございましょう。酒を過ごして病の床に伏せたと思わせる謀事でもございましょうや」
「それは面白き計略であるやもしれぬが、まことのところは酒が冷めぬようにしておるだけじゃ」
「……は?」
「このごろ儂も、ようやく酒の味がわかるようになったのよ。しかし冷や酒は、あまり好まぬ。熱く燗をつけた酒が好みゆえ、盃には少量ずつ注ぐようにしておる。冷や酒のときでも、そうした癖が出るときは、あるやもしれぬがのう」
にやにやとして言う備後守に、権六は深く頭を下げた。
それは呆れ顔を隠すためでもあった。
「……なるほど、得心いたしましてござる」




