第九章 末森(4)
翌日。
吉法師は那古野城の御座敷に五郎右衛門を召し出した。
小姓として小十蔵が控えているが、ほかに同席する者はない。
吉法師は、このところの普段着となっている獣皮を継ぎ当てた小袖と袴姿で、帯に火打ち石と瓢箪を下げているのも、いつも通りである。
「五郎右衛門そのほう、安祥の三郎五郎兄者に書状を届けよ」
吉法師は命じた。
「兄者のことゆえ、返事は口頭で下されることもあろう。それゆえ書状の内容をそのほうにも伝えると、我が弟に喜六郎という者がある。生母は三郎五郎兄者と同じ今板額殿で、儂とは年が近い。その喜六郎と向後はより交誼を深めたいゆえ、兄者にも仲立ちをお願いしたいと」
「は……承知いたした」
五郎右衛門は頭を下げる。
「されば早速、出立いたしまするが、ほかにお指図はございまするか」
「うむ。この那古野より安祥の守りに遣わした林新五郎が、怠りなく務めておるか見て参れ」
「承知いたした。それでは……」
立ち上がり、退出しようとした五郎右衛門に、吉法師は告げた。
「五郎右衛門」
「は……」
「父上を意地が悪いと申す者がおるが、儂は意地が汚いゆえ、何事にも悪足掻きいたすのよ。まあ見ておるがよいぞ」
「…………」
五郎右衛門は黙って会釈し、立ち去った。
入れ替わりに滝川久助と恒川久蔵が入って来た。
久蔵は神妙な顔つきで、久助はよく日に焼けた顔に白い歯を覗かせながら、いくらかほろ苦い表情である。
「いやあ、やられましたな、大殿に」
久助は言った。
「こちらで押さえたつもりの鉄炮、全て末森へ運ばれてしまいました。大殿は橋本伊賀守殿を組頭に任じて新たに鉄炮組を編成なさるそうです」
「まことに申し訳ございません」
久蔵が頭を下げる。
「津島で三十挺、熱田で四十挺、いずれも我らが先約でございましたが、大殿はそれぞれ百挺分を前金で支払うと仰せられたそうで、津島、熱田の商人たちも大殿には逆らえぬと、手持ちの在庫を全てあちらへ引き渡してしまいました。皆、商いの算盤も弾いた上でのことでしょうが……」
「是非もなし」
吉法師は答えて言った。
「儂は父上と戦をするつもりはない。ただ何事があってもよいように備えておるばかりのこと。鉄炮が揃わぬなら、ほかに打てる手を打つまでじゃ」
「大雲永瑞和尚にお執り成しをお願いするというお話は」
久助がたずね、吉法師はうなずく。
「和尚に文を書こうと思うたが、儂が自ら出向いて話したほうが早いと思い直した。しかし、それより先に孫三郎叔父じゃ」
「孫三郎様にもお執り成しをお願いするのですか」
「もしも儂が父上の御召しを受けたときは同道願いたいとお願いいたす」
吉法師の答えに、久助は「それはよいお考えです」と、にこやかな笑みになり、
「大殿は人の見る目を大いに気になさる御方。孫三郎様の御面前で、よもやのこともございませんでしょう」
「しかし、それでも万が一のことはあるゆえのう」
吉法師は居住まいを正し、久助と久蔵に向かって言った。
「そのほうたちは儂より年長じゃ。オトナとして物事を考えられるであろうゆえ告げておく。もしも儂が父上より廃嫡の御沙汰を受けたときは、儂は神妙にお受けいたすつもりじゃ。謀叛の兵を挙げようなどとは全く考えておらぬ。勝千代、万千代、犬千代ら年若き者たちは、あるいは得心せぬやもしれぬが、儂が廃嫡となったときは、そのほうたちで勝千代らを宥めてもらいたい」
「承知いたしました。廃嫡になどならぬことを願っておりますが」
久助が言って、久蔵も頭を下げる。
「承知いたしました。わたくしのような軽輩から池田様、丹羽様らに何か申し上げることは難しいですが、服部小平太、小藤太ほか足軽衆には軽挙妄動を慎むよう固く申し渡します」
「……うむ」
吉法師はうなずいて、
「しかし儂もまだ若く、この先の余生は長い。ゆえに父上が儂を、どこぞに押し籠めようとなされたときは、御手向かいいたす覚悟である」
「では御廃嫡となったときは、この尾張より御出奔なされますか」
久助がたずね、吉法師はうなずいた。
「そのつもりじゃ。東国でも西国でも、この尾張から遠く離れて織田の家とも関わりのない土地へ行き、牢人として生きようぞ。よき主君に巡り会えれば奉公いたすことも考えようが」
「それも面白いかもしれませんね。拙者はお供は許されませんか」
「久助がおらぬでは、せっかく侍奉公しておる八郎が家を継がせる相手がいなくなるではないか」
吉法師は目を丸くしてみせ、久助は苦笑いする。
「いや家を継がせるなら親類の誰でもよいとは思いますが、まあ、父と相談いたします」
「わたくしはお供させていただけませんか。継ぐ家もない、あぶれ者ですから」
久蔵が言って、吉法師は首を振った。
「儂が尾張を去ることがあれば、足軽衆はこぞって三郎五郎兄者を頼るがよい。せっかく鍛えた精兵ぞ。三郎五郎兄者であれば、よき働き場所を与えてくださるだろう」
「……わたくしは」
恐る恐る申し出た小十蔵に、吉法師は口元を綻ばせた。
「そなたは父の十蔵から、この儂に預けられた。望むなら儂について参るがよい」
「はい、そうさせていただきます!」
小十蔵は笑顔を輝かせる。
久助は苦笑いのまま首を振った。
「なんだかもう覚悟を決めておいでのようですね。本当にこのまま出奔しそうな勢いで」
「うむ。しかしそれは、この儂が天意に適わなかったと、儂自らが得心できたときのことよ。もしも父上が、家長として断固として儂に廃嫡を申し付けられるのではなく、外聞を憚るあまり狡き策など巡らせようとなさるのであれば、そのときは……」
「そのときは、抗いますか」
久助が言って、吉法師は強くうなずいた。
「天意とは天下の大道じゃ。正しき道を往かずして天意に適うことはないであろう」




