第九章 末森(2)
末森城内の広間に宴席が整えられていた。
上段の間を背にする位置が備後守の席で、その両隣が吉法師、そして勘十郎の席であった。
備後守父子から見て左右の戸や壁に沿って並ぶのが主だった家臣の席で、平手、五郎右衛門、甚左衛門の席までは用意された。
しかし、本丸屋形に入る前に勝千代、万千代らは、
「近習、小姓らには庭にて振る舞い酒がござる」
と、備後守の近習たちによって同席を阻まれた。
勝千代たちは心配げな顔をして何か言いたげであったが、吉法師はあえて口元を綻ばせ、
「お指図通り、庭にて待つがよい」
そう声をかけて、平手父子だけを伴い、備後守の近習に案内されて広間へ入ったのである。
ほかに宴席に連なるのは、まだ若いが家老職にある柴田権六をはじめ、佐久間大学、同じく佐久間一族の次右衛門、佐々隼人正といった備後守の重臣たちだ。
大学は大柄で、もじゃもじゃと癖のある髪が目を惹く豪傑風の男である。
次右衛門は背丈は並みだが肩幅が広く首回りも太い、猪のような若者だ。
備後守は戦場で功名を上げた者は惜しみなく称賛して、一手の将としての才覚があると見れば身分も引き上げる。
たびたび意地の悪さを垣間見せる備後守だが、吝嗇なところはない。
だから身辺には厳めしい武功の臣が居並ぶし、彼らは備後守に忠実なのである。
この顔ぶれでは近習という立場の勝千代らの同席が許されなくても仕方がない。
また、これだけの家臣が並ぶ前で、吉法師に害を及ぼす真似をすることは、体面を気にする備後守は避けるだろう。
果たして、ごく当たり前の宴席のように酒が酌み交わされ、肴の膳が運ばれて来た。
吉法師は備後守に酒を勧められ、一杯は口をつけたが、
「申し訳ございませぬ。まだあまり飲み慣れておりませぬ」
と、二杯目を注がれるのは遠慮した。
父の体質を受け継ぎ、吉法師も酒は苦手であった。
備後守も笑って無理強いはせず、
「そうか。うむ、宴席の数をこなせば、そのうち慣れるであろうぞ、あの平手中務のようにのう」
などと鷹揚な態度で、自らは手酌で何杯か飲んでいる。
家来たちも順に席を立って、備後守に酒を勧めに来たが、これは逆に備後守が徳利を取り上げて、
「そう気を遣うでない、宴は皆で楽しむものじゃ。どれ儂が注いでやろう」
などと自分は飲まず、家来にだけ飲ませて席へ帰らせた。
「若殿も一つ」
にやりと不敵に笑う権六に勧められたのには、吉法師は拒みきれず、
「では一杯だけ頂こう」
と、盃を干した。
佐久間大学、次右衛門にも勧められて飲んだが、あとは断った。
だいぶ顔が熱くなった。
鏡を覗けば顔が真っ赤になっていることだろうと吉法師は思った。
しかし、どうやらこれは、ただの宴席として始まって終わりそうな流れだ。
そう思うと気になるのが、備後守の両隣に吉法師とともに勘十郎の席が用意されたことである。
これは備後守が吉法師と勘十郎を同列に扱っていることを意味する。
吉法師の嫡子としての立場を重んじるなら、勘十郎の席は家臣たちと並ぶかたちになるはずだ。
(なるほど。これは父上に、してやられたということか……)
吉法師が自ら祝儀を届けに来たことを利用して、備後守は、自身が吉法師と勘十郎をどのように見ているかを家臣たちに示したのである。
勘十郎は家臣たちが酒を勧めに来るのを、にこやかな笑みで巧みに受け流している。
酒に強くないのは父や兄と同じであるようだ。
備後守はといえば、家来に酒を勧められるのは躱しながらも、相変わらず手酌で盃を重ねている。
だから顔はだいぶ赤くなり、
「ちと厠じゃ。ゆるりと楽しんでおれ」
そう言って吉法師の肩を叩き、席を外した。
間に父親がいなくなって、勘十郎が徳利を手に吉法師のそばに来た。
「いかがでしょう、兄上」
笑顔で勧めて来る勘十郎は、幼い頃のような昏い目は見せない。
兄に対してどのような感情を抱いているにせよ、それを抑え込む術を年を長じて身に着けたのか。
吉法師は注がれた酒を干した。
注ぎ返そうとしたが、
「いえ、わたくしは兄上にも増して下戸なのです」
と、拒まれた。
吉法師は、たずねてみた。
「しかし父上は、よく飲まれておるようだが」
「ええ、このところお酒の量が増えているかもしれません。母上は心配しておられるのですが」
勘十郎は困ったような顔をする。
吉法師は「ふうむ……」と唸り、
「何やら案じられることも多いのであろうか」
「それはまあ。犬山、岩倉、清須、……岡崎」
勘十郎は、意味ありげに上目遣いに吉法師の顔を見た。
「……兄上は、いつまで松平竹千代を手元に置くおつもりですか」
「勘十郎そなたは、いかがするべきと考えるのか」
吉法師がきき返すと、勘十郎は、きっぱりと言った。
「斬っておくべきでした。それは父上もお望みでした」
「では、いまからでも城下の荒れ野に引き出して、磔刑にかけようか」
「そうなさるおつもりなど、ないくせに」
勘十郎が吉法師を睨む。
その目の色は、かつて幼い頃に見せたような澱んだ沼の色だった。
(ふむ。やはり、こやつは儂をこのような目で見るのじゃな……)
吉法師はそれが確かめられて、むしろ安堵した。
この際、この者の性根を確かめておこうと思い、さらにたずねた。
「父上は、左右に勘十郎と儂を並べておられるな。いかなるお考えであろうか」
「正室所生の長子と次子が宴席に列するなら、このようなかたちでしょう」
勘十郎は答えて目を逸らす。
箸に手を伸ばしかけたが、席を詰めているので目の前にあるのは備後守の膳だった。
舌打ちでもしそうに勘十郎は口の端を歪ませたが、すぐに笑顔を取り繕い、吉法師に目を向けた。
昏い色も隠していた。
「無論、父上の後を継がれるお立場にあるのは兄上ですが」
「与次郎叔父は、父上のお指図のまま、たびたび戦に駆り出されて功名も重ねられたが、恩賞のことは後回しのまま先の美濃攻めで討ち死になされた」
吉法師は言った。
「叔父上は御不満を漏らさなかったが、子息の十郎左は、そうではなかったのだろう。それゆえ父上から離反したであろうと儂は思うておる。武家の兄弟とは難しいものじゃ。同じ家の中にあれば、一方が家来のように扱われることになろう」
「兄であるお立場で案じられることではございますまい」
笑顔のまま答える勘十郎に、吉法師は首を振り、
「それを考えねば犬山の二の舞じゃ」
「兄上が御当主になられますなら、わたくしはその配下として励みましょう」
にっこりとして勘十郎は言ったが、それは、兄上が当主にならないこともあり得るのだと含みのある言い回しではなかったか。
そこに備後守が戻って来た。
「やれやれ、よい酒ゆえに、つい進むのう」
「あまり過ごされませんように」
自分の席へ戻りながら、にこやかに言葉を返す勘十郎は、いかにも父を気遣う息子という様子だ。
五歳で父母と離れ那古野の城主となった吉法師と異なり、いまの年まで勘十郎はずっと両親の下で育っている。
もしも吉法師が勘十郎のように行儀がよく愛嬌のある者であったとしても、備後守の愛情は手元で育った勘十郎に、やはり向いていたのではないか。
しかしその勘十郎は、どうやら吉法師を妬んでいると見えた。
兄であるゆえに周囲から当たり前のように嫡子と目されていることに。
勘十郎が吉法師に向ける昏い目は、それが理由であったのか。
(儂は当たり前のように、我が身が父上の後継ぎであると思うて育ったゆえ、勘十郎の気持ちはわからぬ。しかし、いまにして思えば当たり前のことなど何もない。父上が外聞など気にせず儂を廃嫡しようと思えば、いつでもそうできよう)
だから隙だけは見せないようにしなければならない。
それでも備後守が、なりふり構わず吉法師を廃嫡しようとしたときは。
(儂ひとりで尾張を抜け出し、どこぞ遠い他国で牢人などいたそうか。勝千代、万千代、犬千代、小十蔵らを巻き込むのは心苦しいゆえのう……)
あるいは。
(儂が天意に適うのであれば、あえて父上に御敵いたす道もあろうか。孝ならずとも天意に背かず、である……)
いずれその選択をするべきときが来るであろうと、吉法師は覚悟を決めるしかなかった。




