第九章 末森(1)
末森城は小高い丘の上に建つ。
中腹に大きく深い空堀を設けて敵の攻め口を絞り、味方の出入り口となる虎口の前には馬出しと呼ばれる土盛りをした陣地を設けて防備を固めている。
虎口を攻めようとする敵は、まず馬出しを落とさなければならず、そのあとも城門を破るまでは門と馬出しに挟まれた狭い空間で戦わなければならない。
味方はそこに矢の雨を降らせ、あるいは岩や丸太を落としたり熱湯を浴びせて損害を与えることができるのだ。
こうした築城法は、備後守が津島天王社の御師に紛れさせた間者が、甲斐国の武田家の城を見て回って持ち帰ったものである。
備後守は岩室十蔵の一党のように直接的な謀略に当たる忍びとは別に、津島の御師や津島、熱田の商人に間者を紛れ込ませて情報収集に用いていた。
また備後守自身が白山信仰を標榜して、白山三峰の一つ大汝峰に祀られた大巳貴社の再建に自ら願主となるなど白山修験と深い関係を結んでいるが、これは諸国を巡る修験者を情報源として活用する意図もあってのことだった。
霊峰白山を崇める白山信仰は、北陸から東海にかけて信徒を抱え、白山修験はこの範囲を盛んに行き来する。
そのように積極的な情報収集は、吉法師も見習わなければいけないことだと考えている。
吉法師は、末森城を完成させた備後守への祝儀として、自ら人足を率いて十五台の荷車に二つずつ酒樽を積んで運ばせた。
酒は津島商人に用意させた京の清酒の『柳』である。
同行するのは、平手とその二人の子息である五郎右衛門と甚左衛門、それに勝千代、万千代、犬千代と小十蔵であるが、五十人ほどの人足も実は恒川久蔵と服部小平太、小藤太兄弟ら子飼いの足軽衆が扮したものであった。
吉法師に他意はない。
しかし、備後守が何を考えるかは、わからない。
だから滝川久助と忍びの猫十、ほかに伴与七郎から借り受けた甲賀衆五名も、秘かに末森城の近くに待機させている。
(実の父を疑わねばならぬとは、何とも浅ましい限りよ……)
そうは思っても、吉法師が無警戒でいるのを見て備後守が悪心を起こし、命までは奪われないでも虜囚の身とされたのでは面白くない。
平手父子に対しても、実のところ吉法師は完全には信用していない。
備後守の指図を受けた平手が、堀田道空を仲立ちとして美濃の斎藤山城入道への使者に立ったことは吉法師も把握している。
平手が吉法師の附家老である以上、無断で尾張を留守にするわけにいかなかったからだ。
だが、平手は使者の目的を美濃と尾張との和睦の再確認のためとしか、吉法師には説明していない。
それだけの理由で、いまは吉法師に仕える立場の平手が美濃に派遣されることは、あり得ないのだが。
備後守が吉法師廃嫡への布石として、斎藤山城入道の娘、帰蝶姫を勘十郎の正室に迎えようと目論んだこと。
これを拒絶した山城入道に平手が説いて、帰蝶姫と吉法師との縁組を望むかのような手紙を書かせたこと。
そこまでの事情を平手は吉法師に伝えていないのだ。
だから吉法師には、平手がどの立場に立っているのか、わからない。
それは実は平手自身にも、よくわかっていないことだ。
備後守と吉法師が、いよいよ実力を行使しての対立に至ったとき、自身はどう立ち回るか平手は態度を決めかねている。
丘の麓から虎口まで、やや急な勾配で作られた大手道を、吉法師一行は上って行く。
「……ひいっ、へえっ、このごろ槍しか振ってねえから、久しぶりに荷車なんぞ牽いたら疲れるぜ」
「オレらの口には入らねえ『柳』だからなあ、重たいばかりで、ありがたみなんてねえや」
相変わらずの髭面な人足姿の服部兄弟が、手分けして荷車を牽いたり押したりしながら愚痴をこぼす。
城門までは、間もなくであった。




