第八章 天王向島(7)
濡縁に膝をついた少女は、にっこりと微笑んだ。
「タツと申します。よろしくお願いいたします」
「う……、うむ」
竹千代はぎこちなく、こくこくとうなずくと、傍らにいる吉法師に声を潜めて言う。
「吉法師どの、少しよろしいか」
「どの……であるか」
吉法師は僅かに口角を上げながら、竹千代のそばに寄る。
「うむ、なんであろうか」
那古野城下、安養寺の書院である。
そこに竹千代は、側近の天野又五郎、阿部徳千代とともに住まわされている。
吉法師は、毎日のように竹千代のもとを訪れているが、熱田や津島の町へ連れ出すことは控えるようになった。
松平次郎三郎が備後守を裏切って以来、竹千代の立場は微妙なものとなっている。
この日の吉法師は、髷を結い上げて小袖姿──ではあるのだが、髷を束ねる元結は金と紅の糸を編んだもの、また小袖は地の色が紅で、背に金色の虎の刺繍が入っている。
さすがにこのような柄の女物の古着はなく、吉法師が津島の職人とともに図案を練り、誂えたものであった。
そして帯には火打ち石と、瓢箪をいくつか吊り下げている。
瓢箪の中身は鉄炮の弾薬と鉛玉で、のちほど滝川久助に鉄炮の技を指南してもらう約束なのである。
しかし、いまは竹千代のご機嫌伺いであった。
外へ連れ出してやれない竹千代を退屈させないように、毎日あれこれと気を遣っているのである。
タツという少女を連れて来たのも、その一環だ。
竹千代が、たずねた。
「あの娘は、儂よりいくらか年上だな」
「うむ、しかし五つまでは離れておらぬ」
「吉法師……どのの、妹であるか」
「うむ、である。しかし家来に預けられて育ち、父上の子と認められたのは最近じゃ。生母は身分の低き者ゆえ父上の側室には迎えられず、タツを生んでほどなく、ほかの家来に嫁がされておる」
「吉法師どのには、あまり似ておられぬぞ。貴殿の妹たちは貴殿に似ておるという話ではなかったか」
「妹たちが儂に似ておるかどうか、兄である儂には、ようわからぬと申したはずだが」
「美形であるな」
「む? ……であるか?」
首をかしげている吉法師に、竹千代は念を押した。
「あの娘に、まことにこの寺で儂の世話をさせようというのか。女人が寺に住み込むかたちになってよいのか」
「住持の許しは貰うておる。加藤図書助の屋敷にあったときのように母代わり、祖母代わりの者が甲斐甲斐しく世話を焼くというわけには参らぬが、タツも気立てのよき者じゃ。竹千代によく心配りをしてくれよう」
「……であるのか」
「であるぞ。我が母はタツの身の上を案じて幼き頃より気にかけておったのだが、その心根のよさをすっかり気に入って、父上に勧めて我が家の娘と認めさせたのだ」
「吉法師どの」
「うむ?」
「これからは兄上と呼んでよろしいか」
「む?」
「いや、戯言じゃ。少し気が早かった。聞き流してもらいたい」
「……であるか」
口元を綻ばせ、うなずいている吉法師に、竹千代は居住まいを正す。
「それはそれとして吉法師どの、真面目な話をいたしたい」
「うむ」
吉法師は、タツに告げた。
「用ができたら声をかけるゆえ、しばらく下がっていてくれ」
「はい、失礼いたします」
にっこりと笑顔を残して、タツは下がって行った。
吉法師は竹千代に向き直る。
「されば、話とは何であるか」
「吉法師どの、そなたが儂をかばうことで、家中での立場が悪うならぬかと案じておるのだ」
竹千代は言った。
「我が父、松平次郎三郎は、戦の最中にそなたの父、備後守を裏切るかたちになった。我ら松平を赦しがたく思うておる者は、織田の家中に多かろう」
「それは戦乱の世の習いであろう。次郎三郎殿の裏切りを避けようと思えば、父上にはいくらでも手はあったはずなのだ」
答える吉法師に、竹千代は、さらにたずねる。
「タツという娘を儂の近くに置くことを、備後守は許しておるのか」
「父上が長らく我が娘と認めなかった者だ。母上の許しは得ておるゆえ案じることはない」
「寺の周りには、あのむさ苦しい髭の服部兄弟をはじめ、そなたの足軽衆や、加藤図書助殿、隼人佐殿から遣わされた奉公人たちが見張りに立っておる。これは儂を閉じ込めておくためではなく、むしろ守るためであろう。しかし、それだけの手間をかけることも備後守が許すのか」
「それは儂と両加藤殿が勝手にやっておることじゃ。竹千代の身に万が一のことがあれば、図書助殿の母と妻が我らを赦さぬであろうゆえ」
「吉法師どの」
竹千代はあらためて呼びかけ、吉法師はうなずく。
「うむ」
「儂は、いまさらながら、この命が惜しゅうなった。そなたが、まことに天意に適うておるのかは知らぬ。知らぬがゆえに、その行く末を見届けたくなったのだ。しかし……」
言い淀んでいる竹千代に、吉法師は先を促す。
「うむ?」
「……しかし」
竹千代は思い切ったように、言葉を続けた。
「儂の存在が、そなたの立場を危うくしておるなら、それは儂の望むところではない。この身を備後守のおる古渡城か、誰ぞ備後守の意のままに従う者のもとへ引き渡してくれて構わぬ」
「竹千代が儂の手元におろうがおるまいが、父上が儂を見る目は変わらぬであろう」
吉法師は答えて言った。
「父上にとっては我が子も碁石や将棋の駒と同じ。おのれの意のままに動かそうとしか望んでおらぬ。それゆえ儂のように思い通りにならぬ者は小憎らしくてならぬのよ」
「備後守がそなたを憎んでおるなら、婆娑羅の真似など許しておるのは何故じゃ」
「父上は他人がおのれを見る目を妙に気になさるところがある。儂は身なりは婆娑羅を真似ておるし、父上に異を唱えることも多々あるが、この那古野の城の政事は怠りなく務めておるつもりじゃ。それゆえ、いまは儂を咎めるよりも、父として家長として寛容なところを見せたいと思うておられるのであろう。儂に何やら大きな落ち度でもあれば、そのときは遠慮なく儂を罰するであろうが」
吉法師の言葉に、竹千代は眉をひそめる。
「そなたに落ち度があることを待つばかりとは限らぬのではないか」
「む?」
「つまり、ありもせぬ罪を問うことは考えられぬかと申しておる」
「ふむ……」
吉法師は首をかしげてみせたが、すぐに大きくうなずいて、竹千代に答えて言った。
「もし父上が、そこまでなさるほど儂を憎んでおられたならば、儂も遠慮なく意趣返しをさせてもらおうぞ」
「もし左様なことが、まことにあるとすれば、そのように呑気に構えてなどおられぬぞ。相手はそなたの父であり家長であるのだ。持てる力は、そなたより遥かに大きい。これに抗うのは容易なことではなかろう」
「子が父を乗り越えた例も、ないわけでもなかろう。先にも甲斐の武田大膳大夫殿が実の父を駿河へ放逐しておる」
吉法師は言ったが、竹千代は呆れ気味に、
「それは追放された父の左京大夫殿の政事に家来どもが不満を抱いておったからだと聞いたぞ。また大膳大夫殿と駿河の今川殿との間で密約もできておったのだろう。備後守は、三河の者である儂から見れば実に嫌な男だが、この尾張では家来からそこまで嫌われておるようには思えぬ。また、大膳大夫殿にとっての今川殿のように、そなたと示し合わせて備後守の隠居を受け入れる他国の大名もおらぬであろう」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
「さて、皆がそのように儂を案じてくれるが、あいにくと儂は天邪鬼であるのじゃ。儂は、儂の思うままにするばかりよ。それで父上が、儂の身に覚えのない罪を問おうとなされるのであれば、儂には天が味方してくれて、父上の罪をこそ問うことになろうぞ」
「吉法師どのがそこまで申されるなら、もはや儂からは何も申すまい」
竹千代は、やれやれと首を振った。
「されど儂がそなたを案じておることは、忘れずにいてもらいたい」
「うむ……覚えておこう」
吉法師は答えて言った。




