第八章 天王向島(5)
開墾半ばの畑と荒れ地に囲まれて、荒子城はあった。
織田備後守の家臣──ではあるが、林新五郎の与力につけられて実質的に林の配下として扱われる前田一族が、少し前に建てた城である。
城とはいうが、構えはほとんど侍屋敷である。
しかし小さな丘の上を選んで立地し、周囲に空堀を巡らせて、なんとか城と呼べる体裁を整えている。
熱田湊の西に当たるこの辺りは、その昔──源平合戦よりも古い時代は干潟であった。
それが次第に乾いて荒れ野となり、『新墾』と呼ばれる開墾地となった。
しかし土の塩気が抜けずに稲作には向かず、畑とするにも作物を選ぶ。
ほぼ耕作放棄地のようになって土地の呼び名も『荒子』と変わっていたところに、前田一族が目をつけ、備後守に願い出て城を建てたのだ。
城主を任されたのは縫殿助といって、一族の家長、與十郎の甥である。
與十郎は荒子のさらに西、小田井川を越えた向こうの前田城を本拠とする。
前田一族は、その前田城周辺に勢力を張る地侍だが、城の名前は自分たちの苗字からつけたもので、本来の一族発祥の地は美濃西部の安八郡にある前田郷らしい。
それはともかく──
その荒子城を、平手五郎右衛門は訪れていた。
馬の口取りと槍持ちの小者二人を連れている。
門は開け放されており、そこに槍を手にした門番や下働きの奉公人たちとともに、若い侍が一人、立っていた。
「ようこそお出でくださいました、五郎右衛門殿」
にこやかに声をかけて来た若侍は、蔵人といった。
縫殿助の長子であり、父ももとは蔵人と名乗っていたので、新蔵人と呼ばれることもある。
実は前田犬千代の兄であり、くりくりと目が大きな顔立ちは似ているが、色は白く体つきが細い。
「手狭な城でございますので、こちらで馬をお預かりいたします」
「おう」
五郎右衛門はうなずき、門の外で馬を下りた。
門の向こうには、厩舎に収まりきらない馬が何頭か、庭木や地面に打った杭に繋がれている。
幾人か先客があるのである。
馬は自身の小者と城の奉公人たちに任せて、五郎右衛門は蔵人とともに門をくぐった。
槍持は城の外に留まることになるだろう。
馬ばかりでなく先客が伴って来た従卒や小者らで、城の前庭は混み合っている。
蔵人が軽く咳き込み、五郎右衛門は眉をひそめた。
「大丈夫か」
「ええ、いつもの空咳でございます」
蔵人は苦笑する。
病弱というほどではないのだが、蔵人は生まれつき喉が弱い。
しかし幼い頃から利発でもあって、縫殿助は蔵人を嫡子として、これを代えるつもりはないようだ。
縫殿助には、ほかに三左衛門と五郎兵衛という男子があり、犬千代はその下の四男である。
また末子の八郎は、佐脇藤右衛門という者に養子に出した。
佐脇家は室町幕府奉公衆という名家であったが落魄し、いまは斯波武衛家の近臣として清須にある。
五郎右衛門は蔵人とともに母屋に入った。
大きな構えではないので、すぐに広間があって、そこで十四、五人の侍が車座になり、酒を酌み交わしながら談笑していた。
「平手五郎右衛門殿、お見えになりました」
上段の間を背に座していた男に、蔵人が声をかけた。
「おお、五郎右衛門殿、よう来られた、よう来られた」
ぎょろりと大きな目を見開き、にかっと口元にだけ笑みを浮かべたのは、林新五郎の弟で美作という者だ。
新五郎より少し若いが、よく似た兄弟である。
目が笑っていないところが、そっくりだ。
その横にいるのは、城の主の縫殿助であった。
よく日に焼けたところは蔵人よりも犬千代に似ているが、温厚そうな顔をした男である。
蔵人が五郎右衛門に囁くように、
「では、わたくしはこれで」
「おまえは加わらぬのか」
「ええ……」
困り顔のように眉を八の字にしながら微笑んで会釈し、蔵人は立ち去った。
五郎右衛門は美作に手招きされるまま、そのそばへ行った。
先に来ていた侍たちが場所を詰め、五郎右衛門に席を空けてくれた。
見ると先客の中には甚左衛門の顔もあったが、兄に気づくと軽く会釈しただけで、すぐに隣に座る佐々隼人正との会話に戻る。
隼人正は備後守に仕える武功の家臣だが、甚左衛門と年が近い。
本来は文官である甚左衛門だが要領がいいので、隼人正ともうまく話を合わせているのだろう。
五郎右衛門は美作の隣に座して、会釈した。
「たびたびのお招きをいただきながら本日まで参上せず、誠に申し訳ございませぬ」
「いや、ようござる、ようござる。下手の横好きばかりの連歌会でござるゆえ」
美作は言うと、空いていた茶碗を五郎右衛門に渡してくる。
五郎右衛門が受けとったところに、徳利から酒を注いできた。
それを五郎右衛門は押しいただき、一息に干した。
上等な柳であった。
京から運ばれて来る高価な清酒である。
銭は林兄弟が出しているのだろう。
美作がおどけるように、ぎょろりと大きな目をさらに見開いた。
「おお、さすがは平手中務殿の自慢の御子息。豪快な飲みっぷりは父御譲り」
「いかにも左様でございますな」
縫殿助が穏やかに相槌を打つ。
美作が五郎右衛門にもう一杯、酒を注ぎながら、
「連歌会とでも申さねば、こうして皆で集うて酒を酌み交わす機会も、なかなかござらぬ。かたちばかり宗匠もお招きしておるが、いまは書院で女中たちに相手をしてもろうてござる」
「いやまったく、少しも連歌は上達いたさず、美作殿の手土産の柳に舌ばかり肥えてござる」
縫殿助が笑う。
そこに少し離れた席から柴田権六が立って来て、五郎右衛門の肩を叩くと、どかっとその前に胡座を掻いた。
やはり徳利を手にしており、にやりと不敵に笑って、
「我が酒も、どうぞ一献」
「頂戴いたす」
五郎右衛門は権六に向かって盃を出し、そこに酒が注がれた。
また一息に五郎右衛門は盃を干すと、
「御返杯」
「おう」
権六は同じ盃を受け取り、五郎右衛門が注いだ酒を、くいっと干した。
美作が手を打って、
「おお、豪傑同士の、よき飲み比べでござる」
「いやそれがし、柴田殿の武功には遠く及ばず」
五郎右衛門が言うと、権六はその肩を叩き、
「御謙遜を。青山与三右衛門殿の亡きいま、那古野の軍兵を束ねる者は平手五郎右衛門殿」
「…………」
五郎右衛門が答えずにいると、美作が言った。
「いや、皆がそう思うておるのでござる。内藤勝介殿もしばらくは傷が癒えぬでござろうゆえ。それを彼の御城主様は平手中務殿に武者奉行をお任せになられた。平手殿には勘定方の御役目もござるゆえ、一度は御辞退なされたものを御城主様が無理強いしたと耳にしてござる」
「あれは、うつけですな」
権六が言った。
「そのうつけが津島より銭で雇い入れた足軽どもも、我ら武士の下で働く身でありながら、武士を武士とも思わない不遜な者ばかりと聞きました。これに五郎右衛門殿は手を焼かされたのでしょうが、そのことをもって五郎右衛門殿を武者奉行の御役目から外そうとは話の後先が違う」
「いかにも左様にござる」
と、ぎょろりと大きな目を五郎右衛門に向けて、美作は口元だけ笑ってみせる。
「累代の家来である平手五郎右衛門殿よりも、新参のそれも軽輩者の足軽のほうが可愛いのかと問い詰めてみとうござる」
「問題があるのは家来の扱い方ばかりではない。日頃のお振る舞いもまるで武士らしくない。そのようなお方が御嫡男では、さて……」
そこで思わせぶりに権六は言葉を濁したが、美作が、きっぱりと言った。
「御当家が滅んでもおかしくござらぬ。いや我ら武家奉公する身として由々しき事態にござるぞ」
「…………」
なお答えずにいる五郎右衛門に、権六が盃を返した。
徳利から酒を注ぎ、告げた。
「ここにいる者は皆、我らの一味同心。また安祥城にある林新五郎様、前田與十郎殿も同志」
これに美作もうなずいて、
「されば我ら近く大殿、備後守様へ、三郎様を御廃嫡あるよう御進言申し上げる覚悟にござる。このこと五郎右衛門殿にも、重々ご承知おきあれ」
「…………」
五郎右衛門は黙って盃を干す。
その肩を、また権六が叩いて、言った。
「廃嫡に納得しない三郎様が、万が一にも御謀反の兵を挙げようということなど、ないようにです」




