第八章 天王向島(2)
道空は津島に着いて便船を降りたところで滝川久助と分かれた。
河岸から堤の上の道へ上がり、荷を運ぶ水夫や人足や荷車が行き交う間を、ひょこひょこと歩いて行く。
「うろうろしてると、あぶねえぞ嬢ちゃん……って、道空様じゃねえですか」
酒樽を積んだ荷車を牽いて来た人足に声をかけられ、道空は振り向き、くすくすと笑った。
「やだなあ、この髪の色で、わたしだってわかるでしょう」
「ええまあ、これが毎度のお約束で」
にやりと笑って答えた人足は吾平といって、道空の兄、道悦が営む店の奉公人である。
「先ほど旦那様のところにお武家の客が来られてましたぜ。お武家ってことは目当ては旦那様ではなく道空様でしょうが」
「うーん、また面倒くさいなあ」
腕組みをして首をかしげる道空に、吾平は笑い、
「そんなことおっしゃってると、また旦那様に、どやされますぜ。家の商いのために働くのでなければ、この津島のために働けと」
「働いたら負けという時代が、そのうち来ないものですかねえ」
「働かなくてもいい、じゃなくて、働いたら負けなんですかい」
きき返す吾平に、道空は、にまっと笑う。
「そう。負け。そういう時代が来れば、わたしは勝ち組になれる自信があります」
「でもなんだかんだいって道空様、面倒見はそんなに悪くないですからね。そんな時代が来ても結局、ちょっとは働いて負けた負けたと笑ってるんでしょう」
「やだなあ、それじゃあ、わたし、いい人みたいじゃないですか」
道空は言って、くすくすと笑う。
そこから道悦の店までは、すぐだった。
目の前の河岸が店の専用の船着き場であるが、そこに繋ぎきれない舟がもう少し下流や上流にも繋いであって、そこまで人足が荷車で往復する。
道悦の店では、畿内や西国で珍品や稀少品を買いつけ、これを尾張や美濃へ運んで武家や社寺に売り込む商いをしている。
そのために目利きの買いつけ担当者を幾人も諸国に派遣して、また各地の船主と提携したり、畿内から桑名までの陸路は自前で人足と護衛を雇って荷を運ぶ手配もしている。
大がかりでかつ大きな銭が動く商いであり、店は大いに繁盛している。
道悦は店先に積み上げた樽やら木箱と、手にした帳面とを見比べながら、人足らにあれこれ指図している。
銀の筋が混じった髪の色は、道空と変わらない。
だが道悦はそれを、ざんばら風に刈って、つんつんとあちこちが撥ね上がっている。
見た目は二十代半ばというところで整った顔立ちであるが、南蛮渡来の眼鏡をかけている。
この日の本では、かなり珍しい。
というより、南蛮人が自分で使うために持ち込むことがほとんどなので、なかなか市場に出回らない。
しかし珍しい装飾品と思い込んだ日本の商人が大金を積んで譲り受け、実際かけてみると自分の目には合わなくてすぐに手放すようなこともあり、道悦もそうした品を見つけて手に入れていた。
道悦自身は、たまたま度が合って細かいものがよく見えるようになったので愛用している。
「これと、この箱は井ノ口行き。こっちの樽もだ。以上、もう運んでいいぞ。これとこれとこれは、犬山行きだ」
人足たちに指示していた道悦が、ひょこひょこと歩いて来る道空の姿に気づき、眼鏡の下の眉をしかめた。
「おい」
「はい、なんでしょう、お兄様」
にっこりとする道空を、道悦は睨みつけ、
「きょうは大量に入荷の予定があって忙しいんだって、昨日のうちに言っといたよな」
「はい、ですからお邪魔にならないように朝のうちから出かけておりました。少し戻りが早かったですかね」
「出かけておりました、じゃねえよ。遊び歩いてるなら手伝え、この無駄メシ喰らいが」
「無駄メシ喰らいとはヒドいなあ、閑人と呼んでくださいよ」
指先まで隠れた袖を、ぱたぱたと振る道空に、道悦は「はあっ」と聞こえよがしに、ため息をつく。
道空とは議論をするだけ無駄である。
ごくたまに気が向いたときだけ商売の手伝いをするけど、ほとんど遊び歩いてばかりなのである。
「まあいいわ。オマエに客だ」
「ええ、さっきまで来ていたと、そこで行き合った吾平から聞きました。いやあ、誰だか知りませんけどお会いできずに残念残念」
にこにこしながら、ぱたぱたとまた袖を振る道空に、道悦は呆れたように、
「いや、まだ待ってるけど」
「え? じゃあ、わたしもういっぺん桑名まで往復して来ますので。それとも、自分の屋敷にまっすぐ帰ったことにしてもらいましょうか。でも、それだと家まで訪ねて来ちゃったら困るか。うーん……」
腕組みをして首をかしげている道空を、道悦は、じとーっと冷ややかな目で見て、
「待ってるのは、オマエの屋敷でだよ。こっちは人の出入りが多くて騒がしいから、そっちに回ってもらったんだ」
「え? それじゃあ、わたし、家に帰れないじゃないですか」
目を丸くする道空に、道悦は眉をしかめて、
「帰って客に会えばいいだけだろ」
「イヤですよ面倒くさい。だってお武家の客でしょう? また厄介ごとを持ち込んで来たに決まってる」
「オマエがいつも遊び歩いて、あちこちどこでも顔を出してるから、無駄に顔が広くて使えるヤツだと思われてるんだろ。それがイヤなら大人しく家の商売を手伝え。そうじゃなければ、この津島のためだ、せいぜいお武家様のご機嫌をとって来い」
道悦に言われて、道空は、やれやれと首を振った。
「働いたら負けの時代が、早く来てほしいものです。ところで客って誰なんです」
「織田備後守様御家中の、平手中務様だ。いまは吉法師とか名乗ってる放蕩息子の附家老だっけか」
「ああ」
道空は、がくっとうなだれた。
「それ絶対、面倒くさい話でしょ。負け確演出、入っちゃいました」




