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信長廃嫡  作者: 白紙撤回
第八章  天王向島
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第八章  天王向島(1)

 

 

 

 川面を渡る風は磯の香りを含んでいた。

 岸は遠くに霞んで見える。

 潮が満ちれば、この辺りの様相は海と変わらない。

 点在する中洲を「島」と呼ぶのも、土地の者には自然なことだ。

 右手が加路戸かろと島、その奥が市江島、左手が長島――

 名のある島々は、それ自体が一つの村でもある。

 そうした人の住まう島や、よし灌木かんぼくが茂るばかりの名もない小島の間を、上げ潮に乗った船は軽やかに進む。

 その者は舳先へさきに立って、行く手に目を向けている。

 銀色の筋が混じった腰まで届く長さの髪が、風になびいている。

 ちんまい。

 せいぜい十一、二歳という体格で、顔立ちも幼い。

 唐国からくにの文人墨客のように道服どうふくに身を包んでいるのが、子供の仮装としか見えない。

 丈の合わない袖が指先まで隠してしまっている。

 

「──危ないですよ、そのようなところに立っては」

 

 後ろから声をかけられて、その者は振り向いた。

 相手は、にこやかな笑みを浮かべた愛嬌のある童顔と、それに不釣り合いな大きな体をした男だった。

 滝川久助であるのだが、その者とは面識がない。

 久助は風呂敷包みを背負い、さらに刀袋に収めた何やら長いものを紐で肩に引っ掛けている。

 腰にはそれと別に、二刀を差している。

 肩に掛けた何やら長いもの──が、刀ではないのは、袋のいびつな膨らみ方で明らかだ。

 その者は、それが何かを知っている。

 鉄炮てっぽうである。

 その者は、見た目によらず博識なのである。

 しかし、いまはその一端を披露する機会ではない。

 その者は、にっこりと笑みを返して、指先まで隠れた袖を、ぱたぱたと振りながら答えた。

 

「大丈夫ですよ、舟には慣れてますから」

「それならよいのですが」

 

 久助も笑みのまま言う。

 桑名から津島まで木曾川を遡行する便船である。

 同乗の客は三十人ばかり。

 旅姿の武士や僧侶、大きな荷を携えた商人たちだ。

 その者は、それらのいずれとも見えない。

 子供の仮装であるとすれば、連れの親兄弟が、ほかの船客の中にいるのだろうか。

 

「津島の方ですか」

 

 久助がたずねてみると、その者は目をまん丸く見開いてから、にまっと笑った。

 何やら悪戯いたずらを思いついた子供のような顔だ。

 それが表情に出てしまっているところが、いかにも幼げである。

 

「ええ、ええ、思いきり津島の者ですよ。そちらは他国の方ですか」

「いえ生まれも育ちも尾張ですが、しばらく堺にいて、数年ぶりに戻って参ったのです」

 

 久助は答えて言う。

 その者は右手の人差し指を立てて、それを顎の先に当てる。

 そして左目をつむり、言った。

 どやっとでも言いたげに胸を張りながら。

 

「鉄炮修行ですね」

「ご明察。ですがそのように胸を張っておられると、舳先から転げ落ちないか心配になります」

 

 苦笑いする久助に、その者はまた、にまっと笑う。

 そして、ぴょんっと甲板に飛び降りた。

 

「そう心配ばかりさせても申し訳ありませんね。あなたとは落ち着いて話をしたいですし」

 

 同じ甲板の上に立つと、その者は背を反らして久助の顔を見上げるかたちになる。

 くすくすと笑って、

 

「ああ、しかしこれでは、わたしの首が疲れてしまう」

「それはこちらが申し訳ない」

 

 と、笑った久助がしゃがむと、目線の高さが近づいた。

 大人の久助が、子供に話しかけているような構図であるが。

 

「ご存知なのですね、鉄炮を」

 

 たずねる久助に、その者は、にまっと笑った。

 

「商いのタネになりますからね。まだいくらも数は扱っていませんが」

「津島で鉄炮が手に入るのは心強い。当然、弾薬たまぐすりも扱っておられるということでしょう」

「ええ。ですがまだ高いですよ」

「高くても銭で手に入るものなら、拙者の主人がどうとでもしてくれましょう」

「ふうむ」

 

 その者は、また右の人差し指を顎の先に当てて左目をつむる。

 

「あなたの主人は、織田吉法師様」

「これまたご明察。なぜそうとわかりました」

 

 にこやかな笑みで、たずねる久助に、その者は、くすくすとまた笑ってみせる。

 

「なに、数年前に家来を一人、堺へ鉄炮修行に遣わしたと聞いたことがあったからです。あなたが滝川久助殿ですね」

「はい、滝川です。失礼ですが、あなたは」

 

 たずねる久助に、にまっとその者は笑い、

 

「なに、津島で商いをする者が身内にいるだけの閑人かんじんです」

「ふうむ……」

 

 久助は左目をつむり、右の人差し指を立てて、顎の先に当ててみた。

 その者の真似である。

 

「……堀田道空ほった どうくう殿」

 

 言われてその者は、ぷっと吹き出した。

 

「なんだ知っていたのですね、あなたも人が悪い」

 

 道空──という名で知られるその者は、指先まで袖に隠れた両腕を広げてみせ、

 

「まあ、このような『なり』のオトナコドモは、そうそういるものではありませんからね」

「いえ失礼ながら、初めは本当に子供かと思っておりました」

 

 久助が言うと、道空は、くすくすと笑う。

 

「なるほど、ですから、わたしを見て津島の方かとたずねたと」

「はい」

 

 久助も笑顔でうなずき、

 

「それで堀田殿は、やはり上方からのお戻りで」

「いえ桑名まで気晴らしに出かけた帰りです。旅の方が多く集まる桑名で磯の香りを吸って、自分もちょっとだけ旅をした気分になろうという」

 

 道空の答えに、久助は首をかしげ、

 

「失礼ですが堀田殿も、たびたび諸国へ旅をされるお方と耳にしておりました」

「ええ、それがこのところは、そうもいかず。せいぜい美濃と尾張を行き来するばかりで」

「美濃ですか」

 

 きき返す久助に、道空は、にまっと笑う。

 

「ええまあ、わたしもこの『なり』で、どこへ行っても目立ちますから。美濃に出入りしていることは隠していません」

「木曾川筋での商いが多い津島の方ですから、美濃への出入りは珍しいことでもないでしょう」

「ええ、皆がそう素直に思ってくれればいいのですが、そうもいかず」

 

 道空は、船の後方──そのずっと彼方の、いま発って来た桑名のほうを見やる。

 顎の先に右の人差し指を当て、左目をつむって言った。

 

「わたしが桑名で旅気分を味わうのは、周りにほかの旅人が多いということもあるのですけど。わたし絶対、桑名の辺りでは温泉が掘れると思ってるんです」

「温泉ですか。山深いところで湧くものではないのですか」

 

 久助が問い返すと、道空は振り向き、にまっと笑い、

 

「自然に湧いているものはそうですが、おそらく地を深く掘っていくと、桑名でも湧くと思うんです」

金掘かねほりを雇って掘らせてみてはいかがですか。うまく掘り当てれば新しい商いのタネになるでしょう。津島の堀田家の財力なら、できないこともないのでは」

「いえ財力があっても技術がなければ。そうですね、あと四百年ちょっとは難しいでしょうか」

「それは途方もない先のことですね。四百年掘り続けるのですか」

「いえ四百年先の技術なら、さくっと掘って湧くでしょう。いや、うまく源泉に行き当たらないとダメだから、さくっとまではいかないかな」

「桑名で温泉が湧けば、東海道筋の諸国から湯治客が集まって賑わうでしょうね」

「そうなのです。立地的にも、いいと思うのです」

「しかし四百年ですか。拙者の何代か先の孫なら、その温泉に入れますかね」

「入れますでしょう。滝川殿なら織田吉法師様にお仕えする間、立身出世を重ねられて、家も栄えるでしょうから」

 

 にっこりとする道空に、久助も笑顔で、

 

「それは拙者の主人、織田吉法師様が大いに栄えられると堀田殿はお考えということでしょうか」

「そうですね」

 

 道空は顎の先に右の人差し指を宛てて、左目をつむった。

 

「それだけの御器量があると見立てておりますが、御本人様と周囲との巡り合わせもありますからね。どうなりますことか」

 

 

 


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