第七章 三河小豆坂 其ノ二(17)
吉法師は那古野城下の内藤勝介の屋敷を訪ねた。
内藤は一度は敵方に捕らえられたが、石川助十郎の計らいで尾張へ帰還していた。
城下の侍屋敷は、吉法師が城主になったばかりの頃は長屋のような粗末なものばかりであった。
しかし備後守が萬松寺を創建した際に町割をあらためたので、敷地に余裕が生まれ、それぞれの身分にふさわしい屋敷に建て直されたのである。
四番家老である内藤の屋敷は、梅が幾本か植えられて小さな池もある庭を備える。
それに面した座敷に延べた寝床の上で、内藤は身を起こしている。
顔中が赤く腫れ上がり、頭には晒を巻いていたが、声にはしっかりと力があった。
「天白道場にいくらかでも敵を引きつけてやろうと思いましてな、今川方が火矢を射かけて参りますのを配下の兵を励まして消し止めようと努めておりました。あくまで御味方の利となろうと思うてのことでござるが、これを道場に住み込んでおった世話人の老爺が尾張者にも天白様への信心深い者がおると思うてくれたようで」
「天白神を祀る社は、この那古野の近くにもいくつかあろう」
吉法師が言うと、内藤は福々しい顔に笑みを浮かべようとして、
「いかにも仰せの……あ痛っ」
と表情を歪ませる。
「どうも顔の火ぶくれが収まらず」
「うむ。無理をいたすでない」
吉法師が気遣うと、内藤は頭を下げ、
「いやしかし、寝てばかりおりましても鬱々といたしましてな。殿さえよろしければ老職のひとり語りに、いましばらくおつき合いくだされ」
「うむ。こたびの戦が如何ようなものであったか、儂も聞いておきたい」
「されば、矢作川の両岸の御味方がいよいよ崩れ立ちましたので、もはや潮時と兵をまとめ、東岸の今川勢本隊に斬り込みました。そのまま敵を突き破って浅瀬を渡り、味方のおる安祥まで駆け通す腹づもりでございましたが、そう容易くは参りませぬ」
「敵の本隊の大将は太原崇孚じゃな」
「仰せの通り。されどいずれが大将か見定める余裕もなく、敵に囲まれて兵たちは次々と討たれるか捕らえられました。それがしも川岸で打ち倒され、頸をとられるところでございましたが、道場の世話人の老爺が駆けつけて参りましてな。このお侍は天白様の信徒にござるゆえ石川様へ引き渡すようにと今川方の侍に申してくれたのです」
「今川方の者はよく聞き入れたのう」
「太原崇孚和尚の配下でございましたからな。天白様の信徒と言われると無体なこともできぬと思うてくれたのでしょう。それで老爺に伴われて石川助十郎殿の屋敷へ参り、傷の手当てを受けたのち、今度は天白様の信徒らに連れられて安祥へ送り返されました」
「なるほどのう。こちらの領内の信徒を通して、その上和田の天白道場に詫びを入れねばならぬところよ。我が軍が陣所を構えたせいで道場が焼け落ちたのであろうから」
「戦の習いとは申せ、社寺を兵火に巻き込むのは心苦しいものがございます」
「うむ」
吉法師がうなずくと、内藤は「ところで……」と、枕元に置いていた白晒の包みを手にとった。
「安祥におりましたとき、岩室十蔵殿の配下の忍びで孫と申す者が、これを届けに参りました。十蔵殿の遺髪でござる」
「小十蔵に渡せばよいか」
「そうしてやってくだされ。孫は戦のすぐあと仲間の行方を確かめるべく岡崎周辺を回り、十蔵殿の亡骸を見つけたそうでございます。松平方の忍びも幾人か死んでおり、それを葬るために仲間の忍びと近在の百姓が集まっておりましたが、念仏宗の僧侶に化けた孫が読経をさせてほしいと近づいて、隙を見て十蔵殿の髻を切ったそうでございます」
「その孫とやらは、いまどうしておるのか」
「仲間の菩提を弔うため、諸国の観音霊場を回ると申して去りました。岩室十蔵殿の一党、大半の者が討たれまして、生き残りの者で話し合い、皆、尾張を去ることにいたしたそうにございます。もともと仔細あって忍びの里を離れた者たちを十蔵殿が束ねておったばかりにて、十蔵殿がおらねば一党を保つことは難しいと」
「一党のうちには家族がある者もおったのではないか。流浪の身となり暮らし向きに困らぬのか」
「それがしも、そこを案じて孫にたずね申したが、養うべき身内がある者は、いつ稼ぎ手が死んでも困らぬようにと十蔵殿が指図して、それぞれの家で貯えをさせておったと」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
「美濃攻めに続き、こたびも多くの者を失うた。四郎次郎叔父上のことは聞いておるか」
「安祥まで辿り着いたところで高熱を発し、床に伏せられたとまでは。安祥も留守居の加藤図書助殿以下、熱田衆のほかは手負いの者ばかりにて、三郎五郎様のお指図で動ける者から尾張へ帰されましたので、その後のことは、あいにくと存じ上げませぬ」
内藤が答えると、吉法師は眉をひそめて、
「ようやく熱は引いたものの正気に戻られぬそうじゃ。傷口から毒が回ったことが災いしたのであろうとは医師の診立てであるが」
「なんと……」
内藤は鎮痛な面持ちで目を伏せ、首を振る。
吉法師は言った。
「安祥の守りを固めよとの父上のお指図で、我が那古野からは林新五郎を遣わした。固く守れとの命であれば、林であっても物の役には立とう」
「これは厳しきお言葉」
内藤は苦笑して、
「……あ痛たたた……」
と、顔を歪ませる。
吉法師も苦笑いして、
「すまぬ。笑わせるつもりで申したのではないのだ」
「いえ。されど殿、どうぞお気をつけくださいませ。美濃攻めに続いての、こたびの痛手。大殿は強気を崩さぬでございましょうが、清須や岩倉あたりが怪しき動きを示すやもしれませぬ」
内藤が言って、吉法師はうなずく。
「それと犬山じゃ。かねがね十郎左も父上への不満を隠そうとせぬゆえ」
「…………、それと……」
言い淀んでいる内藤に、吉法師は先を促す。
「いかがした。遠慮なく申せ」
「申し上げがたきことなれど、どうぞ日頃のお振る舞いには、いくらかでもお慎みがこざいますよう願い奉る。いやそれがしはよいのです、殿の御器量を存じ上げておりますゆえ。されど世人には、なかなか計りがたきものにございますれば」
慎重に言葉を選びながら言う内藤に、吉法師は眉をひそめた。
「うむ……内藤、そのほうまでがそう申すか」
「誠に申しわけのなきことではございまするが、あえて御諫言させていただきました」
「いまは、まず傷を癒せ。儂は、まだまだ戦の経験が足りぬ。そのほうがごとき老巧の者が頼りなのだ」
「は……ありがたきお言葉。いずれ再び殿のお役に立てますように、いまは養生に専心いたしまする」
内藤は頭を下げ、吉法師は、うなずいた。
「……うむ。待っておるぞ」




