第七章 三河小豆坂 其ノ二(16)
古渡城の広間。
上段の間に向き合うかたちで、吉法師は座している。
烏帽子こそ着けていないが直垂姿で髷を結い上げ、ほぼ正装であった。
備後守が入って来て、吉法師は頭を下げた。
近習や小姓は伴っておらず、備後守は上段の間に着座した。
戸や襖は全て開け放してあり、周囲に余人の姿は見えない。
「無事のお戻り、祝着に存じまする」
吉法師が言うと、備後守は「ふん」と自嘲するように唇の端を吊り上げた。
「松平次郎三郎めに見事、裏切られたわ。岡崎城の北側で今川勢の通過を許し、我らの背後をとらせたのよ」
「その岡崎の膝下のことゆえ、我がほうの忍び働きもことごとく阻まれたと聞いております」
吉法師が言うと、備後守は薄笑いで口髭を撫でる。
「諸々《もろもろ》、策を練り直しだわ。まずは安祥の守りを固めねばのう」
「は……」
頭を下げた吉法師を、備後守は、じろりと見やる。
「松平次郎三郎にも、この裏切りの代償がどれほど高くつくものか思い知らせてやらねばならぬぞ」
「竹千代がことなれば、よりよき使い道がございます。父上がいずれ三河を平らげることをお望みなれば」
吉法師は言った。
「血筋で申せば竹千代は刈谷の水野下野守殿の甥、また生母の於大の方は知多の旧家の久松家に再嫁いたしております。久松家は多年に渡り佐治家と敵対して参りましたが、いまはともに我が味方にございます。竹千代が長じたのち、これに我が一族の女子を嫁がせて縁戚といたせば、水野、久松とも縁が結ばれまする」
吉法師の言葉に、備後守は眉を吊り上げて声を荒らげた。
「儂が三河を平らげたのちは、松平の一党ことごとく放逐してくれるわ。竹千代も用無しじゃ、こたびの見せしめに磔刑にかける以外にはのう」
「それで水野、久松との繋がりも絶ちまするか」
「水野と竹千代の縁など、とうに切れておるわ。それゆえ竹千代の母が次郎三郎から離縁されたのであろうが」
「竹千代は当代次郎三郎の唯一の男子にございます。されば万が一、次郎三郎の身に変事がございました場合、いかなることになりましょうや」
「……なんじゃと」
問い返す備後守の目を、吉法師は、まっすぐに見て、
「先代次郎三郎こと松平清康殿は天文四年、我が尾張の守山城を攻める最中に乱心した家臣によって斬られ、命を落としました。いわゆる守山崩れにございます」
「それがどうした」
「同じような曲事が、当代次郎三郎の身にも起こらぬとは限りませぬ」
「それを起こしてみせようと申すのか、吉法師そのほうが」
「わたくしは、起こらぬとは限らぬと申したまで」
「……ふん」
備後守は、目を逸らした。
「それは竹千代を救いたいがゆえの方便であろう。水野、久松との縁などと申すよりも先にその話を持ち出しておれば、儂も口車に乗せられたやもしれぬが」
「松平竹千代、末頼もしき者にございます。情けをかければ、必ずや報いてくれましょう」
吉法師が言うと備後守は、ぎろりと再び睨みつけてくる。
「されば織田吉法師よ。そのほうに情けをかければ、儂はどのような報いを得られるのじゃ」
「さて父上のお望みは何でございましょう」
「望めばそれに応えると申すか」
「わたくしに応えられることなれば」
落ち着き払って答える吉法師に、備後守は、にやりと口の端を歪めた。
「ならば向後一切、婆娑羅な振る舞いを慎め。家来ともども女子の小袖など纏い、津島や熱田の町をそぞろ歩いて、物売りに勧められるまま瓜やら餅やら立ったまま喰らう浅ましき姿を領民どもに見られておるのじゃ。そのほうには恥というものがないのか」
「さて」
吉法師は首をかしげてみせる。
「確かに瓜は断ち割ったものを渡されましたゆえ、その場で喰らいましたが、餅は持ち帰りましてございます。いや団子なればその場で喰らいましたか。いずれも物売りからの献上にて、我らが店先におりますと物がよく売れるそうでございます」
「それは客寄せに使われておるだけじゃ。武士たる身がなんとも浅ましきことよ」
備後守は眉をしかめて首を振り、それからまた、吉法師を睨んだ。
「それともそのほう、儂を弄うて先ほどから戯言ばかりを並べ立てておるのか」
「婆娑羅を慎めと仰せられましたので、日頃の我が行いの、まことのところを正直に申し上げております」
「なんとも可愛げのない奴よ。おのれは幼き頃からそうであった。小賢しいばかりのオトナコドモよ」
備後守は口髭を撫でる。
「その点、勘十郎はまことに愛い奴ぞ。おのれと似ておるのは面立ちばかり。それとて勘十郎のほうが笑みを絶やさず愛嬌があって誰にでも好かれよう」
勘十郎とは幼名を坊丸といった吉法師の弟だ。
元服して諱は信勝となった。
しかし吉法師が幼くして那古野の城主に任じられたのと異なり、いまだこの古渡の城で備後守の手元にある。
どのような考えで備後守がそうしているか、吉法師は知らない。
備後守は、にまりと口の端を歪め、いくらか顎を引いて上目遣いに吉法師を見た。
意地の悪い笑みだった。
「三郎そのほうが勘十郎より秀でておる点はなんじゃ。好き放題に婆娑羅に振る舞うそのほうより、行儀もよく愛嬌のある勘十郎のほうが、家来にも領民にも愛される、よき領主になるとは思わぬか」
「父上がそれをよき領主と思われるならば、そうしたものやもしれませぬ」
吉法師は表情を変えずに答えて言う。
備後守もまた、にやにやと陰険な笑みをそのままに、
「それはまるで、まことはおのれがよき領主であると固く信じておる口ぶりよ」
「そう思うておらねば婆娑羅の真似などいたしませぬ。我に天下の耳目を集めることが本意にございます。さすれば我が政事、また我が戦が天意に適うておるや否や、家臣領民より我に向けられる目で、おのずと計れましょう」
「家来にしろ領民にしろ、皆、そのほうの大うつけの上辺しか見ぬであろうぞ」
備後守は言った。
「天意などと大仰なことを申して、そのほうは、おのれを賢いと思い込んでおるのであろう。なれど世人がそれを認めねば、うつけの独り合点でしかないぞ」
「は……肝に銘じまする」
吉法師は頭を下げる。
備後守は、立ち上がった。
吉法師から視線を外し、広間を出て行きかけて、すぐに足を止めて言った。
「竹千代の扱いは、そのほうに任せる。婆娑羅の真似も好きにいたすがよいわ。されど、おのれの値打ちをよう考えておけ。この尾張でそのほうの命脈を握っておるのは天ではなく、この儂じゃ」
「…………」
吉法師は黙って頭を下げる。
備後守は、立ち去った。




