第七章 三河小豆坂 其ノ二(15)
天白道場を出た織田勢が、その南側の浅瀬で矢作川を越えようとするのを見て、今川勢は三手に分かれた。
真っ先に川を越えて安祥へ逃れようとする約四十騎の中に備後守当人がいると見て、これを騎乗の者およそ百五十が追撃する。
四十騎に続いて浅瀬を渡ろうとする数百の徒歩の兵には今川勢の主力、約六千が襲いかかる。
主力は織田勢を蹂躪すればそのまま浅瀬を押し渡り、小豆坂から引き返して来る織田方の先鋒を迎え撃つ算段だ。
太原崇孚の本隊も織田勢先鋒を追って来るので、挟み撃ちを狙えるわけである。
今川勢の残り約一千数百は矢作川の西岸から天白道場に火矢を射かける。
渡河を断念した織田勢が道場に引き返して立て籠もることを防ぐのと、まだ道場内に織田方の兵が残っていれば炙り出すためである。
今川方にとって想定外であったのは、三郎五郎の率いる先鋒が兵を返すのが早かったことだ。
内藤勝介が伝令として送った岩室十蔵配下の忍びの者が急を知らせる前に、すでに三郎五郎は伏勢の存在を予期して撤退を始めていたのである。
逆に小豆坂下で痛手を蒙った今川方本隊は、三郎五郎を追撃するのも慎重にならざるを得ず、狙ったような挟み撃ちとはいかなかった。
川を渡りきれなかった織田方の兵を追い散らし、今川勢の主力が浅瀬を越えようとしたところに、三郎五郎や権六ら織田勢先手の騎乗の侍衆が突っ込んだ。
「はッはッはッ! 織田三郎五郎見参! 命が惜しくば道を空けよ! 名を惜しむなら、かかって参れ!」
三郎五郎は片手で巧みに手綱を操りながら、もう一方の手で十文字槍を振り回し、今川方の士卒を蹴散らすように暴れ回る。
この様子に長巻を携えた今川方の剛勇の士と見える騎馬侍が、
「おのれ! 好き放題させてなるものか!」
と、浅瀬に踏み込み、三郎五郎に馬を寄せようとした。
長巻とは大太刀から発展した武器で、三尺ほどの刀身と、それより少し長い柄を備える。
並みの男の身の丈を超える長さであって、その半ば近くが刀身であるから重量も相当なものとなる。
よほど鍛錬しなければ扱いがたいが、振り下ろせば重みで勢いがつき、兜ごと敵の頭を断ち割るほどの凶悪な得物だ。
一方、三郎五郎の十文字槍は柄を含んだ長さが二間。
一間は六尺に相当するから長さだけなら敵の長巻よりも倍である。
ただし鋼を鍛えた穂先は一尺で、あとの柄の部分は樫の芯を割竹で包んで漆を塗ったものだ。
その構造は一般的な槍と変わらない。
だから長巻を携えた侍は、三郎五郎が十文字槍を振り回して来ても、その柄を斬り払ってしまえばよいと目論んだ。
得物の長さの違いが不利にはならないと考えたのだ。
しかし三郎五郎は槍の穂先を斜め下に向け、柄を握る手の力を緩めた。
穂先の重さで手の中で槍の柄を滑らせ、その末端──石突近くを握るかたちに槍を持ち替えたのである。
そうして槍を振り上げ、振り回して、長巻の侍が近づく前に、槍の穂先で相手の兜首を殴りつけた。
鈍い音がして相手の体が吹っ飛び、川の中に転がった。
三郎五郎は穂先を天に向け、再び槍を握る力を緩めて手の中で柄を滑らせ、適当な長さに持ち替えた。
「はッはッはッ! 槍を長く持てば敵を近づけないようにも戦えるのだ! さすがに手が疲れるし扱いづらくもなるから、あまりやらんけどな!」
胸を張る三郎五郎に権六が呆れて、
「なかなか無茶な戦いぶりでござるな」
「はッはッはッ! この程度を無茶とは言わん! このまま川を押し渡って我らで対岸に足場を築き、味方の渡河を助けるのだ!」
三郎五郎の言葉に、にやりと権六も不敵に笑う。
「なるほど、敵の数を考えれば、それは無茶な戦いぶりでござろう」
「この織田三郎五郎が大将を任されたからには、配下の士卒に手柄を立てさせるか、さもなければ次の戦の手柄のために皆を連れて戻るのだ!」
三郎五郎は、対岸の今川方の弓衆から散々に火矢を打ち込まれている天白道場を見やり、
「敵がまだ道場を火攻めしようとしているところを見ると、あれにも味方が籠もり、敵を引きつけてくれているようだ! あの者たちも連れて帰らねばなあ、権六!」
「仰せの通り」
「さあ存分に暴れてくれようぞ!」
三郎五郎と権六以下、織田方の騎乗の侍たちは、浅瀬にいる今川勢を切り崩していく。
これに対して向こう岸の今川勢は、川の中にまだ味方がいるのも構わず、三郎五郎たちを目がけて矢を射始めた。
そこに、ようやく川の東岸まで辿り着いた織田勢先鋒の残りの兵が、激しく矢を射返す。
楯を効果的に使った繰り引きに成功して、勢いに乗った兵たちである。
ここでも楯にうまく身を隠しながら対岸の今川方の弓衆を次々と射倒していく。
さらに浅瀬を渡りきった三郎五郎ら先手が今川勢に挑みかかり、突き伏せ斬り払って追い立てる。
東岸では孫三郎が兵たちに呼びかけた。
「三郎五郎様が対岸に足場を築いてくださる! 槍の衆から順に川を越えて御味方に御助勢いたせ!」
「応ッ!」
織田方の兵は次々と浅瀬を渡り、今川勢に攻めかけた。
今川方には動揺が広がる。
もともと戦意に欠ける国人衆が軍勢の半ば以上を占めていたのである。
軍師として名高い太原崇孚和尚の采配で織田勢を挟み撃ちにして楽勝するはずが、想定外の苦戦を強いられている。
腰が引けた戦いぶりになるのも仕方のないところだ。
東岸では四郎次郎と孫十郎も孫三郎とともに、味方の兵をまとめて順に川を渡るよう指図する。
「さあ次じゃ! 楯に身を隠して行け! 川を渡ったら敵に矢の雨を降らせてやるのじゃ!」
「まだ数ばかりは敵のほうが多いからのう、ここで散々に痛めつけて、我らを追って来ないようにいたさねばのう」
だが、しかし。
織田勢の優位に傾きかけた戦況を、覆したのは松平勢であった。
岡崎城下の川岸に密かに集めていた舟に兵たちが乗り込み、巧みに櫓を操って勢いをつけ、下流で川を渡ろうとしていた織田勢に向けて突進した。
もちろん浅瀬に乗り上げれば舟は止まるが、織田方の士卒を動揺させる効果はあった。
その勢いで舟から飛び降り、織田勢に斬りかかった。
数は多くない。
舟一艘に十人前後が乗っているとして、三十艘で三百人。
だが戦意は極めて高かった。
「尾張者には積年の怨みがあるんじゃ。殿サンのお許しが出て、ようやく晴らせるときが来たんじゃ」
「おう、みすみす川を渡らせて尾張に帰らせたんじゃ、三河武士の名折れじゃ」
さらに態勢を立て直した太原崇孚率いる本隊も到着して、まだ川を渡りきらずにいた弓衆中心の織田勢に襲いかかった。
槍衆を先に渡河させていたため、突撃を受けた東岸の織田勢は脆かった。
形勢は逆転した。
まだ東岸に留まっていた孫三郎に向かって、周囲の味方の兵が叫ぶ。
「我らが時を稼ぎまする! 殿はどうかお逃げくだされ!」
「ぐっ……赦せ!」
孫三郎は唇を噛み締め、川に馬を乗り入れる。
兵たちを見捨てて逃げるのは心苦しいが、このまま留まっても、ともに討たれるだけだ。
四郎次郎は、兜の目庇のすぐ下に流れ矢を受けた。
「……んぐっ! ……むぅぅぅっ……!」
四郎次郎は矢の突き立ったこめかみの辺りを押さえて、孫十郎が悲鳴のように叫ぶ。
「あ……兄者ッ!」
「だ……大丈夫じゃっ……引くぞっ……!」
四郎次郎は馬に鞭を入れ、浅瀬を越えようと進み始める。
孫十郎は周囲の兵と、逃げて行く四郎次郎を見比べるように視線を彷徨わせたが、
「孫十郎様もお逃げくだされ! 御一門衆が討たれてはならんのですぞ!」
兵たちに励まされ、孫十郎は顔を伏せ、馬に鞭をくれた。
「すまぬのう……すまぬのう!」
東岸での戦況の変化を見て、矢作川の西岸でも今川方が勢いを盛り返した。
三郎五郎や権六が今川勢の中に馬を乗り入れたところに、後方の今川方の弓衆が構わず矢を射かけた。
当然、今川方の兵も巻き込まれるが、織田方の騎乗の侍たちも、ばたばたと射倒された。
渡河を終えた織田方の槍衆にも今川方の矢が降り注ぎ、怯んだところに今川方の槍衆が突きかかる。
もとから数では織田方が劣勢であった。
もはや挽回の策はなかった。
権六が三郎五郎に呼びかけた。
「三郎五郎様、潮時のようですぞ」
「うむ! どうやら味方の皆を連れては戻れぬようだな! これは負け戦だ! だが我らの意地は見せたぞ!」
胸を張る三郎五郎の鎧には、矢が何本も突き立っているが、致命傷とはなっていない。
「権六!」
「は!」
「引き上げだ! だが次こそは勝つ!」
「……ははっ!」




