第七章 三河小豆坂 其ノ二(14)
備後守は、内藤を睨みつけた。
「岩室十蔵と繋ぎがとれぬと、それだけの理由で先手の兵を引かせよと申すか」
「はっ、岩室殿にこれまで、かような不手際はなく、また今川方の伏勢の所在が掴めぬのも案じられまする」
床几に座した備後守の前に、内藤は片膝をついて言上する。
織田勢が本陣とした、天白道場の広間である。
将領のほとんどが三郎五郎とともに出陣し、いま床几に着いているのは備後守ひとりである。
あとは警護の侍が数名、近くに立って控えている。
備後守は眉間に皺を寄せて口髭を撫でた。
「そもそも伏勢などおるかも定かでなかろう。やれ北へ向かった、いや南へ行ったと、百姓どもが曖昧なことを申しておるようだが、その百姓とは松平方の領民であろうが。どれほど信用できるのか」
「それを見定めるべく岩室十蔵殿の一党が岡崎城周辺を探っており申したが、その岩室殿と繋ぎがとれぬのでござる」
「仮に今川方が兵を伏せておるとして、その数はいくつじゃ。二千か三千か」
備後守は内藤を睨む。
「それだけの兵を集めるのは今川方とて容易いことではなかろう。国人どもの機嫌を伺いながらの戦が奴らの常ぞ」
「…………、されど……」
言い淀んでいる内藤に、備後守は眉を吊り上げた。
「なんじゃ、はっきりと申せ」
「すでに松平次郎三郎様、裏切りを決しておるといたせば、いかがでございましょう。この機会に今川方も、国人衆をこぞって動員いたすとすれば」
内藤が言うと、備後守は床几から立ち上がり、声を荒らげた。
「怖気づいたか内藤勝介ッ! 現れもせぬ敵に怯えて兵を引くくらいなら初めから出陣などせぬわッ!」
「お怒りはごもっとも。なれど、これまでの岩室十蔵殿の働きを、よくよく御勘考くださいませ」
内藤は頭を下げながら、主君の怒りを鎮めようと声音を押さえて言う。
しかし備後守は耳を貸す様子もなく喚き散らした。
「岩室十蔵が何じゃッ! 甲賀で喰い詰めて牢人いたしておったところを儂が拾い上げたのじゃッ! 松平次郎三郎が裏切るだと? むしろ遅いくらいだわ! いったん人質に出した我が子を見捨て、いまさら今川方に寝返ろうとはのう! だがそれも確かかどうかさえわからぬのであろうがッ! 次郎三郎が裏切ったという証を示せッ!」
そこに、若い侍が一人、駆け込んで来た。
「申し上げますっ! 矢作川の対岸に兵の姿がっ!」
「何だとッ!」
備後守は振り向き、怒鳴り返す。
「何処の兵かッ! 旗印は見えぬかッ! その数はッ!」
「数は七千から八千! 旗印は遠目の利く者に確かめさせておりますっ!」
若い侍が答えているところに、別の侍が駆け込んで来た。
「申し上げます! 矢作川の対岸、北西より迫る兵の旗印は二つ引両! 今川勢と心得まする!」
「い……今川だとッ……!」
備後守は内藤を振り返り、告げた。
「いますぐ兵を引く! 敵が北西より寄せて参るなら、いまのうちに南の浅瀬で矢作川を越えれば安祥までは一息じゃ!」
「お待ちくださいませ、それでは三郎五郎様以下、先手の者は」
内藤が驚いてたずねると、備後守は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「三千も兵を預けておるのじゃッ! おのれの采配でどうとでもできるであろうがッ!」
「……承知つかまつった。されば、それがしに兵を三百、お預けくださいませ」
内藤は床に両膝をつき、備後守に頭を下げた。
「大殿が矢作川を越えられる間、また先手の衆が馳せ戻るまでの間、それがし、この地に今川勢を引きつけまする」
「……任せる」
備後守は言い捨て、広間を出て行った。
それからしばらく内藤は床に膝をついたままでいたが──
やがて立ち上がり、自らに言い聞かせるように、言った。
「……さて、この内藤勝介が兵の進退巧みなるところを見せてくれようではないか」




