第一章 津島(5)
近習たちと蔵、ナツは、津島の町外れで馬を降りた。
蔵が連れて来た従者に馬を預けて、ここから先は徒歩で行く。
吉法師だけは馬に乗ったままで、十蔵が手綱を引いた。
三宅川と萩原川が合流して天王川となり、その東岸に自然に生まれた堤の上に、津島の町並みは続いている。
河岸は石を積んで板を張った船着場として整えられ、何艘もの舟が横付けされている。
文字通りの河岸である。
そこから堤へ上がるため、梯子や階段、あるいは傾斜路が随所に設けられ、荷を運ぶ人足や水夫たちが行き来する。
堤の上には船着場を見下ろす通りがあり、それに沿って商家の蔵が並び、人や荷車が盛んに出入りする。
蔵から通りをまっすぐ進もうとするものもあれば、船着場との往来で横切るものもあり、ときおり道を譲れ、いやそちらが譲れと気の荒い人足らの怒声が上がる。
しかし見るからに武家の御曹司とその家来という風体の吉法師一行には、さすがに周りが道を空ける。
河岸から見て商家の蔵の「裏」、本来は「表」の側が町の本通りで、木曾川を運ばれて来た様々な品を扱う店が並ぶ。
陶磁器、漆器、反物、筆や硯、刀剣、上方の銘酒などで、店先を眺めるだけでも物珍しく、面白いことだろう。
だが、いま蔵が吉法師を案内しているのは河岸の側である。
川を挟んで対岸、つまり天王川の西岸は天王向島と呼ばれる。
川沿いには葭が生い茂るが、その奥には木立ちや人家の屋根が見える。
下流方向には津島天王社の朱塗りの楼門も望める。
町として栄える天王川東岸から、その楼門に向けて架かる橋を天王橋という。
橋を境に上流側には美濃国との間を往来する、やや小型の舟が繋がれて、下流の側は伊勢方面へ行き来する大きな船の船着場になっているとは、以前に吉法師も聞かされている。
吉法師の馬の横に並んで歩きながら、蔵が言った。
「よろしければ吉法師殿、天王社の御祭神の牛頭天王について、ナツに教えてあげてくださいませんか」
「……姉上は、儂を試しておられるのか」
吉法師は馬上から蔵を睨む。
「津島の者であるナツが、牛頭天王について知らぬはずないであろう」
「わたくし、よくは知りませんよ」
蔵の隣を歩くナツが言って、にっこりとした。
「我が父は、女に学問など不要と言うのです。わたくしは幼い時分に母を亡くして、お裁縫や勝手仕事は乳母から仕込まれましたが、仮名の手習いは最近ようやく蔵さまから教わったばかり。ものを知らなすぎて、嫁の貰い手が見つかるか心もとないほどなのです」
「だが馬には乗れる」
吉法師が言うと、ナツは、くすくすと笑う。
「それは厩番たちに稽古してもらいました。地侍の娘が馬にも乗れなければ、本当に何もできないことになってしまいますから」
「……牛頭天王は、疫病除けの神じゃ」
ナツから視線を外すように前を向き、吉法師は言った。
「祇園精舎の守り神とも言い、本地仏は薬師如来と言い、素戔嗚命と同体とも言われる。京の祇園社の御祭神として世に知られるが、津島天王社も御師が主に東国を巡って信仰を広め、諸国の天王社の総本社を称しておる」
「…………」
ナツは、ぽかんと口を開けて吉法師の顔を見上げていたが、やがて我に返って蔵にたずねた。
「若君って、おいくつなのですか」
「当年五歳におなりです」
「殿様のお子ともなれば五歳でもこれほど賢いものなのですか。うちの弟は九歳ですが、まずここまで舌が回りません」
「吉法師殿は特別なのです」
蔵は笑って答えた。
「ですから、わたくしも吉法師殿を幼子と思わず、この津島について知る限りの全てをお伝えしています。いずれ御領主となられる吉法師殿に、津島の町をよくご理解いただきたいからです。わたくしは縁あって津島十五家の筆頭、大橋家に嫁いで参りましたが、むしろ津島の町に嫁いだものと思っております」
「蔵さまのお覚悟、ご立派です」
ナツは感動に目を潤ませて、蔵を見つめる。
「でも蔵さまご自身は、どのようにこの津島について学ばれたのですか」
「舅の入道殿がよく茶飲み話に聞かせてくださるのです。入道殿は、いにしえの津島について記された書物を集めておいでです。柴屋軒宗長殿の手記は必読書として、いまは『海道記』に津島に関する記述があると聞き、どなたか御所蔵ではないか書写させてはくださらぬかと、八方手を尽くして探しておられます」
「さいおく……どのとは、どのような方ですか」
「駿河国の生まれの連歌師で、もとは駿河今川家にて太守様の祐筆を務めておいででしたが、のちに京に上り、かの種玉庵宗祇殿の門人となりました。手記には大永六年と翌七年に津島を訪ねたことが記されて、我が祖父の霜台や、当時まだ三郎と名乗っていた父の備後守との交誼にも触れられています」
「ごめんなさい、しゅぎょくあん……という方も、わたくしは存じ上げません」
「これは失礼いたしました。連歌も言葉遊びと思えば仲間内で楽しめます。いずれナツ殿にも手ほどきいたしましょう」
「はい、楽しみにしております」
蔵とナツは笑い合う。
吉法師は、咳払いした。
「それで姉上、きょうは何について話を聞かせてくれるのじゃ」
「では、この津島湊の成り立ちについて、お話いたしましょう」
蔵は吉法師を見上げ、微笑んだ。
「この先、天王橋のもう少し下流にある、車川戸は先日ご案内いたしましたね」
「入り江のかたちに人の手で掘ったと申されたな。天王祭の車楽舟の船着場じゃと」
「はい、いにしえの津島湊は、あのような入り江が自然に形作られたものを船着場として利用したのだと言われております」
「……であるか」
吉法師は、うなずく。
道を縦横に行き交う人足や水夫、商家の奉公人らの間を、吉法師の一行は進んで行く。
河岸に繋がれた舟の上でも、荷下ろしや積み込みで皆、忙しく立ち働く。
しかし川面は穏やかに揺れて煌めいている。
よく晴れた日である。
蔵は続けた。
「ですが川は大水のたびに流れを変えて、あるいは上流から運ばれた土や砂で浅くなり、もとの湊はやがて使えなくなって、場所を移すことになります。そうしたことを繰り返すうち、かつては葭の生い茂る中洲であった天王向島が対岸と地続きになり、木曾川の本流はそのさらに西側を流れるようになりました。そして天王川の流れは緩やかとなり、東の岸が船着場として整えられたのです」
「いつ頃のことじゃ」
「さほど古くはありません。ここ百数十年のうちでしょうか」
「……であるか」
天王橋が近づいて来る。
百姓や町人、職人、それにいくらか侍たちが橋を往来している。
近隣から津島の町を訪ねたついでに天王社を参拝するのだろう。
笠をかぶった旅装の者もいて、これは天王社を目指して来た崇敬者か。
蔵が言った。
「天王川の東岸一帯が船着場となる前は、米之座と苧之座の近くに船着場があり、町場として栄えていたのもこの二つの集落でした。いま津島五ヶ村といえば米之座、堤下、今市場、筏場、下構のことで、天王祭の車楽舟はこの五ヶ村と、古くから天王社に縁のある木曾川下流の市江島とで計六艘を仕立てます。しかし天王社の古い祭礼記には米之座と苧之座が祭の主体で、舟ではなく陸を行く山車を仕立てていたとあるそうです」
「さながら祇園会の山鉾のようじゃな」
吉法師が言うと、蔵は微笑む。
「はい、京の祇園社と津島天王社は、ともに牛頭天王をお祀りしておりますから、繋がりはありそうです」
「苧之座とは麻苧を扱う座のことであろう。いま津島で麻苧の商いが盛んであるとは聞かぬが、いかなるわけじゃ」
「麻苧とも青苧とも申しますが、その原料となる苧は、よほど乾いた土地でなければどこでも育つ丈夫な草です。しかし寒冷地で特に生育がいいので、昔から越後国が産地として有名で、ほかに信濃国や甲斐国でも多く作られています。そしてこれらの諸国から京、大坂への青苧の流通を支配したのが、公家の三条西家を本所とする天王寺青苧座なのです」
「では津島の青苧は京へは売れぬな」
「はい、それでも近隣の需要はありますので、かつては津島で青苧を扱う商人たちの座が営まれていたのですが、このごろでは綿花の栽培も広まって青苧の商いを座で独占する意義は薄れました。綿と麻では風合いが異なりますから、麻の需要がなくなることはないのですが、値を吊り上げてまでは売れないのです。それゆえ、いまは集落の名前としてのみ苧之座の名が伝わっているわけです」
「……であるか」
吉法師は、うなずいて、
「奴野の城と苧之座は近いな。『ヌノヤ』という名は、布を売る店屋のことを指したのではないか」
「それはあるかもしれません。昔は布といえば、まず麻織物のことでしたから」
蔵は答えて、にっこりとする。
「奴野城が築かれたのは、後醍醐の帝の建武の御親政のときのこと。津島一帯は門真荘といって、久我家が領する荘園でしたが、その地頭職に任じられた大橋家の御先祖、三河守定昌公が本拠としたのです。鎌倉の幕府の治世では、各地に置かれた地頭は荘園を横領して領主である公家と対立する存在でしたが、建武の御親政下の地頭は領主に一定の年貢を治めるために荘園の現地で政務をおこなう代官の役割を果たしていました」
「久我家とは村上源氏の嫡流で、源氏長者に代々任ぜられた名門貴族であろう。大橋家とは、もともと繋がりがあったのか?」
「京から代官を派遣して反発を招くよりも地元の有力な武士を取り立てたほうがいいという判断でしょう。津島十五党はその当時から津島周辺では有力な地侍で、大橋家はその筆頭でした。元弘の乱では早くに宮方を支持していたようで、その褒賞の意味もあったのでしょうが」
「宮と申せば、後醍醐の帝の曾孫、良王なる御方が大橋家の養子に迎えられ、いまの当主はその子孫であるというのは、まことか」
「ええ、そう唱えてはおりますね。わたくしも、そこは気になって入道殿におたずねしましたところ、いかにもそれが家伝でござるとおっしゃいながら、笑っていらっしゃいましたが」
くすくすと笑って蔵が言い、ナツも笑って、
「世が世なら清兵衛さまは帝とは申さずとも宮様で、蔵さまはそのお妃であったわけですか。このように親しくお話しさせていただいては、いけませんでしたね」
「……であるか」
吉法師は曖昧にうなずく。
大橋家は津島では有力な一族であったから、仮に彼らが家伝を偽ったとして咎める者は周囲にいなかったであろう。
もちろん嘘ともまこととも、いまは断じられるだけの証拠がない。
蔵は話を続けた。
「それで久我家のことですが、彼らは荘園領主として、門真荘では養蚕や茶の栽培を行わせました。つまり銭に替えやすい作物というわけですが、津島に多い湿地や傾斜地で容易に育つ苧も、栽培を奨励したようです。ちなみに奴野城の東の宇治という集落では、いまでも細々と茶が作られていますが、これは銘茶の産地として知られる山城国の宇治にちなんだ地名でしょう」
「百姓たちは、いまと変わらぬものを作っておったということか」
吉法師かたずね、蔵は微笑みながらうなずく。
「そういうことです。そして建武の大乱を経て皇統が京の北朝と吉野の南朝に分かれると、久我家は北朝に従いましたが、大橋家をはじめとする津島十五党は南朝を支持しました。大橋家には後醍醐の帝により地頭に任じられた恩義がありましたが、津島十五党ともども久我家から離反して、自分たちで津島を支配しようという野心も当然あったでしょう」
「津島十五党が南朝方であったゆえ、良王についての口伝も成り立つわけか」
「そういうことてす。それからおよそ六十年を経て南北朝の合一により、津島十五党も室町の幕府に帰順したかたちとなりましたが、すでに武家の支配する世の中で、門真荘が久我家の所領に戻ることはなかったというわけです」
天王橋のたもとまで来た。
蔵が十蔵に問いかけた。
「せっかくですので天王社へお参りしたいと思います。吉法師殿には馬から下りて歩いていただくことになりますが、よろしいでしょうか」
「いかがでしょう、若君」
十蔵は馬上の吉法師にたずねる。
吉法師は、うなずいた。
「社前まで来て牛頭天王を拝まず通り過ぎることもなるまい。十蔵、手を貸せ」
もちろん吉法師ひとりでは馬から下りることもかなわないのだ。