第七章 三河小豆坂 其ノ二(8)
使番の若い侍が生田城の広間に入って来て、告げた。
「申し上げます。小豆坂下に現れた織田勢、二手に分かれ、岡崎衆と思しき三百が坂を上り始めましたが、残りの兵はそこから引き返す動きを見せております」
「なんだと」
朝比奈又太郎が眉をしかめて、床几から立ち上がった。
太原崇孚を振り返り、
「和尚、これはいかなることであろうか」
「…………」
太原崇孚は朝比奈には答えず、使番に向かって言う。
「その報告は織田勢が岡崎衆を追い立てる動きを見せていないことを意味するのである」
「はっ、いかにも三百の兵は、残りの兵に追われることも妨げられることもなく坂を上っております」
「……うむ」
太原崇孚は立ち上がった。
「拙僧が自ら岡崎衆を迎えるのである。兵たちには、いつでも打って出られるよう支度させるのである」
「されば兵たちへの指図はそれがしが」
朝比奈は一礼し、使番の侍とともに広間を出て行った。
諸将も立ち上がって、太原崇孚に一例してから朝比奈のあとを追う。
太原崇孚も、それに続いた。
本丸屋形を出て、前庭で兵たちが慌ただしく出陣準備をしている間を通り抜け、門の脇に建てられた物見櫓へ向かう。
櫓に上がって城の外を見ると、小豆坂を上がった辺りで兵の一団が留まっている。
そこから長身の侍が一人だけ離れて、城に近づいて来るのが見えた。
太原崇孚は声を張り上げ、呼びかけた。
「石川助十郎殿であるか」
「いかにも。太原崇孚和尚でござろうか」
長身の侍が足を止め、物見櫓を見上げて、叫び返す。
太原崇孚は、うなずいた。
「……である。貴殿が我らに刃を向ける意思はないとみたのである」
「いかにも。それがし石川助十郎、主君松平次郎三郎の意を受け、兵三百とともに今川様に御味方するべく参上してござる」
そう言って頭を下げた助十郎に、太原崇孚は問い返した。
「貴殿らは先刻まで織田勢とともにあったと物見より知らせを受けているのである。いかにして三百の兵が争うことなく織田勢より離れ、我がほうの味方に参じることができたのか、いささか不審なのである」
「疑念はごもっとも。されど織田勢の先手の大将、織田三郎五郎殿が我らの心根を汲み、今川様に返り忠いたすことを許すと申されたのでござる」
「織田三郎五郎、よほど度量の大きい者と見たのである」
太原崇孚は言った。
「そうでなければよほどの莫迦者としか思えぬのである。いずれにしろ敵の真意は見えたのである」
「おそれながら、三郎五郎殿の真意とは。それがし、それを見抜けず今川様への返り忠を許されたこと、ただ三郎五郎殿に感謝いたしており申した」
たずねる助十郎に、太原崇孚は答えた。
「石川殿の合力を得た我らを、この生田城から誘い出すことである。石川殿の寝返りが避けられぬと見て、かような策を立てたと見るのである。あるいはそれは後づけで、何も考えていなかったとも、もちろん考えられるのである」
「なんと」
助十郎は目を見開き、
「三郎五郎殿に左様な策がござったとは見抜けず……いやもちろん何も考えていなかったものとも思われまするが。されば和尚には、いかがなされまするか」
「敵の策に乗ってくれるのである。織田勢をこの場に足止めいたすことは、むしろ我らの望むところである」
「されば我ら岡崎衆に先陣、お申しつけくださいませ。次に相まみえる折は敵同士と、三郎五郎殿と約して参りました。我らは正々堂々、正面から三郎五郎殿にぶつかってみせまする」
助十郎の言葉に、太原崇孚はうなずいた。
「殊勝である。望み通り岡崎衆に先陣を申しつけるのである。我らもただちに出陣いたすのである」
そして物見櫓の下の味方の士卒に呼びかけた。
「出陣である!」
「応ッ!」
今川方の士卒は声を張り上げ、応じた。




