第七章 三河小豆坂 其ノ二(6)
黒ずくめの僧侶であった。
鎧の下に着けた僧衣は黒。
頭に被った観音帽子も黒だった。
しかしさすがに袈裟は金色で、手にした払子は白である。
肌は浅黒く、長身ではないが筋骨逞しい。
髭は薄いほうだが鼻の下と顎にいくらか整えている。
眼差しは鋭く、床几に腰掛けた姿は武将としか見えない。
生田城に入った今川勢の大将、太原崇孚である。
本陣とした城の広間で、今川方の諸将が居並ぶ中、床に片膝をついた一人の侍を引見している。
「まことに……残った者たちも皆、城を出ることをお許しいただけますか」
恐る恐る言った侍に、太原崇孚はうなずいた。
「うむ。すでに又四郎殿の配下、半ば以上が城を抜け出したのである。同じ三河の者に槍を向けることは、貴殿らの本意とは思わぬのである。我らは、この城を得たのみで充分である」
「は……ありがたき仰せ」
侍──石川又四郎は、深々と頭を下げて、
「されば我が同名、助十郎も今川様に刃を向けることは本意ではなかろうはず。折を見て御味方に返り忠いたしましょうゆえ、そのときには何卒、御寛恕あることを願い奉る」
「うむ。松平次郎三郎殿以下、三河衆の存念はこの太原崇孚、確かに承知いたしておるのである。嫡子、竹千代殿を見捨てることになろうとも武家の意地を通そうという御覚悟、見上げたものである。太守、治部大輔様にも奏上いたし、向後決して三河衆を粗略には扱わぬと、この太原崇孚が約束いたすものである」
「ははっ……」
又四郎は深く頭を垂れたまま涙を流す。
ぽたぽたと床に、その雫が落ちた。
居並ぶ今川方の将領の一人、朝比奈又太郎が床几から立ち上がって又四郎に歩み寄り、声をかける。
「されば石川殿、織田勢が寄せて参らぬうちに、城を落ちなされ」
「は……ありがたきお言葉。この石川又四郎、いずれこの御恩を返しに参りまする」
又四郎の言葉に、太原崇孚が答えて言った。
「その心掛けのみで充分である。次郎三郎殿をよくお支え申し上げることが、貴殿の本分と心得るのである」
「ははっ……」
又四郎は、また深く頭を下げてから、立ち上がって広間を出て行った。
朝比奈が太原崇孚にたずねた。
「行かせてよろしかったのですか。戦意に乏しい又四郎の配下も、楯の代わりにはなりましたでしょうに」
「我が今川は徳をもって国を治めるのである」
太原崇孚は答えて言った。
「徳のある今川が二百年も三百年も続く泰平の世を築くのである」
「……それは室町の公方様に成り代わって、ということでございましょうか」
朝比奈が問うと、太原崇孚は僅かに眉をひそめて咳払いして、
「天意に従うばかりのことである」
「なるほど、否定はされませんのですな」
さらに問う朝比奈に、また太原崇孚は咳払いして、
「……である」
そう言った。




