第七章 三河小豆坂 其ノ二(5)
「──どうにも嫌な予感がするのじゃがのう」
生田城に向けて進軍する織田勢主力の中段で、馬上の孫十郎信次は、いつもながらに悲観的なことを口にした。
並んで馬を進める四郎次郎信実が呆れて苦笑し、
「おまえの嫌な予感という言葉は聞き飽きたぞ。今度は何が気がかりだと申すのだ」
「石川又四郎とやらのことじゃ。いったい何が、ぼっくう小僧かと道場に戻って参った世話人の老爺に聞いてみたのじゃがのう。なんでも元服もせぬうちに人を殺めたのだそうじゃ」
孫十郎の答えに、四郎次郎は眉をひそめる。
「そりゃ、ぼっくう小僧……悪戯小僧で済む話ではないぞ」
「それが殺された側にも落ち度があって、やむにやまれぬことであろうと回りは又四郎に同情的であったそうじゃがのう。ともかく松平殿の家中におられぬようになって牢人したのち、最近になって再び召し抱えられたということなんじゃが」
「それが今度は今川方に寝返って、松平次郎三郎殿の面目は丸潰れということであろう」
「いや、それなんじゃがのう……」
言いよどむ孫十郎に、四郎次郎は笑い、
「なんだ、もったいぶらず、はっきりと申せ」
「一度は罪を問われて牢人した者が、帰参したばかりで城番など仰せつかるものであろうかと思うてのう」
「む……」
四郎次郎は険しい顔になった。
「孫十郎にしては鋭いことを申すが、確かにそうだ」
「どうなんじゃろうかのう。松平次郎三郎殿、ちぃとばかり抜けたところがあるんじゃろうかのう」
孫十郎の言葉に、四郎次郎は、また呆れて笑うしかない。
「いやいやいや、孫十郎そりゃ、おまえのほうが抜けとるぞ。珍しく鋭いところを見せたのかと思うたら」
「次郎三郎殿ではなく儂のほうが抜けとるとは、そりゃなんでかのう」
「よいか。又四郎が人を殺めた経緯にに同情の余地があったことは、次郎三郎殿も承知しておろう。その又四郎が自ら帰参を願い出たか、周りにとりなす者があったのかは知らぬが、次郎三郎殿もそれを受け入れたとしよう」
「しようも何も、実際に帰参を受け入れたわけじゃからのう」
「揚げ足はとらんでもよい。ともかく次郎三郎殿は又四郎の帰参を受け入れたが、そこに条件をつけたとしたら、いかがじゃ」
「条件とは何じゃろうかのう」
「あくまで推測でしかないが……生田城の城番となったのち、謀叛を起こして今川勢を引き入れることよ」
「そりゃあ」
孫十郎は、ぽかんと口を開けた。
「そりゃあ、まことであったとしたら大事じゃのう」
「いかにも。だがあくまで推測でしかないぞ」
四郎次郎は、黒々と生え揃った口髭を撫でる。
「次郎三郎殿は僅か三百とはいえ、こちらに援軍を寄越した。その三百が生田城攻めの先鋒を命じられることも、すぐ後ろにおる我ら尾張方に常に背中を向けておらねばならぬことも当然予期しておろう。それゆえ合戦が始まってしまえば寝返りは難しい。又四郎の離反が仕組まれたものであろうと、そうでなかろうと、今川方も生田城の守りの前面には三河の者を立たせるであろうから、助十郎の兵と又四郎の兵とで同士討ちになろうというものよ」
「では、やはり又四郎は、まことに謀叛を起こしたということかのう」
眉を八の字にして首を振る孫十郎に、四郎次郎は、ため息をついた。
「わからぬ。捨て石にするための三百かもしれぬ。我らに生田城を攻めさせておいて、次郎三郎殿の狙いは、ほかにあるのやもしれぬ。もちろん次郎三郎殿が我らを裏切ろうと考えておるとすればだが」
「こりゃあ孫三郎兄者の申された通りかもしれぬのう」
「む……?」
「信用ならない味方なら、敵と決めてかかったほうがええという話じゃ」
「確かに……」
孫十郎の言葉に四郎次郎は、深くうなずくほかはなかった。




