第七章 三河小豆坂 其ノ二(4)
天白道場のある上和田の地から、今川勢が入った生田城までの間は、小さな丘が連なっている。
丘と丘の狭間は、田が作られているか沼地となっており、その横手の丘の斜面を削るかたちで細い道が通されている。
ここで敵の奇襲を受ければ対処が難しいであろう。
そのため織田勢は物見を先行させ、また岩室十蔵の配下の忍びを付近に潜ませて慎重に進軍した。
主力の大将は三郎五郎信広として、これに三千の兵を備後守は分け与え、石川助十郎以下、岡崎からの援軍三百を同行させた。
先陣は岡崎衆に任せるようにと備後守は三郎五郎に指示した。
「万が一にも石川又四郎に呼応して今川方に寝返ることのないよう、後ろから追い立ててやるのじゃ」
「いや左様なことはございますまい! 助十郎殿とは我ら、一緒にメシを喰らうた仲ですぞ!」
破顔一笑する三郎五郎に、備後守は渋い顔をするほかない。
三郎五郎は豪傑である。
正面からの敵とのぶつかり合いでは実に頼りになる。
だが智略というものには全く欠ける。
そこで備後守は孫三郎、柴田権六ら主立った将領を三郎五郎につけて、これを補佐させた。
三郎五郎が頭を使わずに暴走しても、孫三郎なら止められるであろうし、権六もうまく宥めることができるだろう。
備後守自身は後衛として一千の兵とともに天白道場で待機して、内藤勝介を手元に残した。
また、刈谷の水野下野守には援軍の出陣を急ぐよう督促し、知多の佐治上野介には配下の水軍で渥美郡を襲撃するよう要請して今川方を牽制させた。
渥美郡を拠点とした戸田弾正が今川方によって滅ぼされたのち、弾正配下の水軍衆は一部が今川家に従ったが、多くの者は舟とともに伊勢国や紀伊国へ逃げ散った。
三河において今川方は水軍を整えきれていなかった。
今川水軍の主力は駿河にあるが、これが三河へ向かおうとするなら、途中の遠江国の沿岸でほぼ直線状の海岸が続き、波風が強い一方で避難場所となる湊や入り江が乏しい難所となるのだ。
渥美郡のすぐ北の宝飯郡には鵜殿長門守といって、早くから今川家に従った有力な領主がいる。
その先祖は熊野別当であったという縁から、熊野水軍から人と舟を招いて三河においても今川方の水軍力を強化しようと、ようやく動き始めたばかりである。
また、陸の上でも今川方は決定的な優位を築いてはいない。
駿河と遠江の二ヶ国を領する今川家だが、配下の多くは国人といって古くからそれぞれの領地に根を張る有力者だ。
先祖が鎌倉の御家人あるいは地頭であったなどという我が家の由緒を誇りにする、気難しくて面倒くさい者たちである。
その兵力を今川家は自由に使えるわけではない。
勝ちが決まった戦で恩賞で吊るのでなければ、国人衆の不満を招かない程度に、一年のうち回数を限って慎重に動員令を下さなければならない。
備後守の配下にも、平手をはじめとして父祖代々の領地を持つ地侍と呼ばれる出自の者が多いが、これは今川家中の国人衆よりも領地の規模が小さく、それゆえ備後守に抗う力は乏しい。
ほぼ完全に家来として扱われ、備後守が合戦を望めばそのたびに戦地に駆り出されるわけだ。
ただし美濃攻めで戦死した与次郎に代わって犬山城主を継いだ十郎左信清のように、口実を作って備後守からの出陣命令に従わない者も、このごろでは現れ始めている。
「我、いまだ若輩ゆえ陣代に出陣の手配りを任せていたところ、その者が急な病にて……」
というのが十郎左の申し分であるが、備後守の指図で幾度も出陣させられながら、その働きに見合った恩賞を与えられないまま与次郎が亡くなって、恩賞の沙汰もうやむやになったことが十郎左には面白くないのである。
ともかく今川方が生田城に入れた兵は約二千とされていた。
生田城自体が城といっても、一重の堀を巡らせてあるだけの屋敷のような構えである。
ただし、今川方が城の外に兵を伏せていることは充分想定されるので、備後守はそれも十蔵に探らせているが、まだはっきりしたことはつかめていない。
兵の一団が南へ向かった、いや北へ向かったという、近隣の百姓による曖昧な目撃情報だけが飛び交っているのだ。




