第七章 三河小豆坂 其ノ二(3)
その村は岡崎城の北にあり、津島天王社の御師、服部乙若大夫の檀那場となっていた。
御師たちは年に二度、それぞれの檀那場と定められた村々を回り、牛頭天王の神札を授けたり、求めに応じて祈祷をしたり、太太神楽と呼ばれる巫女舞を披露してお布施と新たな信徒を集めたりしている。
津島天王社には天王信仰の宣教師というべき御師が四十人ばかりいて、それぞれ国をまたいだ広範囲な檀那場を抱える。
乙若大夫は三河から遠江にかけてを主に回るが、ほかにも美濃や越前、越中や越後、信濃や甲斐などを回る御師がいて、天王信仰は東国を中心に広がっているのである。
乙若大夫の一行は総勢三十名であった。
うち半数は白い狩衣に立鳥帽子を着けた神職と、その見習いである。
ほかに十代半ばの巫女が四人。
それよりいくらか若い巫女見習いの少女が二人。
巫女たちの世話役の女が一人。
あとは下働きの男たちで、これを率いる乙若大夫は四十過ぎの、よく日に焼けた精悍な顔つきの男であった。
日焼けしているのはもちろん諸国を旅して回っているからで、一行のほかの男たちはもちろん、女たちも素顔は真っ黒だ。
巫女舞のときは娘たちは、それを化粧で隠している。
乙若大夫もまた信徒の前では化粧さながらに、いつもにこやかに人のよさそうな笑みを浮かべている。
一行はこれまでも何度となく訪れて来た、その村に勝手を知った様子で入った。
顔見知りの百姓夫婦が畑仕事をしているのを見かけて、乙若大夫は声をかける。
「おお、権作どんに女房どの、また御当地に寄らせてもらいましたぞ。村長の佐兵衛どのは息災かのう」
「あ……へえ」
百姓夫婦は、互いに目くばせしてから、ぎこちなくうなずく。
乙若大夫は怪訝に思ったが笑顔は崩さず、
「さて左兵衛どのには、何やら障りでもありましたかな」
「いえ、そのようなことは……ないかと思いますです、へえ」
「ふむ……まあ、訪ねてみればわかることですな。仕事の邪魔をして相すまなんだ」
「へえ……」
不審な態度の百姓夫婦をそれ以上は追求せず、乙若大夫は一行を率いて村長の屋敷へ向かった。
途中、また別の見知った百姓と行き合ったが、
「茂吉どん、久しいのう。母さまの腰の具合は、その後いかがじゃ」
「あっ、へえ……おかげさんで、へえ……」
その百姓は曖昧に笑ってみせると、そそくさと逃げるように脇道へ入って行ってしまう。
巫女たちの世話役の女が、呆れたように言った。
「みんな変な様子ですね。いつもなら大夫様を生き神様の扱いで手を合わせて拝むようにして迎えてくれるのに」
彼女は恒川久蔵の姉、ナツであった。
平野萬久入道の子息との縁談を断って以来、家族から「行かずの出戻り」と呼ばれながらも家の商売を手伝って来たが、未婚の娘をいつまでも家に置いておくのは外聞が悪いと、親の計らいで乙若大夫に預けられたのだ。
乙若大夫は津島十五党の服部家の同族だが、天王社の神事に専念している家の者である。
服部小平太や小藤太とは遠い親戚ということになる。
その乙若大夫は眉をひそめて、
「岡崎の松平様の御家来に謀叛を起こした者があり、いま織田備後守様も岡崎の南の上和田まで御出陣なされておるとは聞いたが、それと村人たちの不審な態度が結びつかぬ。松平様から今回の布教のお許しを頂戴したのは謀叛の騒ぎの前だが、そもそも牛頭天王の御加護には敵も味方もない。松平様が織田様と敵対していた間でさえ、毎年布教のお許しはいただいていたのだ」
「まあ、村長さんに会えば事情はわかるでしょう。この村も貴重な檀那場です。今回は駿河まで足を伸ばして牛頭天王の御利益を広める計画ですから、ここで一稼ぎしておかないといけませんものね」
にっこりと笑うナツに、乙若大夫は苦笑して、
「稼ぐなどと申すでない。我らは檀那方のお気持ちを頂戴しておるのみだ」
村長の屋敷は村の中心近くにあった。
大きな茅葺屋根を備え、庭も広くて納屋と牛舎がある。
牛は田起こしや、年貢米を岡崎城へ運ぶ際の大事な労働力だ。
そのほかにも様々な力仕事のために牛を借り受けに来る者がおり、また村長の佐兵衛自身、なかなかに人望があるので様々な相談事を持ち込む者がいて、普段なら屋敷に人の出入りは多い。
それが、いまは奇妙なほどに静まり返っていた。
ときどき牛の鳴き声が聞こえてくるばかりだ。
乙若大夫もナツも眉をひそめた。
「こりゃあ、いよいよ奇態と申すほかないぞ」
「ええ、おかしな感じです」
若い巫女たちも不安に感じているのか、恐る恐るナツに向かって、
「お姉さま、もしや、どこかの軍勢がもう近くまで来ているのでしょうか」
「そうだとすれば村人たちも逃げているはずです。そうしていないのは、ほかに事情があるのでしょう」
ナツは答えて、にっこりと笑顔を少女たちに向けた。
「大丈夫です。わたくしたちは牛頭天王様に奉仕する者。誰もわたくしたちに無体な真似などできません。疫病に襲われたいとでも思っていなければ」
「ナツの申す通りだ。我ら津島の御師に狼藉などは……む?」
言いかけた乙若大夫が険しい顔になった。
村長の屋敷の母屋や納屋、さらには牛舎から槍を手にした兵たちが、わらわらと出た来たのだ。
「これはいかなる仕儀か! 我は津島天王社の御師、服部乙若大夫である!」
乙若大夫は笑みを引っ込め、兵たちを大喝した。
「岡崎の御城主、松平次郎三郎様のお許しをいただき当村に牛頭天王の御加護を頒かち与えに参った者ぞ!」
「されば御城主様のお指図により詮議の儀がござる! 神妙になされよ!」
兵たちに続いて母屋から出て来た甲冑姿の侍が、答えて言った。
おどおどした様子の村長の佐兵衛を伴っている。
乙若大夫は左兵衛に向かい、笑みを作ることもせず厳しく問うた。
「左兵衛どの、これはいかなることか」
「いえ、わたくしにも岡崎の殿様のお指図としかわからず、何が何やら……へえ」
左兵衛は、ぺこぺこと頭を下げるばかりだ。
その間に槍を手にした兵たちは、御師の一行を取り囲んだ。
兵の数は四十ばかりで乙若大夫たちより少し多いだけだが、御師の側は女も含んでいるし、兵たちは槍を手に武装している。
乙若大夫たちには抵抗のしようもない。
「きゃあっ」「お姉さまっ」「こわい……」
巫女の娘たちは怯えた様子でナツにすがりついた。
ナツは少女たちの背を撫でて宥める。
「大丈夫、大丈夫だから、大夫様にお任せしておけば」
乙若大夫は侍を睨みつけた。
「貴殿の上役はどなたか。御城主様のお指図と申されるが、貴殿が直接その命を受けたわけではあるまい。この服部乙若大夫は御当家の御重役、酒井様も檀那といたしておる。不埒の儀があれば貴殿に咎が及ぼうぞ」
「……さて、それはいかがかな」
嗄れた声で言いながら、また別の人物が母屋から出て来た。
鼠色の小袖と袴という平服姿で、腰に刀だけ差しており、防具は着けていない。
もじゃもじゃと癖のある口髭と顎髭を生やした初老の男だ。
目を細め、口の端に薄笑いを浮かべ、もったいぶるように大きく肩を揺らしながら、乙若大夫のほうへ歩いて来る。
乙若大夫は眉をしかめて問うた。
「貴殿は?」
「服部半三」
答えた男に、乙若大夫は「ほう」と目を見開く。
「それがしも服部と申すゆえ、御同名でござる」
「さて、服部とは服部連に始まる古い氏族ゆえ、その裔を名乗る家も数多ござろう」
薄笑いのまま答える男に、乙若大夫はうなずくほかはない。
「それも正論でござるな」
服部半三といえば、当代の松平次郎三郎の父である先代次郎三郎、諱を清康が伊賀から招いた忍びの頭領ということは知れ渡っている。
半三当人も忍びの技を身に着けているが、あくまで立場は頭領であるから、実際に敵地に潜伏するような忍びの務めは配下の者に行わせる。
だから半三自身は名前や顔が世間に知られていても、さほど困らない。
むしろ自身に注意を惹きつけることで、敵方の間者の動きをいくらか牽制できる。
敵が松平家に対して、秘密を探り出そうとしたり謀略を行おうとする場合、まず松平方の「有名な忍者」である服部半三の動静を無視するわけにいかないからだ。
しかし、その半三がなぜこの場に現れたのか、乙若大夫には理由がわからない。
「されば半三殿。牛頭天王の御使いたる我らに対しての詮議とは、いかなるものでござろうか」
「さて、この一、二年の内に雇い入れた者が、乙若大夫殿の配下におろう」
半三の言葉に、ナツは自分の顔を指差した。
「え……わたくし?」
「お姉さま?」「そういえばお姉さまは、わたくしたちの一行に加わって、まだ一年たちません……」
巫女の少女たちも、ナツの顔を見る。
半三は薄笑いのまま咳払いして、
「いや、その者ではない。その者は津島の恒川家の娘と素性が知れておる」
「え? 逆になんでそれが知られているのですか? わたくし、そんなに有名人?」
自分の顔を指差したままたずねるナツに、半三は僅かに眉をひそめ、また咳払いして、
「むしろ怪しむべきところのない、その余の者として物の数から除いておる」
「わあひどい、その余の者って、その他大勢ってことでしょう。いちおう名前も台詞もあるのに村人その一の扱いって」
「……何を申しておるかは知らぬが、ともかくそのほうは詮議の対象ではない」
半三は渋い顔になって言った。
そして乙若大夫に向かい、
「いかがかな。御師殿にも面子がござろうゆえ、配下の者を差し出せとは申さぬ。されど一両日は一行の者全て、この村長の佐兵衛の屋敷内に留まってもらおう。されば焦れた鼠が自ら籠を抜け出そうとするであろうから、そのときは遠慮なく仕置きをいたす」
「なるほど、我が配下に敵の間者が素性を偽り潜り込んでいると、そう申されるか」
乙若大夫は、うなずいた。
「しかしそうであるなら、いよいよ解せぬ。牛頭天王の御利益に武家の敵方も御味方もないが、我が津島は織田備後守様の御領内ではある。しかしその織田様と岡崎の松平様は、いまは御味方同士ではないか。それをなぜ、敵国の者のように我ら一行の者全てを兵で取り囲むのか」
「間者を逃さぬためよ」
半三は薄笑いに戻って答える。
乙若大夫は、やれやれと言いたげに首を振った。
「是非もない。されば指図に従おう」
左兵衛に向かって、
「そういう話のようだ。しばらく厄介になりますぞ、左兵衛どの」
「へえ、へえ、お世話は充分にさせていただきますです、へえ」
左兵衛はまた、ぺこぺこと頭を下げる。
乙若大夫は配下の者たちに呼びかけた。
「聞いての通りだ。まことに我が配下に間者が紛れ込んでおるのかは知らぬが、この屋敷から抜け出す者があれば成敗すると服部半三殿が申されておる。皆、しばらく大人しくすることが賢明であろう」
「御理解いただけたようで何よりだ」
半三は言うと、侍に顎でしゃくって指図する。
侍は「はっ」と一礼して、兵たちに手を振って合図した。
兵たちのうち、母屋の入口を塞ぐ位置に立っていた者が、ささっと引き下がる。
佐兵衛が先に立って、乙若大夫たちを案内した。
「へえ、されば大夫様、どうぞ我が屋敷へ、へえ」
「うむ。世話になりますぞ」
槍を手にした兵たちの見張りを受けながら、乙若大夫とその一行は屋敷の母屋へ入った。
母屋の土間では佐兵衛の女房と使用人たちが気遣わしげな顔で控えていたが、一行の姿を見て、ぱっと表情を明るくした。
「あらあら大夫様! ようこそ御無事で……御無事ですよね?」
たずねる佐兵衛の女房に、乙若大夫は、にこやかな笑顔になって答える。
「おう無事でござるとも。牛頭天王の御使いである我らには御武家といえども手出しはできぬぞよ」
「まあ、それならようございました。ささ、皆様、まずは足をすすいでいただいて」
女房の明るい声に、御師の一行も、どっと緊張がほぐれた様子だ。
顔見知りの使用人たちと和気藹藹と雑談を始めながら、草鞋を脱いだり荷物を下ろしたりする。
ナツは乙若大夫のそばへ行き、声をひそめて言った。
「あの服部半三って人、わたしたちを敵方の者のように扱うなんて、本当に解せないじゃありませんか」
「これこれ、半三殿にも申したことだが、牛頭天王の御利益に武家の敵方も御味方もないのだぞ」
乙若大夫は笑顔で答えてから、これも声をひそめてナツの耳元で、
「それは追求せぬほうが賢明だぞ。松平次郎三郎殿、もはや織田備後守様の御味方でおるつもりがないのやもしれぬ」
「ええっ? それなら織田様にお知らせしないと」
目を丸くするナツに、乙若大夫は眉をひそめて、
「どのように? それをさせぬために兵たちが我らを見張っておるのだ」
「え……でも、だって」
困惑するナツを宥めるように、乙若大夫は優しく言い聞かせた。
「よいか。我らは牛頭天王にお仕えする者であり、武家に対しては敵も味方もないのだ。織田様の御家中にも松平様の御家中にも我が津島天王社の檀那はおられる」
「そうですけど……でも松平様が本当に織田様を裏切るおつもりとしても、わたしたちをこの村に足止めしたのはなぜでしょう。織田様の陣所は岡崎城よりも南だそうですから、奇襲と言うのですか? 岡崎から急に襲いかかるつもりなら、お城の北にあるこの村は関係ないでしょう?」
「それはわからぬ。いずれにしろ我らがなすべきことは、ないであろう」
乙若大夫は、やれやれと首を振り、言った。




