第六章 三河小豆坂(10)
吉法師の一行は那古野城へ引き上げるため、熱田の町を抜けて行く。
行きと違って吉法師は前を向いて馬に跨がり、手綱を握る両腕の間に竹千代が収まっている。
図書助の屋敷で馬をもう一頭借りて、こちらは阿部徳千代を一人で乗せて、天野又五郎という者が手綱を牽いた。
又五郎は十一歳で、三河から徳千代とともに竹千代に従って来た近習である。
まだ幼いながらに眉が黒々と太く、きりりと締まった顔つきだが、その面構えにふさわしく強情だ。
吉法師一座の踊り興行の間は、観客のほとんどが女たちであるからと同席を遠慮して、図書助屋敷の奉公人と一緒に物陰に控えていたというが、
「ではそのほうも甲賀者どもに当て身でも喰らうて、ほかの奉公人ともども眠らされておったのか」
竹千代がそう言うと、又五郎は黒くて太い眉を吊り上げて、
「いえ、そのようなことはございませぬ」
「ではなぜ儂が、者ども出合えと呼びかけたときに現れなんだ」
「聞こえませなんだ。あ、いえ、それがしは門の辺りにおりましたので庭での変事に気づかず、申し訳のない次第にございました」
「主人の儂が座敷におったのに、そこから遠い門の辺りに控えておったのか」
「いかにも。踊りの一座が敵方の者であれば、門の外から後詰めが現れるやもしれぬと案じておりました」
「この強情者め。儂の身に害が及んだわけでもなく、今回は相手が上手であったばかりで恥じることはないのじゃ。甲賀者に、してやられたと素直に認めい」
「それがし門の辺りにおりまして甲賀者など目にしておりませぬ」
言い出したら聞かないのが、又五郎という者らしい。
吉法師が竹千代を馬に同乗させようとしたときにも、家来である自分が手綱を握って竹千代を乗せると又五郎は強硬に主張して、
「いい加減にしろよな。オマケなんか人質のオマケだってコト、わきまえろ」
と、勝千代から脳天に拳骨を喰らわされて涙目になっていた。
一方、徳千代は竹千代より一つ上の七歳だが背格好が主人と変わらず、にこにこと朗らかな笑顔も普段の竹千代とよく似ている。
いざというときに主人の身代わりを務めることを期待されているのだろう。
強情な又五郎が勝千代に鉄拳制裁されたのを見て「おやおや又五郎どの、痛そうでございますねえ」などと言って、変わらずにこにこしているので、なかなか肝も太いようである。
一行を先導するのは行きと同じく小平太と小藤太で、これに犬千代、小十蔵と久蔵が続く。
中段は吉法師と竹千代が乗る馬と、徳千代を乗せて又五郎が牽く馬だ。
勝千代、万千代、それに滝川八郎と猫十が後衛となっていた。
八郎と猫十は一仕事やり終えて緊張が解けたような顔をしているが、実のところは全く周囲への警戒を絶やしていない。
熱田の町には今川方や松平方の間者が入り込んでいるのは確実で、彼らは先ほど吉法師から差し遣わされたという女踊りの一座が加藤図書助の屋敷を訪れた一件を目にしていよう。
その一座の者が、幼い御曹司を連れて図書助屋敷から引き上げて行くのである。
御曹司が松平竹千代である可能性を間者どもは当然考えるであろうし、隙あればその身を奪い取るか、あるいは命そのものを奪おうと目論むこともあろう。
夜通し賑やかな宿場町をそぞろ歩きしていた人々は、白拍子姿の美女が凛々しい御曹司を懐に抱いて馬に乗る姿に、思わず見惚れている。
つまりそれだけ吉法師と竹千代に周囲の視線が集まっているのだが、その数多の視線のいずれかに害意が込められていまいか見極めるのは、忍びの技を身に着けた八郎や猫十にとっても難事である。
図書助の屋敷からの出発前に、八郎は吉法師に向かって言った。
「帰りは竹千代様も伴いますゆえ、もそっと目立たぬように参りませぬか……と申し上げても、無理でしょうなあ」
「うむ。我らに害をなす者が現れることを案じておるなら心配いらぬ。儂は、そのほうどもが手練であると承知しておるゆえ、曲事があれば、いかように取り計らうかは全て任せるぞ」
吉法師の返答に、八郎は苦笑いするしかない。
「全てを任せると仰せであれば、そもそも目立たぬようにしていただきたいのです」
「現れるかどうかもわからぬ曲者のために、それは無理じゃ。きょうより儂は、織田吉法師ここにありと尾張中の者どもに示すことにいたしたゆえ」
「それはいかなる御存念で」
穏やかにたずねる八郎は、白髪交じりの髪をした小柄な男である。
子息の久助が大きな体に愛嬌のある笑顔が備わった、なかなか目を惹く容姿であるのとは似ていない
平手と一緒に米や銭の勘定をしているか、村井吉兵衛や島田所之助の下で右筆でもしているのが似合いそうな、至って地味な印象である。
しかしこれが元は近江国甲賀郡の一城の主であり、数十人の忍びの者を束ねる頭領をしていたという。
「それが合うておりませなんだゆえ城を失い、この尾張へ流れて来て霜台様に拾われたのでございます」
本人はそう笑うばかりであるのだが。
吉法師は、その八郎に告げた。
「皆が儂を奇矯と笑おうが、婆娑羅と眉をひそめようが構わぬ。儂のなすことに世の者どもの耳目を、まずは集めてくれよう。その上で皆に計らせるのじゃ。果たして儂の政事が天道に叶うておるのかと」
「人は殿の上辺ばかりしか見ぬやもしれませぬぞ」
「それで構わぬ。儂の、まことが伝わらぬのは、儂が力不足であるばかりのことよ」
しかし、八郎にはそう言ったが。
本当のところ吉法師は、婆娑羅な振る舞いで人の注目を集めることを楽しんでもいる。
その懐に抱かれている竹千代は居心地が悪そうに身じろぎして、問うた。
「皆が、おのれを見ておるぞ。女子に化けたその姿を見せつけるのが心地よいのか」
「うむ。姿はどうあれ人の耳目を集めるのは悪い気はせぬ。いにしえの婆娑羅者どもの心持ちが、ようわかるわ」
答える吉法師に、竹千代は首を振り、
「そうではなく、おのれは女子がごとく人から扱われたいのかと、儂は問うておる」
「女子がごとく扱われるとは、いかなる意味か」
「有り体に申せば、閨で女子がように男子に抱かれることよ」
「ひねたことを申す。そのような話を何処で覚えたか」
「質となる身じゃ。いかなる扱いをされるやも知れぬゆえ心構えいたしておけと教えられて参った。年若い男子が女子の代わりとして、ほかの男子に抱かれることもあるのじゃと。常なら双方が合意していたすことじゃが、辱めを与えるため無理強いすることとてあろうとな」
「竹千代の父、次郎三郎はそこまでのことを幼き我が子に教えたか」
「父上ご自身ではなく、その指図を受けた家人の半三と申す者から教えられたことじゃが」
「ふむ。服部半三であるか」
うなずく吉法師に、竹千代は問い返す。
「知っておるのか」
「竹千代の祖父の先代次郎三郎が召し寄せたという伊賀者の頭領であろう」
「うむ。命を奪われることとなった折に、なるべく苦しまず早くに逝ぬる死に方も教えられて来たわ」
「次郎三郎は、そこまで我が父、備後守を疑うか。次郎三郎が味方でおる限りは無体な真似をいたすわけなかろう」
「では味方でなくなれば、いくらでも非道なことをいたそうというのじゃな。儂は痛いのは嫌いじゃが、備後守が酷いことをすればするほど、質を見捨てた父上ではなく備後守に世の誹りが向かうであろうから、刑場ではせいぜい哀れっぽく泣き叫んでみせようぞ」
「竹千代を左様な目に遭わさぬために、儂が身柄を預かることにいたしたのじゃ」
「それはいかなるわけじゃ。先ほどから竹千代、竹千代と気安く呼んでくれるし、よもや、おのれはやはり女子がごとき性根で儂に色目を使うておるのか」
「儂が女子であったとして、いまの竹千代がごとき生意気盛りの小童など男子の数に入れるわけもない」
「では誰になら抱かれてみてもよい。よき声で謡うておった、あの若衆か。あるいは前を行く、あのむさ苦しき髭面どもか」
「うむ。考えてはみたが、いずれも怖気がつくのう。儂は左様に抱かれることなど心底から望んでおらぬのであろう」
「考えてはみたのか。女子のごとく男子に抱かれる我が身を」
「考えてみねば是非も定まらぬ。あるいは他化自在天がごとく、女子にも老爺にも坊主や百姓、商人にも自在に変化できるなら、天道がいずれにあるや容易に見出だせようが」
「あの備後守の倅が天道などと申すか」
「父は父、儂は儂じゃ。一時の栄華を極めようが天意にそぐわぬ者は、いずれ没落いたすのよ。儂は左様な浅ましき末路を辿るつもりはない」
「備後守は、いずれ没落いたすのか」
「そうなる前に、儂が一家の主となってくれよう」
「備後守が浅ましく当主の座にしがみついたら、いかがじゃ。力づくでもその座を奪うつもりか」
「是非もなければ、それも致し方なかろう」
「いざともなれば父への謀叛も考えておるわけか。この儂に向かい、左様なことまで語ってよいのか。備後守の父子不和の噂が世に広まれば、おのれらに我が松平がつけ入る隙が生まれようぞ」
「……であるか」
吉法師は口元を綻ばせ、懐の内の幼子に呼びかける。
「竹千代」
「なんじゃ。気安く呼びすぎじゃぞ」
「誰を敵として、誰を味方といたすかは、よく勘考いたせ。儂は加藤図書助を我に歯向かう憎き奴と思うていたが、質として預かった竹千代を、図書助の母や妻が親身になって遇しておったのを見れば、図書助当人も性根が悪しき者ではないと知った」
「図書助は、よき者だぞ。我が家のため、また熱田の宮と町のため、いまは備後守に従うておるばかりのことよ」
「うむ。されば、この儂も竹千代の、よき味方であるやもしれぬ。いや儂自身はそのつもりでおるゆえ、よく考えておくことじゃ」
「……であるか」
竹千代は吉法師の口調を真似て、言ってみせた。




