第六章 三河小豆坂(9)
ざらざらと、小豆を研ぐような音がした。
橋掛かりから、黒色尉の面を着けた野良着姿の男が現れた。
左手に小豆を入れた笊を抱え、右手でそれを掻き回している。
黒色尉は黒々と日に焼けて、歯は抜けてまばらになった田舎翁の面である。
剽軽な見た目だが本来は豊穣祈願の神事に使われるもので、精進潔斎をした上で着けることとされている。
しかし、ここでは黒色尉に似せて作った模造品という建前だ。
演じているのは久蔵で、大仰かつ滑稽に小豆を研ぐ仕草を真似ながら軽やかに踊り、観客の笑いを誘っている。
万千代が謡い始めた。
朝粥のォ
ァ朝粥のォ
駿河、廬原
朝に粥煮て
小豆 胴割れ
坂 転げ
観客が少しざわついた。
侍女たちが首をかしげて、
「これはどういったお話でしょう?」
「廬原と申しますのは、庵原郡の昔の呼び名ですわね」
「小正月の朝のお話かしら。小豆粥は小正月にいただきますもの」
「でも坂を転げるというのは何のことでしょう?」
吉法師は床に倒れ伏したまま、顔にかかった被衣と髪の下から秘かに客席の様子を窺う。
どうやら隼人佐は歌詞の意味に気づいたようで、困っているように眉を八の字にしながら、ちらちらと竹千代に目をやっていた。
その竹千代は、滑稽に踊る黒色尉ではなく、床に伏したままの吉法師に視線を向けたまま、口元には面白がるような笑みを浮かべている。
吉法師は感心した。
(ほう……竹千代もまた、この謡いの意味するところを察したか。六歳にしては聡いようじゃ。もし我が味方とできぬのであれば、花咲く前に芽を摘んでしまうのも一策であろうか……)
駿河、廬原
朝に粥煮て
小豆 胴割れ
坂 転げ
万千代が繰り返し謡っていると、橋掛かりから僧侶が登場した。
しかし現実にはあり得ない、真っ黒な姿であった。
僧衣が黒いのはともかく、頭に被った観音帽子も黒、手にした払子も黒、袈裟までもが黒である。
俊寛の面を着けて、これを演じるのは勝千代だ。
俊寛は平家打倒の陰謀に加担して島流しとなった僧侶であり、世阿弥によってそのまま『俊寛』と題する能の主人公とされた。
二人の同志とともに鬼界ヶ島に流された俊寛は、同志が赦免を得て帰京を許されたのに、ただ一人、島に取り残されて悲嘆に暮れるのだ。
面相はその絶望を表したものだが、この舞台では「罪を犯した悪僧」という役回りで用いられている。
黒ずくめの僧が足を早め、払子を剣のように振り上げて舞台中央の美女に迫った。
入れ替わるように黒色尉は舞台の隅の暗がりへ下がり、その場に控える。
身を起こした美女は、黒坊主が振り下ろした払子を、ひらりと躱した。
黒坊主がまた払子で打ちかかり、美女が身を躱す。
二度、三度とそれを繰り返すうち、黒坊主が払子を振り下ろした勢いで前のめりになる。
その隙を見て、美女は足元の槍を拾い上げると振り向きざま、再び払子で打ちかかって来た黒坊主を一突きに仕留めた。
黒坊主は苦悶する仕草ののち、ばたりと倒れ伏す。
美女は観客に向き直り、槍の石突で、どんと床を突いた。
再び黒色尉が前に進み出て、小豆を研ぐ真似をしながら軽やかな足取りで美女の周りを回る。
万千代が詠じた。
庵にあればァ
鉢盛る粥をォ
征旅ィ
坂を枕にィ
喰わず散りけむゥ
侍女たちが、またざわついた。
「お坊様が戦に出ていらっしゃいますの?」
「太原崇孚和尚のことかしら。そういえば御実家は庵原様とおっしゃったはず」
「ええ、駿河の旧家で、今川様の御重臣でしたわ」
「ですから朝粥でしたのね。禅宗のお坊様は粥座といって、毎朝お粥を召し上がられますもの」
「でも流石に毎朝、小豆粥ではないでしょう」
万千代は繰り返し詠じている。
庵にあればァ
鉢盛る粥をォ
征旅ィ
坂を枕にィ
喰わず散りけむゥ
坂を枕にィ
喰わず散りけむゥ……
すくっと、竹千代が立ち上がった。
図書助の母が驚いたように、竹千代を諭す。
「竹千代様、謡いが終わるまで、もうしばらくお待ちくださいませ」
「いえ、これで終わりでしょう」
竹千代は図書助の母に微笑み返すと、吉法師に向かって呼びかけた。
「見事な舞いであった。褒美をとらすゆえ、こちらへ参れ」
「…………」
万千代が謡いをやめ、吉法師は無言のまま竹千代に頭を下げた。
言葉を発すれば声で男と知られてしまうからである。
吉法師は槍を久蔵に預けたると、舞台の前面の階が池の岸までのびていたので、そこから庭へ下りた。
そして、しずしずと女らしい小股で座敷へ近づき、濡縁の前で地に片膝をついた。
竹千代は濡縁まで下りて、吉法師に呼びかける。
「苦しゅうない。面を上げよ」
「…………」
吉法師は無言のまま顔を上げ、被衣越しに竹千代を見上げた。
竹千代は微笑みを返して、吉法師に告げた。
「くれてやる褒美は、この儂の命じゃと申したら、いかがする」
「…………」
吉法師は答えず、じっと竹千代を見つめ返す。
隼人佐が顔をひきつらせ、「は、はは、は……」と、わざとらしく笑い声を上げて、
「竹千代様、お戯れを申されますな。娘が困っておりましょう」
「この者は娘などではない。男子じゃ」
竹千代は笑顔で言った。
じっと視線は吉法師と合わせたままで、
「女子というものは、もそっと腰回りの肉置きが豊かなのじゃ」
「まあ」
図書助の母と妻が目を丸くして、顔を見合わせる。
竹千代は吉法師に告げた。
「初めは今川の間者か、父上がお遣わしくだされた伊賀者かと思うた。いずれであれ、儂のこの命を奪うてくれるなら、ありがたいと思うたのよ。我が身が織田備後守の手中にある限り、父上は備後守めに従い続けねばならぬ。いったん質として差し出した我が子を見捨て、離反いたしたという汚名は避けたいであろうゆえ」
「…………」
吉法師は、なおも答えない。ただ竹千代を見つめ続ける。
竹千代は微笑みのまま、言葉を続けた。
「儂が虜囚の身のまま果てれば、それが病によろうが、何者かの手にかかったのであろうが、父上は備後守の軛から逃れられるのよ。しかし、小豆坂とはのう。それは儂が生まれた年、天文十一年に、備後守が太原崇孚和尚を打ち破ったと称しておる戦のことであろう。その名を出して、和尚を嘲るように謡うておったからには、そのほうたちは今川の手の者ではないな。では、いったい何者じゃ?」
「…………」
沈黙を続ける吉法師に、竹千代は僅かに眉をひそめ、首を振った。
「答えぬのか。では仕方ないのう」
すっと息を吸い込み、大きな声で呼ばわった。
「者ども、曲者じゃ! 出合え出合え!」
「「応ッ!!」」
物陰から声が上がり、六尺棒を手にした奉公人らしい男が二人、進み出て来た。
だが、たったの二人である。
しかも小柄で、一人は完全に白髪の老人であり、いま一人も白髪交じりの年配の男だった。
竹千代が丸い目を見開いて、隼人佐を振り返った。
「隼人佐殿、この者どもは、ここの屋敷の奉公人か? ほかにもっと若い者どもが、おらなんだか?」
「いやあ……」
隼人佐は苦笑いで首を振ってから、吉法師に呼びかけた。
「さすがに悪戯が過ぎましょうぞ、吉法師様」
「……であるか」
吉法師は答え、立ち上がった。
侍女たちが驚きの声を上げる。
「え? 吉法師様……那古野のお殿様?」
「うそ、だって本当に美しい女人としか思えなかったのに」
「竹千代様は腰回りが女と違うとおっしゃっていたけど、そんなの気づかなかったし……」
図書助の母と妻、それに隼人佐の妻も、顔を見合わせて、
「こんなことが、あるものでしょうか」
「とにかく、ご挨拶申し上げなくては」
「……ははーっ」
婦人たちは茵から下り、吉法師に向かって平伏した。
図書助の二人の息子と、侍女たちもそれに倣った。
吉法師は、隼人佐にたずねた。
「いつから我が我であると気づいておった」
「いつからも何も、最初からでございます」
隼人佐は笑って答える。
「わたくしが吉法師様に直接お声がけさせていただいた機会は多くはございませぬが、お姿はよく熱田の町で拝見いたしております。凛々しい若殿が童形のままでおられるのですから目を惹かれるのでございますよ。その若殿と瓜二つの女人が、那古野の殿様に差し遣わされた踊りの衆と申されて、竹千代様を訪ねて来られたのです。何やら仔細があってお忍びでのお訪ねかとは存じました。そうでなければ、いくら吉法師様から差し遣わされた者でも、遊芸の衆を表門から招き入れたりはいたしません」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
隼人佐は苦笑いになり、
「……それで、この屋敷の奉公人たちは、いかなることになったのでしょう」
「相すまぬとは思うたが、しばらく眠っていてもらうことにいたした。その二人は、我が配下の滝川八郎と、その家人の猫十と申す者じゃ」
吉法師が答えて言うと、年配の男──八郎と、白髪の老人──猫十は、隼人佐に一礼する。
竹千代は、どすっとその場に腰を下ろした。
「なんじゃ、つまらぬ」
胡座をかいて腕組みをし、年相応に子供っぽい、ふくれ面をしてみせる。
「備後守の嫡子の吉法師とやらと、この屋敷の加藤図書助殿が、儂の身柄をどちらが預かるかで諍いになっておるとは聞いたが、いずれにせよ我が命を奪いに来たわけではないのじゃな。所詮は備後守家中の内輪の争いか」
「死のうと望んでおるのか」
たずねる吉法師を、竹千代は睨み上げる。
「先ほども申したであろう。我が身が織田備後守の手中にある限り、父上は意に反して備後守めに従い続けねばならぬのじゃ」
「ふむ。では望み通り、その命を奪うてくれよう」
吉法師は八郎に向けて、手を差し出した。
八郎は吉法師に頭を下げ、たずねる。
「恐れながら、懐剣でよろしゅうございまするか」
「いや、その六尺棒を寄越せ。強情な小僧が死んで反省するまで打ち据えてくれよう」
「待て」
竹千代は吉法師を睨みつける。
「儂は死を望んでおるが、痛いのは嫌いじゃ。儂のように幼き者を嬲り殺しにいたそうなど、おのれは鬼か。僅かでも慈悲の心はないのか」
「鬼などとは、つまらぬ呼び名じゃ。どうせなら魔王とでも呼ぶがよい」
「なるほど他化自在天というわけじゃな。女人にも化けるわけじゃ」
「ふむ。その呼び名は少し気に入った」
吉法師は口の端を僅かに綻ばせた。
「松平竹千代。儂は、おぬしを見込んでおるのじゃ。いずれ、我が妹の誰でもよい、おぬしが望む者を娶せてやるゆえ、我が身内となって儂と手を結べ」
「その妹どもは、おのれと似ておるのか」
「兄の儂から見て似ておるかどうかは何とも言えぬ。されど家中の者は、我が妹たちを美形とは申す」
「では断る。いくら美形であろうがその顔を見るたびに、兄であるおのれが女人に化けた姿を思い出すことになるのは御免蒙る」
口をとがらせて言う竹千代に、吉法師は、さらに唇の端を吊り上げた。
「……であるか」
「であるのじゃ。まあよいわ」
竹千代は立ち上がると、ふっと生意気顔を引っ込めて、もとのような微笑みに戻った。
図書助の母と妻、隼人佐の妻たちに向き直り、頭を下げた。
「加藤の祖母様、母様、それに叔母上様。きょうまで大変お世話になりました」
「いえ……いえ、こちらこそ御不便な思いをさせてしまったものと存じます。誠に申し訳ございません」
婦人たちは竹千代に平伏し、図書助の息子と侍女たちも再びそれに倣う。
竹千代は、隼人佐に向かっても言った。
「隼人佐殿、大変お世話になり申した。図書助殿にも質である我が身に過分なほどの御心遣いをいただき、竹千代、心より感謝しておりますことをお伝えくだされ」
「ありがたいお言葉、必ず図書助に申し伝えまする」
隼人佐は頭を下げる。
竹千代は、吉法師に向き直った。
「されば、かような猿芝居まで演じてみせた、おのれの思いのままになってくれようではないか。どこへともなりと儂を連れて行くがよいぞ」
「うむ。悪いようにはせぬ。ついて参るがよい」
鷹揚にうなずいた吉法師に、竹千代は笑みを引っ込め、眉をひそめて告げた。
「だが一つ申しておきたいことがある」
「ふむ。なんなりと申すがよい」
「さきほどの謡いの文句、あれは何じゃ。誰が作ったものか」
「……む?」
眉をしかめる吉法師に、竹千代もまた、しかめ面で、
「最初の二つ、沓掛と岡崎は、まあよいわ。だが小豆坂の句には呆れ果てた。掛詞らしい掛詞もなく、小豆が何ゆえ坂を転げるのか皆目わからぬ。いや織田方が小豆坂の戦で勝ったと申したいのであろうが、前の句と繋がっておらぬであろう」
「……であるか」
「あのような猿芝居を見せられるのは二度と御免じゃ。儂の前で演じてみせたいのなら、もそっと精進して参れ」
胸を張って言ってみせる竹千代に、吉法師は、また口の端を綻ばせた。
「されば精進いたそう。それまでは我がもとに留まっていてもらおうぞ」




