第六章 三河小豆坂(4)
叔父の与次郎から沢彦宗恩の名を教えられたあと、吉法師は平手にたずねた。
「楽田の永泉寺にある沢彦宗恩とはいかなる者か」
「は……されば」
平手が語り出そうとしたところを、吉法師は釘を刺す。
「簡潔に申せ」
「……されば」
こほんと平手は、もったいぶるように咳払いして、
「永泉寺の創建開山、泰秀宗韓和尚の徳を慕って当寺に来たり、その高弟となられ申した。いまは住持である開山和尚に次ぐ首座におわしまする」
「藤左衛門殿の縁者と聞いたが」
「は……俗縁では藤左衛門殿の庶弟に当たりまする」
「では大雲永瑞和尚と同じく、我が大叔父ということか。高齢であるのか」
「四十手前あたりと。藤左衛門殿とは年が離れておりまする」
「与次郎叔父上からは英才との評判を聞いた。そのような者があるのを知りながら、これまで推挙いたさなかったのは藤左衛門殿の縁者であるからか。あるいは同じ大叔父である大雲永瑞和尚への遠慮か。かような些事を和尚が気にかけられるとも思わぬが」
「は……」
「どちらじゃ。あるいは両方か」
「大殿の手前、藤左衛門殿の縁者を殿が師として招くのは障りがあろうかと思い……」
「父上への遠慮か。つまらぬことを」
吉法師は眉をしかめた。
「いまの父上の頭の中には三河での戦のことしかないぞ。かような些事を気にすることもあるまい」
「は……申し訳もございませぬ」
平手は頭を下げる。
このごろの平手は吉法師の前では殊勝な態度をとってみせる。
吉法師はたずねた。
「して永泉寺とは、いかなる寺か。土地の長者が建てたと聞いたが」
「は……されば」
顔を上げて語り出そうとした平手に、また吉法師は釘を刺す。
「簡潔にじゃぞ」
「……されば」
こほんと平手は咳払いして、
「開基は野呂長者と申して、もとは甲斐の生まれの蹈鞴師にて助左衛門と名乗った者にございまする。尾張に来たりて称した名字の『野呂』とは鉄滓を指す言葉でもございまするが、甲斐の名族、三枝氏の一門に山梨郡野呂郷発祥の野呂氏があり、甲斐の野呂と申して三枝氏との繋がりを思い起こさせることも狙うたものにございましょう」
「なるほど楽田の辺りでは砂鉄を産したな。近隣の羽黒では鉄の鉱石も掘られておった。それゆえ蹈鞴師も繁盛いたして長者と呼ばれておるわけか」
「御賢察にございまする」
「長いぞ。開基は長者と呼ばれて繁盛しておる蹈鞴師にござるとでも申せば、それでよい」
きっぱりと言った吉法師に、平手は梅干しの種でも間違えて思い切り噛んだような悲痛な顔をした。
「それでは、あまりに味気なく……」
「そのほうの思い入れなどは知らぬ。儂の問うたことのみ答えれば、それでよいのじゃ」
吉法師は、ばっさりと平手を切り捨てた。
その永泉寺には、いまのところは本堂と僧房、書院、諸仏を祀るいくつかの小堂が建てられている。
いずれは尾張随一の禅道場とするため、今後も伽藍を増やしていきたい望みが野呂長者にはあるという。
吉法師は永泉寺の書院で、沢彦宗恩と対面した。
いかにも清げな印象の沢彦は四十前と聞いたが、もっと若く見える。
「師を求めておられると伺いました」
沢彦は言った。
やわらかで落ち着いた声である。
「仏法に関することでしたら、わたくしも修行半ばではございますが、いくらかお役に立てると存じます。ですが武士である若殿が求めておられるのは、また違う道での師なのでしょう」
「いかにも、儂が求める者は軍師である」
吉法師は答えて言った。
「今川治部大輔にとっての太原崇孚がような師を、儂は求めておる」
「太原崇孚和尚の令名は耳にしております。されど和尚は、もとの法名を九英承菊と申されて建仁寺において修行なされました。彼の寺は禅林と称され、また京五山に数えられて、朝廷や幕府の庇護のもと学問に力を入れて参られた大刹。されば和尚も禅修行以外にも様々な学問に励まれた上で、今川治部大輔様の帷幕にあって宰相としての務めを果たされているのでしょう。太原崇孚和尚がごとき御方は、なかなか得難きものと存じます」
「されば政事のみに限ってはいかがじゃ。儂に徳の道を説くことは能わずか」
「徳の道……でございますか」
問い返す沢彦に、吉法師はうなずく。
「軍師と申して、諸葛孔明がごとき奇門遁甲の術など用いてみせなくてもよい。ただいかにすれば国は収まり、民を安んじることが叶うのか、その道筋を示す者を儂は得たい」
「恐れながら若殿がお考えの徳とは、いかなるものにございましょう」
「人の上に立つ者が備えるべきものじゃ。為政以徳と申すであろう」
「さればもし、徳を備えない者が力でもって君主の地位を得たときは。あるいは備えていたはずの徳を君主が失ったときは、いかなることになるでしょう」
「そのような君主があることは天が許さぬであろう。実のところは他国が攻め寄せて参るなり、家来筋の謀叛に遭って討たれるなりであろうが、それとて天意によって導かれることよ」
吉法師の答えに、沢彦は微笑した。
「そのようにお考えであれば、すでに若殿の御心の内には天意という道筋がございます。わたくしのいまの務めは、この永泉寺において泰秀宗韓和尚のもと、和尚の徳を慕って諸国から集う雲水が悟りに近づく手助けをすることと思い定めております。若殿のお側近くでお仕えすることは、かないません。ですがもしも若殿が、いずれが天意であるか進むべき道に迷われたときは、御召しいただければ馳せ参じまして、道を照らす松明に火を灯すまでの間、手をかざして風を遮るお役には立ちたいと存じます」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
いまは、それでいいだろうと思った。




