第五章 美濃井ノ口(3)
「──敵城一番乗りの功名、祝着にござる」
頭を下げる吉法師に、与次郎は照れ笑いで頭を掻いた。
「青侍がごとく勇んでしもうたわ。あとで家来どもに諌められたがのう」
犬山城の書院である。
山一つを丸ごと要害としたこの城で、書院は山麓に設けられている。
日頃は城主である与次郎の執務の場とされ、また来客の応接にも用いられる。
吉法師は、その与次郎を訪ねていた。
与次郎の傍らにはその子息である十郎左が控えている。
吉法師とは同年輩で、鼻が大きく天狗に似た面構えは父親とよく似ている。
だが与次郎が親しげな笑みを吉法師に向けているのに対し、十郎左は何やら面白くもなさそうに、むっつりと押し黙っていた。
それは吉法師も気づいていたが、素知らぬ顔で与次郎に向かって言う。
「岡崎の松平次郎三郎を降し、三河は大方収まった。次はいよいよ美濃攻めなれば、犬山衆の武辺が、ますます頼みとなろう」
「左様、次は我らの庭先での戦ゆえ、家来どもにも、よき手柄を立てさせよう。岡崎では儂ばかりが目立うてしまい家来どもも不満顔ゆえ」
与次郎は笑うが十郎左は、ますます眉をしかめている。
十郎左の不満は吉法師にも、わからなくはない。
吉法師の初陣からほどなく、備後守はあらためて尾張中から兵を集めて三河を攻めた。
那古野城からも備後守の指示で青山与三右衛門と内藤勝介が出陣したが、吉法師は今回は留守居であった。
またも出陣の機会を逸した犬千代は頬を膨らませて不満顔であったが、それはともかく。
尾張勢は松平次郎三郎の本拠である岡崎城を猛攻の末に落とし、逃亡した次郎三郎は、舅である戸田弾正を介して備後守に降伏を申し出た。
戸田弾正は渥美郡を本拠とする水軍大将で、次郎三郎は水野家出身の正室であった於大の方を離縁したのち、弾正の娘を継室に迎えていた。
降伏の条件は、嫡子である竹千代を人質として尾張方へ引き渡し、また備後守のために三河衆が軍役を負担すること、大浜をはじめとする三河領内の要所に備後守が派遣する代官を受け入れることなどである。
その代わりに岡崎城は次郎三郎へ返還されることとされ、備後守はこれを受け入れた。
竹千代は熱田の加藤図書助の屋敷に預けられた。
だがこの条件では、尾張方で利益を得るのは、ほとんど備後守ばかりである。
備後守もその問題は承知して、岡崎城より先に陥落させた松平方の城や、尾張領内の自身の直轄領からいくらかの土地を、三河攻略で功績のあった家臣たちに分け与えた。
だが実弟である与次郎への恩賞は後回しとされているのであった。
与次郎自身は不満を口にしていないが、息子である十郎左や、家来たちがどう思っているかである。
「ところで御曹司、きょうはその戦勝祝いのためばかりに来られたわけでもあるまい」
与次郎が微笑みながら言い、吉法師はうなずいた。
「実は徳授院にも用があった。なれど先触れもなしに訪ねたゆえ住持は他行しており、行き先が美濃の崇福寺と留守居の者が申すゆえ、帰りを待ってもおられなかった」
「さて、徳授院の和尚にいかなる用がござってか」
「実はこの儂を導く善智識を推挙願えればと思うた。平手も顔ばかりは広いゆえに誰ぞおらぬかと問うてみたが、なかなか答えを寄越さぬゆえに焦れてしもうたのじゃ」
「ほう、御曹司の師となる善智識でござるか」
与次郎は愉快そうに笑った。
「大雲永瑞和尚では、いかぬということだな」
「和尚は年であるし、萬松寺は父上の色がつきすぎておる」
吉法師が眉をひそめて言うと、与次郎はうなずいて、
「さればこの犬山の南、楽田に永泉寺と申して、土地の長者の野呂某なる者が開基した一宇がござる。その創建開山として招かれた泰秀宗韓和尚が、なかなかの碩学と評判じゃ。初め妙心寺に東海庵を開いた悟渓宗頓禅師に参じ、その遷化ののちは興宗宗松禅師の高弟となり法を嗣いだそうな」
そこまで言って、与次郎は笑い、
「いやそう申したところで儂も、誰が誰やら偉い御坊としかわからぬのだが」
「泰秀宗韓和尚なら存じておる。平手の家がその永泉寺の檀越で、儂の信長という名は和尚が付けたと聞いた」
「おお、そういえばそうであった」
与次郎は、ぽんと手を打って苦笑したが、吉法師は首を振り、
「されど和尚も高齢ゆえ、儂の師となることは固辞されたそうじゃ」
「うーむ、それであればのう」
与次郎は腕組みをして、首をかしげて考え込む。
吉法師は、たずねた。
「叔父御には、ほかに心当たりがあろうか」
「いやその永泉寺に泰秀宗韓和尚の弟子で、沢彦宗恩なる僧がおる。これがまた英才といわれておるのだが、なにゆえ平手中務がその名を挙げぬのかと思うてな」
「む……」
吉法師は眉間の皺を深める。
そのようながあるの者を知りながら、なぜ平手は推挙しないのか。
だが与次郎は、納得したようにうなずいて言った。
「いやおそらくは、沢彦宗恩が藤左衛門殿の縁者であるからよ。先の興善寺の一件で、藤左衛門殿は蟄居の身であろう。僧籍にあるとはいえ、その身内の者を御曹司が学問の師として招くのは具合が悪かろうと平手は考えたのであろう」
「……であるか」
吉法師も、うなずいた。
尾張守護代、織田大和守の配下には三人の奉行が置かれていた。
いずれも大和守の分家筋として同じく織田を称する、因幡守、藤左衛門、そして備後守である。
建前としてこの三者は同格であったが、現実的には備後守が大和守も、守護である武衛家も凌ぐ力を有している。
これが面白くない藤左衛門が、大和守を焚きつけて備後守の追い落としを図ったのが、ことの発端だ。
大和守の側近のうちにも藤左衛門に応じる者があり、反・備後守の策謀は密かに進められていった。
ところが、備後守の経済力の源泉である津島を圧迫するため、藤左衛門が市江島の興善寺を介して一向宗門徒に接触を図ったことが問題となった。
家来筋である備後守の専横は大和守にとっても面白いことではなかったが、それ以上に一向宗門徒への忌避感情が強かった。
加賀では一向一揆によって守護の富樫家が打倒され、百姓と坊主が一国を支配している。
一向宗門徒が力をつければ、同じことが尾張でも起こりかねない。
ゆえに大和守は、藤左衛門が興善寺と接触していることを知ると、ただちに藤左衛門に蟄居を申しつけ、反・備後守の策謀には知らぬ顔を決め込んだ。
大和守の側近たちの企みは瓦解したが、備後守はあえて彼らを追求しようとはしなかった。
三河や美濃と戦う兵を尾張中から集めるために、まだ守護や守護代という神輿は必要であったからだ。
吉法師は、与次郎にたずねた。
「叔父御は、その沢彦宗恩とは知己であるか」
「いや、名前を存じておるのみよ。ここはまず平手に間を取り持たせて、文のやりとりでもしてみるのがよいのではないか」
「……であるか」




