第五章 美濃井ノ口(2)
「──勘定が合わぬ」
吉法師の言葉に平手は、ぎょっと目を剥いた。
「さ……左様なはずは、ござらぬ……」
動揺を隠しきらず、辛うじてそう言った。
吉法師が初陣を果たすまで、林新五郎は那古野城における奉行以下の人事権を握り、政事のほとんどを意のままに動かしてきたが、勘定方については平手に一任した。
平手と林の間には、互いの領分に踏み込まないという暗黙の了解ができていた。
ゆえに平手は自由にできる城の勘定で、茶道具や書画を買い集めていた。
我が物にするためではない。那古野城中には留めておく。
賓客の来訪に備えるためという口実である。
とはいえ、名ばかりの城主である吉法師を訪ねる客は実のところほとんどいなかった。
吉法師自身は茶道にも書画の鑑賞にも、いまのところ興味を示していなかった。
ゆえに集めた品は、いまのところ平手が一人で愛でていた。
甚左衛門には触れさせなかった。
城主とその賓客のための茶器や書画であり、平手父子で私物化するものではない。
いずれは吉法師も数奇の道に目覚めるかもしれない。
賓客が那古野の城を訪ねることも、そのうちあるかもしれない。
そのときに備えた銘品の蒐集なのである。
もちろん言いわけである。
だが、そうした言いわけを用意していても動揺を抑えきれないのは、それが通用するか自信が持てないからだ。
初陣を果たした吉法師は、もはやお飾りの城主ではなくなっていた。
備後守の許しを得て、まずは林の影響力を排除した。
次いで、平手の職分に踏み込もうとしているわけだ。
吉法師は、眉をひそめた。
「平手そのほうの不手際ではない。年貢が蔵に収まる前の話じゃ。林新五郎が選んだ代官どもが負うべき責めよ」
「は……それでございますなら、そのようなこともなきにしもあらずと」
平手は冷や汗のにじんだ掌を、何か拭うものはないかと考えを巡らせながら答えた。
蒐集品が問題とされているわけではないと知って、ひとまず安堵した。
とはいえ袴で拭ったのでは不作法にすぎよう。
吉法師は平手を睨んだ。
「……それは、そのようなこともあろうと平手そのほう、もとより存じておりながら見過ごしたということか」
「あいや、左様なことは。言葉の綾でござる」
平手は慌てて首を振った。
「仰せのごとく、それがしがお預かりいたしますのは米そのほかの貢租が城中の蔵に収められたのちの勘定でござる。蔵に収まる前のことは林殿の職分にござれば」
那古野城内、勘定方の詰所である。
文机がいくつか並び、いまは甚左衛門とほかに二人の与力が米蔵の出納に関する帳面を広げ、算木を使って計算しているのを、横に立った万千代が、にこにこと微笑みながら見守っている。
甚左衛門にしてみれば、父と吉法師とのやりとりが気になるのだが、横に万千代が理由も言わずただ笑顔で立っているのも気になって仕方がない。
だが迷惑だという素振りは一切見せず、
「……何か不審な点でもありますかな?」
にっこりと笑顔でたずねてみると、にこにこと微笑み返して万千代は、
「いえ、どうぞお続けください」
「左様でござるか。では急ぎ検算せねばならぬ帳簿がござれば」
「ええ、どうぞ」
にっこりにっこり。
にこにこにこにこ。
笑顔の応酬、さながら狐同士の化かし合いである。
あとの二人の与力は石ころのように存在感を消して、黙々と算木を操り、帳面に筆を走らせている。
この部屋の奥には棚が並んで、過去数年分の城の収支に関わる帳面が積み上げられていた。
平手が買い集めた銘品についての帳簿も、全て残されている。
那古野城の勘定を預かる平手自身の裁量として処理したから、隠すまでもないことなのである。
隠してしまったら、逆に言いわけが成り立たない。
「……であるか」
吉法師は、あっさりとうなずいた。
だが、平手が胸を撫で下ろす暇もなく、続けて言った。
「儂もこれは林めの不始末と思うて、不正を働きたる代官どもを召し捕り、打ち首といたすよう林に命じた。他国へ逐電いたしたと申すなら、その者の上役を代わりに斬り捨てよとな」
「……か、かような……」
平手は目を剥き、わなわなと身を震わせた。
吉法師の言葉が聞こえた甚左衛門も、筆を動かしかけた手を止めて、笑顔を引きつらせている。
「いかがなされました?」
微笑みのままたずねる万千代に、甚左衛門は、ひくひくと頬を震わせながら辛うじて笑みを保ち、
「……いえ、あらためて検算し直すべきかと勘考いたしておるところにて」
「さて、どの数字でございましょう」
「あいや、間違いはござらぬ、それがしの思い過ごしにござった」
「左様でございますか。わたくしも算学には少しばかり心得がございまして、何かお手伝いできることがありましたらお申しつけください。米は国の基でございますから、その勘定もとても大切」
「いやその通り、されどいまはその気持ちだけで充分」
にっこりにっこり。にこにこにこにこ。
笑顔の応酬も続いている。
平手には、恐ろしかった。
己のかつての不正までも吉法師に見抜かれたかのように思えて。
だが、それについては備後守の赦免を得ている。
いまさら吉法師が咎め立てすることではない。
「……かような酷き、いや厳しきお裁きは、家中に動揺を招きまする……。何卒ご寛恕のほど、願い奉る……」
声を振り絞って言った平手を、吉法師はまっすぐに見据えた。
「代官どもが預かっておったのは、我が直轄領じゃ。そこでの不正は儂に謀叛を働いたのと同じこと。ゆえに斬首といたす。これのどこが厳しき裁きじゃ」
「う……上役までも斬罪といたすは、あまりのことと」
「さもなくば林新五郎め、また怠慢をいたして、罪人どもを逃がしたまま知らぬ顔を決め込むであろう。不正を働いた当人さえ召し捕れば、上役は職を免じて蟄居といたすのみじゃ」
「いえ決して林新五郎殿、怠慢などいたすような者では」
「我が初陣に、一のおとなが自ら留守居を申し出て怠慢ではないと申すか」
執り成そうとした平手を遮り、吉法師は言った。
声を荒らげたわけではない。だが、ぴしゃりと撥ねつけるような冷徹な言葉であった。
「あの者の主人は誰か。我が父、備後守から遣わされた与力であって、この那古野では客分の身なれば致し方もない。だが、それであるなら何故あの者がこの城の政事を壟断いたした。いったい、この那古野の城の主は誰で、林新五郎が仕える主人は誰なのか」
「……それは」
平手に向けられた吉法師の目の色は、まるで鏡のようである。
怒りに燃えているかと思って見ればそう見えるし、平静でいるように思えば、そのようにも見えた。
吉法師は幼子のうちから、歓びを露わにすることは稀であったが、怒りはむしろ隠そうとしなかった。
不機嫌な表情をよく見せていたし、ときには感情を爆発させた。
だが、いまの吉法師の静かな表情は何であろうか。
怒りを埋火のように灰の中に沈めて、それを再び燃え上がらせる機会を待っているのだろうか。
吉法師は言った。
「……爺には申しておく。出陣前の軍議で、林新五郎が申したことも儂は忘れておらぬ。だがそれについては、いまは咎めぬ。いまは、そのときではないと思うからの」
爺と呼ばれることなど何年ぶりかと平手は思った。
いまさらそう呼んだのは、どういうわけか。
吉法師は言葉を続けた。
「しかし務めの怠慢は罰せねばならぬ。それゆえ代官どもの仕置を林が自ら果たすよう命じた。あやつが儂の望む働きを示したなれば、この場はこれにて収めよう」
「だが林殿の軍議での言動は、決してお忘れにはならぬと」
「無論じゃ。いまは咎めぬだけで赦しはせぬ」
この執拗さはどこからきているのかと考えて、平手は愕然とした。
父の備後守譲りであるとは考えられないか。
そうであるとすれば、自分のかつての不正もまた備後守から赦免されたわけではない。
ただその場では咎められなかっただけなのだ。
「…………」
黙り込んでいる平手に、吉法師は、あらためて告げた。
「よいな。儂は、この儂を軽んじた者を決して赦すことはない。爺もそう心に刻んでおけ」
「……さればこの平手、吉法師君の傅役として至らぬ者でありましたこと、いまさらではございますがお詫び申し上げまする」
平手はその場で両膝をつき、吉法師に向かい、平伏した。
土下座であった。
「これにてお赦しいただけるとは思うてござらぬ。されどこれがそれがしの、けじめでござる」
「……父上……」
甚左衛門が常になく慌てているようであったが、平手は主君に向かい、平伏し続ける。
平手五郎左衛門政秀も武士である。武士としての意地がある。
だから腹を据えることにした。命よりも誇りが大事と思い定めた。
幾分かは開き直りもあった。決して赦さぬというなら、いくら足掻いても無駄である。
ゆえに自らのこれまでの行いの報いは、甘んじて受けよう。
やがて吉法師が言った。
「……いまは咎めぬ」
「は……」
「城内の書院を安養寺に移築いたす。今川竹王丸が自慢の数奇座敷であったと聞くが、この城には過分のもの。客を招くとすれば安養寺に迎えればよい。書院にある茶器や書画もともに寺に下げ渡すゆえ、平手そのほう、手配りいたせ」
「かしこまりました」
「いずれは儂も一国の大名となるのであれば、風雅の道を学ばねばならぬ。されど、いまはそのときではない。いまは、ほかに学ぶべきことが多い」
「…………」
なお平伏している平手を見下ろし、吉法師は告げた。
「面を上げよ。そのほうに問いたい別儀がある」
「は……」
平手は体を起こした。顔は伏せたまま、問い返す。
「いかなることでございましょう」
「平手そのほう、武家といわず商家や社寺といわず顔は広かろう。されば禅坊主に知己はないか。曹洞宗ではなく妙心寺あたりで修行した者がよい」
「は……」
平手は顔を上げて吉法師を見た。
鏡のような吉法師の目の光は変わっていないが、平手自身が心を鎮めたいまは、恐れなければならないものは、そこになかった。
「なにゆえ曹洞宗ではいけませぬか。御城下には萬松寺があり、大雲永瑞和尚がおわしまする」
「萬松寺は父上の色が濃い。また、ほかの曹洞宗の寺の者は和尚への遠慮が働こう。儂が求める教えは得られぬと思うた」
「禅の教えでございまするか」
「儂が儂として生きる道よ。今川治部大輔に太原崇孚があるように、儂も師であり軍師である者を得たいと思う」
「されば御推挙に値する者がおりますかどうか勘考いたしますゆえ、しばし御猶予を賜りたく存じまする」
平手の答えに、吉法師は大きくうなずいた。
「……であるか」




