第四章 三河大浜(9)
犬千代は頬を膨らませ、上目遣いに吉法師の顔を見る。
「ズルいですよ、勝千代と万千代ばかり」
「いやオマエ、マジで死ぬ思いして来たんだぞ、オレら」
そうは思えない「やりきった」感のある笑顔で勝千代が言うものだから、犬千代はますます栗鼠みたいな顔になり、
「オイラが小姓のままでも初陣に連れて行ってくれるって言ったのに、殿のうそつき」
「殿が御帰陣なされた日は、『よぐぞごぶぢでおもどりくだざいまぢだぁ~』と泣きじゃくりながら抱きついていましたのに、今度は拗ねてしまって可愛いものですね、犬千代も」
くすくすと万千代が笑って、勝千代も笑い、
「おう、いまのその犬千代の真似、すげえイケてる。もういっぺんやってみ」
「そんなに似てました? 『よぐぞごぶぢで~』……あいた!」
また犬千代に似せた泣き真似をしてみせた万千代の肩口に、犬千代は拳を打ちつけた。
「そんな情けない顔してねえよ、オイラは。泣いてたことは認めるけど」
「すまぬことをした。犬千代を我が初陣に伴うと申したのは、あれは、あの場の勢いじゃ」
吉法師は気まずい顔をした。
華王院の本堂である。
吉法師が父の備後守へ戦勝報告をした、そのまた翌日のことだ。
再び水干姿の吉法師に、勝千代、万千代も小姓の姿である。
那古野の城中では下働きの女どもが、初陣を果たして顔つきも凛々しくなった若殿と二人の近習が、いまだ身なりは愛らしい童形であることに「この落差に萌えるのよね」などと言っているとかいないとか。
四人の傍らには書見台が置かれ、それぞれ『貞観政要』や『論語集解』などの漢籍が開かれてある。
だが初陣の興奮が冷めやらぬ少年たちは、書見などそっちのけで雑談に夢中だ。
犬千代は胡座をかいて腕組みをして、背を反り返しながら、宣言した。
「とにかくオイラ、次の戦には絶対、連れてってもらうからね」
「戦は連れてってもらうもんじゃなくて、出陣したからには、それなりに働かなきゃなんねえんだぞ」
勝千代が犬千代の首に左腕を回し、ぐりぐりと右手で頭を撫で回す。
「わかってんの、犬千代ちゃん?」
「なんだよ、ヤメろよ勝三郎、餓鬼扱いするんじゃねえよ」
じたばたと手を振り抗おうとする犬千代よ、勝千代は逃がさず、
「いやあ、だって犬千代ちゃん、ほっぺ膨らませちゃって可愛いんだもの。それとオレは勝千代な」
「それにしても殿、次の御出陣は、やはりまた三河でしょうか」
万千代が言って、吉法師はうなずいた。
「うむ。父上が十蔵らの一党を三河へ潜ませておったのは、儂の手助けをさせるためばかりではなかろう。いずれ三河を攻めるに備えての下調べに相違ない」
「じゃあ、いよいよガチで三河を手に入れようってんですね、大殿も」
勝千代が言って、犬千代が首をかしげ、
「ガチってなんだよ、どんな言葉だよ。ときどき勝三郎、意味わかんねえコト言うし」
「勝三郎じゃねえよ、勝千代だ」
「……ぐえっ! 苦しい! 首締まってるって!」
「締めてんだよ」
「ぐえええ……」
「これこれ、犬をいじめては後生に祟りますよ」
万千代が、ぽんぽんと勝千代の背を叩いてなだめる。
そのとき、安養寺の老住持が、華王院の院主とともに本堂に入って来た。
「皆様、御学問はお進みですかな」
「……うむ」
吉法師は鷹揚にうなずき、書見台に向き直る。
勝千代、万千代、犬千代も、そそくさとそれぞれの書見台の前に戻った。
老住持は微笑んで、
「学ぶべきときは学び、遊ぶべきときは遊ぶ。皆様お若いとは申されても、人の一生には限りがあるもの。されば人は無為な時を過ごしてはならぬものと、愚僧は老境に至り、ようやく悟りました」
「住持」
吉法師の呼びかけに、老住持は微笑みを返す。
「なんでございましょう」
「ここ華王院のいまの御本尊は薬師如来じゃが、もとは開敷華王如来であったのではないか」
「ほう……」
老住持は目を大きく見開き、華王院の院主とうなずき合う。
院主が言った。
「この華王院の名は、殿の仰せの通り開敷華王如来からいただいております。胎蔵界曼荼羅においては菩提心が蓮の花のように開き、大悲利他の心を起こすことを表した御仏とされております」
「……うむ。ではやはり、もとの御本尊は兵火により失われ、再建されるに際して新たに薬師如来の尊像が収められたのであるか」
うなずいている吉法師に、老住持が、
「されば殿、犬をいじめては後生に祟ると申しましてな」
「……む?」
「御学問を怠けておられたのを悟られぬよう、我らが御様子を見に参りましたときのため、それらしき御質問を用意なされておったのでしょうが……仔犬がじゃれ合うがごとく戯れておられた御声は、堂の外まで聞こえておりましたぞ」
「……であるか」
「愚僧も仔犬をいじめて祟られぬよう、これ以上は申しませぬ。されば、御学問にお励みくだされ」
老住持は院主とともに合掌し、本堂を出て行った。
吉法師は側近の少年たちと顔を見合わせて。
勝千代、万千代、犬千代らは、ぷっと吹き出し、吉法師も僅かに頬を緩めた。
「……であるそうじゃ」




