第四章 三河大浜(3)
夕刻、その日の学問を終えて、吉法師は華王院を出た。
華王院と安養寺の境内は一繋がりで、間に塀などはない。
これを横切っていけば天王社を経て那古野の城に至る。
「──たあっ! やあっ! りゃあっ! しゃあっ……!」
「──えーいっ! えーいっ! やあーっ! とおーっ……!」
境内の一隅、地蔵像が並ぶ前で、一人の少年が剣を振るい、もう一人の少年が槍をくり出していた。
向かい合っての稽古ではない。いくらか距離を置き、それぞれ思うままに剣や槍を扱っている。
剣を振るう少年の夕日に照らされた髪が、赤く輝いている。
端正な顔立ちには幼さを残す。
池田勝三郎、当年十一歳。
吉法師と同じ時期に元服を済ませているが、まだ小姓であってもおかしくない年頃だ。
手にした剣は、大人が用いるなら脇差に相当する、長さ二尺に満たないものである。
しかし年相応に小柄な勝三郎は、これを腰に差す二刀のうち大なるものとし、長さ一尺の短刀を差添としている。
槍を扱う少年は、さらに幼い。前髪立ちの小姓の姿だ。
よく日に焼けて、くりくりと目が大きく愛らしい面立ち。
口を開くとその端から白い犬歯が覗く。
前田犬千代といった。年は九つ。
手にする得物は長さ四尺の枕槍だ。
そして、いま一人の少年が地蔵と並ぶ位置でしゃがみ込み、何やら書物を広げていた。
丹羽万千代、十二歳。
やはり小姓姿であるが、色が白く、髪の色は薄い。馬の栗毛のようである。
吉法師に劣らぬ美貌だが、主人とは違う柔和な表情。
悪くいえば、あまり緊張感のない顔をしている。
「待たせた。城へ戻る」
吉法師が三人に声をかけると、ぴたりと勝三郎は振るっていた剣を止めた。
犬千代も同じように動きを止めようとしたのだが、突き出した槍の勢いに引っぱられてしまい、舌打ちする。
勝三郎は、しばし残心してから剣を収めた。
吉法師に向き直り、一礼する。
犬千代も槍を立てるように持ち替えて、石突で地を突き、吉法師に頭を下げた。
万千代は書を閉じてのんびりと立ち上がり、
「お疲れ様でした」
そう言って、にっこりとした。
吉法師は「うむ」とうなずくと、万千代に、
「この場で書を読むのであれば、儂とともに堂内へ入ればよかったであろう」
「いえ、わたくしが読んでおりますのは算道の書ですから」
にっこりとして万千代が答えると、にまっと勝三郎が悪戯っぽく笑い、
「どうも万千代は平手の爺さんか、その下の息子の甚左衛門殿みたいに銭勘定、米勘定が達者になりたいらしいですよ」
「うっそ、万千代ってあんな青瓢箪みたいヤツに憧れてんの?」
犬千代が、にやにやと笑う。
「そういや、いつもへらへらと薄笑いしてるところが似てるもんな」
「ひどい言われようですねえ」
くすくすと笑う万千代は、少しも堪えていないようである。へらへらしていると言われても仕方がない。
吉法師は勝三郎に、
「そのほうはいかがじゃ、勝三郎。儂とともに学問をいたすつもりはないか」
「あー、遠慮します。オレはどうもそういうガラじゃないんで。あと、オレのことは勝千代と呼んでくださいと申し上げたでしょう」
「それは先刻も聞かされたが、まだ仔細を問うておらぬ。なにゆえ、そのほうが勝千代になるのか」
吉法師が眉をひそめてたずねると、勝三郎は胸を張り、
「だって殿が吉法師に戻って、ほかにいつも一緒にいる小姓が万千代、犬千代でしょう。オレだけ勝三郎って、なんかイヤ」
「イヤ……であるか」
吉法師は首をかしげて、犬千代が口をとがらせる。
「それなら、オイラと名前を交換してくれよ。こっちは犬だぜ、犬。もっと虎とか熊とか強そうな名前、あるじゃん」
「わたくしは万千代で結構です。一、十、百、千、万の万千代。いいじゃないですか裕福そうで」
にこにこしながら万千代が言う。
吉法師は、勝三郎に告げた。
「では向後は望むままに勝千代と名乗るがよい」
「あ、お認めいただけるんですか」
「儂が自ら幼名の吉法師を再び名乗っておるに、そのほうを咎めることなどできぬ」
「いやあ、言ってみるもんですね。池田勝千代、いいなあ。なんか婆娑羅で」
腕組みをして満足気にうなずいている勝三郎あらため勝千代に、また吉法師は首をかしげる。
「婆娑羅……であるか」
「最近は傾奇とも呼ぶそうです。数寄を通り越して傾奇。イケてますよね」
「……であるか」
吉法師はうなずいておく。
勝千代と名乗ることになったこの少年は、かつて吉法師の近習を務めた滝川久助の従兄弟である。
調子がいいところは血筋であろうか。
イケてるという言葉は吉法師には、よくわからないけど。
吉法師は三人の少年を従えて、城を目指して歩き出した。
大屋根を備えた安養寺の本堂。
それよりひと回り小さく、庫裏と繋がったようなかたちの華王院の本堂。
僧房か食堂か長屋のような建物が三つ。
いくつかの小堂。
かつては五重塔が建てられて、子院も華王院のほかにいくつかあったらしい。
だが過去幾度か兵火に巻き込まれて伽藍の多くを焼亡し、全ては再建されていないという。
それでもいまある堂宇が再建できたのは備後守の援助のおかげで感謝しているのだと、安養寺の僧たちは言う。
その備後守は六年前、安養寺から少し離れたところに、織田弾正忠家の菩提寺となる萬松寺も建立している。
七堂伽藍を備える大刹となったそれの開山として招いたのは六十五歳となった大雲永瑞だ。
自社の建立は領主が自らの威光を示す手段の一つである。もちろん信仰心もないわけではないだろうけど。
吉法師は勝千代に向かい、たずねた。
「このごろ久助から文は届くか」
「いやあ、ないですね。兄ィはそういうの苦手みたいで。でも伝言ならときどき。堺帰りの熱田や津島の商人が伝えに来てくれます」
勝千代は、にまっと笑い、
「やっぱり南蛮直輸入の満刺加式の鉄炮は、イケてるみたいです。いや直輸入じゃないのか。南蛮人の本国は天竺より遥か西方にあって、満刺加は南蛮人に征服されるまでは明の朝貢国で琉球ともつき合いがあったそうだから、そんなに遠くないです」
「……であるか」
吉法師はうなずいたが、犬千代が呆れた顔で口を挟む。
「そうやって自分の知ってること何でも喋りたがるの、平手のジジイにそっくり」
「確かに。マラなんとやらが、どこにあるかは本題ではなさそうですからねえ」
にこにこしながら万千代もうなずき、勝千代は「……げっ」とバツが悪い顔をする。
「そうか? オレ、平手の爺みたいになっちゃってた?」
「うんうん」「うんうん」
犬千代と万千代は、うなずいてみせる。
吉法師が、咳払いして、
「して、その南蛮人の鉄炮は、いかなるものか」
「はい、それがですね、いままで倭寇が使ってた、同じ鉄炮と呼ばれてた飛び道具より段違いに扱いやすいらしいんですよ」
勝千代は、また自分が直接見聞きしたことのように得意げに語りだした。
もちろん久助から津島または熱田の商人を介した伝聞だが、それほど複雑な話ではないので大きく誇張されてはいないだろう。
「倭寇の鉄炮は構えてから敵を射倒すまでしばらく待たないといけないので、狭いところに敵が集中しているような船軍でしか役立ちませんでしたが、満刺加式なら構えて引き金を引けばすぐ敵を倒せるそうなんです」
「久助はその技を身に着け、鉄炮とともに持ち帰れそうか」
吉法師がたずねると、勝千代は眉をひそめて残念そうに、
「いやあ、そこが問題で。技はともかく自分の鉄炮を手に入れるのに時間がかかりそうなんです。まだ堺でも博多でも、南蛮式の鉄炮は、ほとんど出回ってないそうで。いま鍛錬に使っている鉄炮も、堺の商人に頼み込んでようやく借りられたそうなんです」
「ふうむ……」
吉法師は深くうなずいた。
「されば、これよりのちは伝言ではなく書状にて知らせるよう久助に申し伝えよ。我らが鉄炮を欲していることを商人どもに知られれば、値を吊り上げて売りつけようといたすかもしれぬ」
「あ……そりゃそうですね、久助兄ィもうっかりしてますよ」
勝千代は、ぺろりと舌を出す。
南蛮渡来の鉄炮という武器が噂に上るようになったのは三年ほど前からだ。
それ以前から倭寇が用いる飛び道具として鉄炮の名前自体は知られていたが、同時に扱いの難しさも伝えられており、この日の本で興味を持つ者は稀であった。
しかし久助は、取り扱い方法を改善した満刺加式鉄炮の存在を知るや、これを扱う技を身に着けるため修行に出たいと吉法師に申し出た。
久助は近習として吉法師につけられているが、備後守の家臣として知行を与えられている滝川八郎の跡取りでもある。
そこで吉法師は、久助を数年間、鉄炮の修行に送り出してよいかと備後守に伺いを立てた。
平手の子息、甚左衛門が所要で勝幡へ行くというので備後守宛ての書状を託したのだが、那古野へ戻って来た甚左衛門は首をかしげながら吉法師に告げた。
「いやあ、大殿が申されますには……そのまま申し上げてよいですか?」
「申せ」
「左様なことで煩わせるなと」
「…………」
「いいとも悪いとも、どちらなのでしょうね、これ?」
甚左衛門は苦笑していたが、好きなように判断しろという意味だと吉法師は解釈することにした。
備後守の許しを得たと久助には伝え、鉄炮修行に送り出した。
その当時、いやいまでもそうだが、備後守は三河の松平家や、美濃の斎藤山城守との戦に明け暮れていた。
松平家が一族の内輪の争いで弱体化すると、駿河と遠江をあわせて支配する今川家が三河へも進出を図り、備後守の新たな敵として登場した。
鉄炮が強力な武器となり得る可能性を備後守が認識していたとしても、いますぐ合戦で役立つものではない。
そうした状況での鉄炮修行など、いま考えなくてもよい瑣末なことと備後守が判断したのもやむを得まい。
だがそうであるなら、吉法師に仕える若い近習が一人しばらく国を離れたとして、備後守が気にかけることもまたないであろう。
安養寺と天王社の双方の境内の間は、竹で作った透垣でかたちばかり仕切られているが、ところどころに出入口が開けられている。
実はよく見ると、崩れた築地塀と重ねるように透垣が設けられている箇所もある。
もとは天王社と別当寺の境内は分けられていたが、兵火に巻き込まれたのち再建される際に、境界が曖昧になったのだろう。
天王社の側の境内に入ったところで、万千代が言った。
「あれは久蔵殿ですね」
職舎すなわち神職の住居らしい建物から出て来た若者のことである。
菱烏帽子に小袖、括袴という姿で、いかにも出入りの商人のような風体だ。
従者らしい初老の男を一人連れている。
「……久蔵」
吉法師が声をかけると、若者は振り向き、日焼けした顔によく目立つ白い歯を見せて会釈した。
恒川久蔵といった。年は吉法師の四つ上、十七である。
津島十五党の一つ、恒川家の者であった。
連れていり従者も、吉法師たちに深々と頭を下げる。
「商いの用か」
吉法師がたずねると、久蔵は「はい」と笑った。
「こちらの社家の堀田様は、津島の社家の右馬大夫様の御身内で。商いの御用の多くは熱田ではなく我ら津島の衆にいただいているのです」
久蔵は恒川家の跡継ぎではなく次男か三男であると吉法師は以前に聞いている。
だから同じ津島十五党の者に対しても、いくらか謙った態度となるのであろう。
兄が恒川家の当主となったとき、久蔵がそのまま家に残ったとすれば使用人同様の立場になる。
「ナツは息災か」
続けてたずねる吉法師に、久蔵は今度は苦笑いする。
「ええ、相変わらずの行かず出戻り小姑っぷりで、あたくしの女房と喧嘩が絶えません」
「我が姉、蔵のために、そのほうたちにも相すまぬことになった」
「いえいえ、姉が平野の家との縁談を断ったのは、姉が自分で勝手に決めたことで。相手は萬久入道の息子といっても養子で悪い男じゃなくて、姉が直接縁談を断りに行っくと、自分の面目も潰れることになるのにすぐに事情を理解してくれて」
久蔵は、ぱたぱたと虫を払うように手を振って言う。
「あとから姉も、あんなにいい人だったのに早まったことをしたかなと言っていたくらいなんです。だから姉の自業自得」
「だけど、それがきっかけで恒川の家も、大橋家ともども大殿から疎んじられることになったんでしょ」
犬千代が言って、くすくすと万千代が笑い、
「おや、随分はっきりと言ってしまいますね」
「だって事実じゃん」
犬千代は口をとがらせ、勝千代が腕組みする。
「ところが大橋家から奴野城を横取りした萬久入道も、これは津島の町衆の間で嫌われて商売に差し障ったか羽振りが悪い。結局、いま津島で一番威勢がいいのは道悦と道空の堀田兄弟ってところだろ。なあ、久蔵殿?」
「ええ、まあ」
久蔵は苦笑いのまま頭を掻いた。
「でも蔵様と清兵衛殿も、奴野から今市場の商いの店に移って、仲良くやっておられます。清兵衛殿はこのところ体調もいいようで」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
「呼び止めてしまなかった、久蔵。いずれまた津島の話を聞かせてくれ」
「はい、それでは失礼いたします」
久蔵は従者ともども深く頭を下げたが、吉法師たち一行が立ち去るまで、その場で足を止めて見送るかたちとなった。
犬千代が、ちらりと後ろを見て、まだ久蔵が頭を下げているのを確かめて、
「あそこまで、ぺこぺこしなくても。久蔵殿って、本当は殿に侍奉公したいんでしょ」
「ですが、いまは恒川家も難しい立場ですから、商いの道で家のために働いているということでしょう」
万千代が言って、勝千代が腕組みのまま「うーん」とうなり、
「ところで津島ってさ、堀田一族、多すぎねえ?」
「それはまあ、社家では右馬大夫殿や坂東大夫殿、武家では道悦、道空殿、ほかに酒造りや太鼓作りが専業の一族もいますからねえ」
「殿はどうなんですか」
犬千代が吉法師の顔を見上げた。
「久蔵殿みたいなマジメな人、侍としてもよく働くと思うんです。殿の下で立身出世したら、恒川家もいまより家運が開けるかもしれないじゃないですか」
「いまの儂には、新たな家臣を迎え入れたとて与える知行を定めることもできぬ」
吉法師は答えて言った。苦い表情であった。
「まずは初陣じゃ。それを果たせば、ようやく一人前の武士を名乗れるようになろう。その上で林新五郎より、城主としてなすべき務めを一つずつ奪い返して参る」
「ああ、やっぱりそれですねえ」
万千代は困ったように眉を下げながらの苦笑い。
「わたくしもその前には元服させていただき、殿の初陣にはお供させていただきたいと思います」
「オレはまあ、元服済だから当然、一緒に行くことになるよな」
胸を張る勝千代を、犬千代が横目で睨み、
「さっきまで自分で勝千代とか名乗ってたくせに、それズルいでしょ。オイラはどうだろ、殿の初陣までに元服させてもらえるかなあ。最悪、小姓のままでも連れてってくださいよね」
最後は吉法師への懇願である。
吉法師は、うなずいた。
「許す。晴れの初陣じゃ、そのほうらとともに、よき手柄を立てて参ろう」