第四章 三河大浜(2)
本尊の薬師如来の見守る前で、吉法師は書見台に向かっていた。
那古野城下の真言宗寺院、亀尾山安養寺。
その子院である華王院の本堂である。
元服の儀を終えた翌日から、吉法師は水干姿に戻っている。
髪も再び垂髪としたが、いったん短く整えたので、やや微妙なかたちである。
平手からは苦言を呈されたが、
「……であるか」
その一言で黙殺した。平手もそれきり口をつぐんだ。
いま読んでいるのは『あつまの道の記』であった。
仁和寺真光院の院主であり石山寺座主も務めた尊海僧正が天文二年から翌三年にかけて記した、旅紀行を兼ねた歌集である。
大著ではない。載せられている歌は五十ほど。
だが京から遠江国までを往復した尊海は、途中立ち寄った尾張についてもいくつか歌を読んでいた。
あふりたる 山たちともか 出合て くしさしやせん てんかくかくほ
これは熱田の東、沓掛近くの田楽ヶ窪で、この辺りには「山たち」つまり山賊が出ると同行者から脅かされての戯歌であり、串料理の田楽と引っかけている。
また駿河では長楽寺という寺院で和漢の連句の会を催したが、同席した二人の僧の句を自著に引用している。
友三話歳寒 九英
扣氷茶煎月 善得寺承芳
承芳とは、のちに還俗して今川家の当主かつ駿河一国の太守となった治部大輔義元のことである。
九英はその学問の師であり、のちに法名を太原崇孚と改めて義元の軍師となっている。
僅か一句ずつのことであり、彼らの人物像までは窺えない。
だが尊海は後柏原の帝の皇子、覚道法親王が仁和寺に入った際に戒師となったほどの高僧だ。
その彼が何かしら感じ入るところがあったからこそ、治部大輔義元らの句を採録したのだろう。
(よかろう。いまの儂には時間ばかりはある。自ら気の利いた歌など詠めるようにはならぬかもしれぬが、詩歌とその詠み手の心を解するようにはなりたいものよ。富める国では文芸も盛んでなくてはならぬだろう。それを求める民がおる限りはのう)
武家の子弟は多くの場合、幼少期から曹洞宗や臨済宗といった禅宗の寺院に預けられて学問をする。
仏教宗派のうちでは特に禅宗が漢籍の講読など学問に力を入れているからである。
しかし吉法師は勝幡城にあったときには、津島天王社の別当である真言宗寺院に通って漢籍を学んでいた。
津島への影響力を強めることを望んだ備後守が、天王社と良好な関係を築くために嫡子の教育を委ねたかたちであろう。
吉法師は那古野の城主となったのちは華王院を学問の場としたが、これは本寺の安養寺が那古野天王社の別当であるからだ。
那古野の天王社は津島天王社からの分祀であり、別当寺同士も関係が深い。
吉法師は現在の師である華王院の院主から、『あつまの道の記』について少し前に聞かされた。
その時点では尾張についても記された旅紀行だという簡単な情報であったが、吉法師は興味を持った。
(禅休入道殿が好みそうな書じゃな。長いものでもないと申すゆえ、儂が自ら書写して姉上にお贈りすれば喜ばれるであろうか)
著者の尊海は三年前に七十二歳で入滅したが、自らの手による写本が仁和寺に伝わっているという。
吉法師は安養寺の住持を通して仁和寺へ、新たに一部を書写して安養寺へ送ってもらうよう依頼した。
もちろん相応の礼金は必要となるから、那古野城の勘定を預かる平手にその手配を指示すると、
「あつまの道の……左様な書が……ええ、尊海僧正の御尊名は聞き覚え……いや、存じ上げており申す。されば早速に手配いたしましょう」
目を丸くしながらそう答え、ついでに恐る恐る申し出てきた。
「……安養寺へ届きましたなら、それがしも拝読させていただきまして、よろしいでしょうか」
「安養寺の蔵書となるのじゃ。住持に頼むがよい」
吉法師は答えて言った。
知らないことを知らないと正直に言わないのが平手という男であった。