第四章 三河大浜(1)
天文十五年──
古渡城の奥御殿で、十三歳となった吉法師は、母の土田御前と対座していた。
侍烏帽子に直垂という正装である。
物憂げな眼差しに通った鼻筋。
まだ髭はなく、幼子のうちからの美貌をそのままに齢を長じている。
このごろでは戦に備えて日頃から月代を剃る武士も多くなってきたが、吉法師は総髪である。
後ろへ向かい、きっちりと撫でつけられた髪は、頭頂近くで馬の尾のように結ばれ、背にかからぬほどの長さで整えられている。
「御立派になられました」
目を細め、優しく声をかける母に、吉法師は頭を下げた。
「母上に御見守りいただき、この日を迎えましてございます」
「きょうよりは三郎、信長様となられたのですね」
「吉法師で、ようございます」
「そうは参りません。御元服あそばされたのですから」
土田御前は、やわらかく笑う。
そして横手に控えていた坊丸に呼びかけた。
「坊丸。三郎兄上に御祝いを申し上げなさい」
坊丸は十一歳である。
兄とよく似た美貌で、かつての兄と同じような水干姿。
だが兄と異なり、母譲りの柔和な笑みを浮かべているのが常である。
その目から、ときおり淀んだ沼のように輝きが消えることは、三郎と名を改めた兄しか知らぬことであろう。
「御元服おめでとうございまする」
やはりまた目の輝きを消して祝いを述べる坊丸に、吉法師は鷹揚にうなずいた。
「……うむ」
まだ吉法師でよいと自身では思っていた。
元服を迎えたからといって、何も変わらない。
父の備後守の居城である古渡城に呼びつけられ、家臣一同の前で型通りの儀式をさせられた。
烏帽子親を務めたのは平手であった。
赤子のうちからの傅役であるから仕方がない。ただ儀式が終わるまでのことと思い受け流した。
吉法師には、もはや平手に対しては侮蔑の感情しかない。
(あの男は我が父、備後守に操られるがままの傀儡がごときものよ。儂を主人とは思うておらぬのであろう)
同じことは林にも言えた。
政事に関する権限を手放そうとしないばかりか、それを吉法師が学ぶことさえ妨げてきた。
吉法師の元服が決まってさえ、その態度を変えなかった。
「まだ早うござる。恐れながら御当家がごとく大身の武家の御嫡男が元服なさるるなれば、まずは礼法、故実など学ばれなさるべきと存じ上げまする。御領内の煩雑な諸事は、我ら老職にお任せあれ」
そう言う林も、月に一、二度は備後守の御機嫌伺いに古渡城へ伺候する。
林が握る権限を剥奪できる唯一の存在が、備後守であるからだろう。
結局、皆が備後守の掌の上にあるのだ。吉法師自身も含めて。
だから吉法師のままでいいのである。城主とは名ばかりの神輿でしかないのだから。
平手にも林にも好きなようにさせておけばよい。
彼らが備後守の掌の上で踊りたいなら、踊らせておけ。
だが、この自分は。
備後守の望むがままには踊らぬぞと、吉法師は思い定めている。
神輿でいるのは、いまのうちだけだ。
いずれ力を蓄えて、備後守にとって代わるのだ。
備後守は、老いた実父の弾正忠から家督を譲られ、この織田弾正忠家の当主となった。
つまり禅譲のかたちであったが、吉法師への備後守からの家督継承は、そのような平和的なかたちになるとは限らない。
吉法師は自らが力を得た段階で、無理矢理にでも父から実権を奪うことも厭わない考えでいる。
もはや備後守は、吉法師が尊崇する対象ではなくなった。
踏み越えていくべき岩塊であった。
備後守が妹であり養女である蔵と、その婿である大橋清兵衛を容赦なく踏みつけにしたように。
吉法師もいざともなれば、備後守を踏みにじってくれる覚悟であった。