第三章 那古野(7)
犬山城下には旅籠や料理屋も何軒かあるが、城主の一族の葬儀当夜であるから、いずれも音曲などは控えている。
それ以外の商家は無論、夜は店を閉めている。
そうして静まり返った町の中にある小さな寺を、平手は夜半に訪れていた。甚左衛門一人を連れている。
あらかじめ指示された通り、裏手の通用門を叩くと、すぐに細く門扉が開いて、年老いた下僕が顔を覗かせた。
「……へい、どちら様で」
「御本尊様への宵参りでござる」
「へーい」
老僕はもう少し扉を開けて、平手と甚左衛門を通した。
「本堂の閂は外しておりまするで、扉を開けてお入りくだされ」
「うむ」
平手はうなずき、本堂へ向かう。
それを追いかけ、甚左衛門が囁く。
「先ほどのは符牒というものですね。父上のお考えですか」
「大殿のお指図じゃ。誰かほかの者が考えて大殿に御進言いたしたのかは知らぬ」
「霜台様のご葬儀の夜に、いかなるわけでの御召しでしょう」
「儂にもわからぬ。大殿のお考えになるところは」
眉をしかめて平手は答え、甚左衛門の顔を見て声を潜める。
「とうに気づいておろうが、大殿は意地の悪い御方よ。人を弄うて喜ばれておる」
「ああ、わざとやられていると思えば、いろいろ合点がいきます」
甚左衛門は、くっくっと声を抑えて笑う。
本堂の花頭窓から、薄ぼんやりと明かりが漏れていた。
さほど大きくない構えであるが、蝋燭か灯明を一つ灯しているきりなのだろう。
平手は甚左衛門に命じた。
「そのほうは、本堂の外で待っておれ」
「御同席は叶いませぬか」
「いかなる話であったかは、あとで聞かせる。話せることならな」
「大殿もお越しであるとすれば、お供の衆はどちらに」
「さて、庫裏にでもおろうか。この天岳寺の住持は大雲永瑞和尚と相弟子で霜台様の葬儀にも参集なされたはずゆえ、内々の談判のため場所を借りることにつき話をつけていたのであろう」
「大殿の御近習は、おおかた顔なじみですが、思わぬ御方がお供でいらしていたら気まずいです。わたくしは庫裏ではなく、この場で待ちましょう」
「それがよい」
平手は甚左衛門を庭に残し、本堂の扉を叩いて呼ばわった。
「失礼いたしまする。御本尊様への宵参りにございまする」
「……入れ」
備後守の声で返事がある。
平手は扉を開け、すぐに中に入って扉を閉めた。
備後守のほかにもう一人の男の姿があることを目に留めながら、その場で床に膝をついて平伏した。
「御召しにより罷り越しましてございまする」
「おう、平手。早うこちらへ参れ」
上機嫌な様子の備後守に言われ、「は……」と平手は目を伏せたまま立ち上がる。
備後守は本尊の前で、もう一人の男と酒を酌み交わしていた。
傍らに燭台が一つ立てられ、それがこの本堂の中の唯一の光源だった。
だが目を上げてみれば、備後守と向き合う男の横顔は、はっきりと照らし出されている。
青々とした入道頭。左右の頬の髭剃り跡も青く、鼻の下と顎には豊かな髭を黒々と蓄えている。
平手も見知った顔であった。
「お久しゅうござる、平手殿」
にまりと笑う男に、平手も愛想よく笑みを返した。
「これは萬久入道殿。久方ぶりでござる」
相手は平野萬久入道といった。
津島十五党の一つ、平野党の頭領である。
大橋家や恒川家と同じく津島周辺に蟠踞する地侍であり、津島湊の権益を握っていることも同様だ。
しかし織田弾正忠家の譜代の家臣ではないため、信定の葬儀では龕前堂の外で参列し、その後の斎でも席を得ていない。
だから萬久は、あらかじめ備後守から呼び出しを受け、夜が更けるまでどこかで待っていたのだろう。
「そのほうたち、互いによく見知った顔か。ならば話が早いのう」
満足げにうなずきながら備後守は、手にしていた盃を床に置いた。
備後守は酒席を好む。
家来が楽しんでいるのを見るのが好きなのだと言うが、実際は酒に酔った家臣たちが露わにする本性を観察するためであろう。
備後守当人は酒に強くはない。
色白の顔がすぐ、のぼせたように朱に染まる。
だから人には勧めるが、自分で飲む量は抑えている。
盃が備後守の手元にもう一つあり、空であったそれをつかんで平手に突き出した。
「平手そのほうも、飲るがよい。萬久入道、平手に進めてやれ」
「は……いただきまする」
平手が押しいただいた盃に、萬久が徳利から酒を注ぐ。
「ささ平手殿、とくと飲みやれ」
「ととと……、これは溢さぬようにいたさねば。本堂の床を般若湯で湿らすわけにも参らぬ」
酒が満たされた盃を、平手は慎重に口に運び、くいと一息に干した。
萬久が愉快げに、
「これは相も変わらず、よき飲みっぷり。酒も酒好きに飲まれて本望にござろう」
「いや酒ではなく般若湯」
「おお、左様でござった」
「平手そのほう、斎でもずいぶんと喰ろうていたが、まだ飲み飽きぬか」
苦笑いで言う備後守に、平手は照れてみせ、ぴしゃりと我が額を叩く。
「いや面目もござりませぬ。酒と見ればつい」
「いや酒ではなく般若湯」
にまりと笑って言う萬久に、平手は目を丸くして、おどけてみせた。
「おお、左様でござった」
実のところは平手もまた量を過ごさぬよう加減している。
使者や接待役を長年務めて宴席の経験を重ねてきたから、自分を保っていられる酒量がどこまでか把握している。
ゆえにそこから先は酔った演技だが、この天岳寺まで夜道を歩いて来て、だいぶ酔いも冷めた。
備後守の前であるから、あらためていくらか飲んでみせねばなるまい。
その備後守は平手の演技に気づかぬように、苦笑のまま首を振る。
「酒好きは他愛もないものよ。されば飲みながらでよいわ、聞くがよい」
「は……」
また酒を注がれた盃を干してみせてから、平手は居住まいを正した。
あえて盃は手にしたままとしたが、萬久から遠い手に持ち替える。
愛想よく笑ってみせて、平手は言った。
「さればお聞きいたしまする」
「うむ。この萬久入道にな、奴野の城を預けようと思うのじゃ」
「……は」
平手の愛想笑いが、ひきつった。
恐る恐る備後守に言上する。
「……恐れながら奴野城は、大橋家が累代の持ち城にございまする」
「うむ。されど、いまの大橋家はいかがじゃ。津島十五党の筆頭を名乗るにふさわしいか」
備後守は、にやりと笑みのかたちにした唇の上の髭を撫で、
「我が父、月巌は大橋清兵衛が正室、蔵の実父であり、養父である儂を介しては祖父でもある。しかるに津島十五党のほかの十四家は当主が自ら月巌が葬儀に参じたに、清兵衛は病と称して代参の者を寄越したのみ。いや病なら仕方あるまいと思うてはみても、その病を年に幾度も繰り返しておるのではのう」
月厳とは弾正忠信定の法名だ。
萬久もまた、にまりと笑い、
「津島十五党にとりましても、奴野の城は津島を守る要にござる。さればいざというとき城主が自ら守りの采配を振れず、城代に任せきりでは心許ない。これを十五党の過半の者が案じておったところ、こたびこの萬久が大殿のお引き立てを賜り、御城主をお任せいただけるという次第」
津島十五党の結束も、外に敵があればこそということだ。
織田弾正忠家の傘の下に入ったことで、それぞれ我欲を剥き出したのであろう。
いままでは、きっかけがなくそれが表に出なかっただけなのだ。
備後守が、底意地の悪い笑みで、
「またこれは舅としての儂の清兵衛への親心でもあるぞ。病がちの身で奴野の城主が務まらぬのであれば、その重き荷を肩から下ろし、これより先は津島湊での商いに専心いたせばよいのじゃ。津島の町に構える店まで取り上げようとは申さぬゆえ」
「蔵様が悲しまれましょうぞ」
平手は眉をひそめて告げたが、備後守は意に介する様子もなく笑みのまま、
「やむを得ぬことよ。これが津島のためまた清兵衛のためでもあると、いずれ蔵も悟るであろう」
備後守は萬久に向けて手を伸ばす。
徳利を寄越せという意味と理解して、萬久はそれを備後守に手渡す。
備後守は平手に徳利を突き出した。
「どれ、儂からも一つ注いでやろう」
「は……頂戴いたしまする」
平手は盃を出し、備後守に注がれた酒を、押しいただいてから飲み干した。
ひどく苦く感じた。
大橋禅休入道とは交誼があった。故事にまつわる話など趣味が重なる部分が多く、嫌いな相手ではなかった。
その子息から備後守は父祖累代の城を取り上げようとしているのである。
そして、吉法師の附家老である平手に、わざわざその話を伝えて来たということは。
(儂に、大橋清兵衛へ引導を渡す使者を務めよということか……)
酷い仕打ちである。
蔵は大層悲しむであろう。
そして、それを決めたのが備後守であるとしても、清兵衛と蔵の夫婦への使者を直接務めた平手に、吉法師の憎しみが向くに違いない。
備後守は言った。
「全ては大橋禅休入道の愚かな謀事が招いたことよ。津島十五党の筆頭などと意地を張り、長子の源左衛門に別家を立てさせ、大橋家の全てが我ら織田弾正忠家に降るのではないという構えを見せた。だが高須に築いた源左衛門の城も独り立ちはできず、美濃方に臣従いたして我らの敵となったのじゃ」
「は……仰せの通り」
平手は頭を下げる。そうするほかはない。
備後守は徳利を床に置き、
「されば病がちな清兵衛に代わり、源左衛門を呼び戻して当主に据えようとする動きが万が一にも大橋の家中にあればいかがいたす。津島が美濃方の手に渡ることになるぞ」
「ご懸念ごもっとも」
「されば平手、そのほうが禅休入道と懇意であったこと、清兵衛も蔵もよく存じておるはず。その平手中務から若き夫婦に、舅であり父である儂の親心をよく説いて聞かせて参れ」
やはり、そうなるか。
平手は盃を脇に置き、備後守に向かって平伏した。
「その儀は……せめて熱田の社家衆が全て我らに靡くまでお待ちいただくのがよろしいかと存じまする」
そう言うのが精一杯であった。
「一度こちらの傘の下に入れば、もはや熱田衆同士で結託いたし、我らに歯向かうことは難しゅうござる。己が利のため我らに通じようとする者も現れましょう、津島十五党のうちにもございましたように」
最後のは萬久への皮肉である。
だが備後守は首を振る。
「もはや待つ必要はない。熱田大宮司の千秋家、また社家のうちで重きをなす加藤図書助、同じく隼人佐のそれぞれから我らに従う旨の誓紙を差し出して参った。互いに談合いたした上でのことかは知らぬが、こぞって膝を屈すると申すなら事情は問わぬ」
なるほど、いまこのときに清兵衛から奴野城を召し上げると決めたのは、弾正忠信定の死を待っていたわけではなく、熱田衆の主だった者が降って状況が整ったからなのか。
信定は末娘の蔵を可愛がっていた。
その信定が亡くなって早々、蔵の婿である清兵衛から城を取り上げるのは露骨に過ぎると思ったが、すでに備後守には信定への遠慮もないのだろう。
平手はあらためて深々と備後守に平伏した。
「されば承知つかまつりました。大橋清兵衛殿への御使者の務め、この平手が果たして参りまする」