第三章 那古野(6)
書院の床の間に一幅の頂相が架けられている。
つまり禅僧の肖像である。
老境にあり、顔には皺が刻まれているが、鼻筋の通った端正な面立ちだ。
袈裟には金泥で花唐草が描かれ華やかである。
「当院の開山、柏庭宗松和尚にございます」
徳授院の住持が、吉法師に告げた。
「俗縁では若君とご同族となります織田家の出で、後柏原の帝の思し召しにより妙心寺に住持せられ、のちに妙心寺へ紫衣の勅許を賜りました、まことに有徳の僧でございます」
「……であるか」
吉法師は肖像を見上げたまま、うなずく。
弾正忠信定の葬儀が秉炬の仏事を終えたのは日没間近であった。
秉炬とは火葬のことであるが、武家であれ庶民であれ多くの場合は赤く塗った松明で導師が点火の真似をするだけで、その後は土葬としている。
しかし備後守は、下火屋に移した信定の棺に実際に火をつけ、下火屋ごと焼いて火葬としたのである。
「父上のお骨は我が家の菩提寺の開堂後にあらためて納骨いたすとして、それまでは大雲永瑞和尚の寺でお預かり願おう」
備後守はそう言ったが、与次郎や孫三郎ら弟たちは、あまり納得していない顔だった。
信定とは縁の薄い那古野の、まだ建ててもいない寺への納骨を備後守が独断で決めていることが承服しかねるのだろう。
例の少ない火葬としたのも、のちに那古野へ移すのが容易であるからだとすれば釈然としないわけである。
そのあとは親族と主だった家臣は龕前堂へ戻る予定であった。
雲興寺や正眼寺など主要な寺院から遣わされた典座による精進の膳が、斎として振る舞われるのである。
ほかの参列者は解散となり、僧たちには御膳料が下された。
「殿、坊丸がもう疲れた様子。先に休ませていただいてよろしいでしょうか」
土田御前が申し出ると、
「おう、御苦労であったな坊丸、きょうはゆるりと休むがよいぞ。吉法師も、くたびれたと顔に書いてあるわ。おとなどもは儂が預かり般若湯でも振る舞うてくれるゆえ、そのほうは下がるがよい」
にやりとして告げる備後守に、吉法師は頭を下げる。
「は……よろしくお願い申し上げまする」
子供扱いされるのは面白くないが疲れていることは事実だ。
斎と称して実際は通夜振る舞い同様の宴席となるのだろうし、大人どもが酒を喰らうところに同座しても退屈なだけである。
葬儀が一日がかりとなることは予定通りで、与次郎を除いた信定の子息はそれぞれの家臣とともに、犬山城下の寺に分宿する手はずだった。
備後守と土田御前、坊丸、そのほか勝幡から来た者たちは、行基菩薩創建と伝わる犬山随一の大寺院、薬師寺に。
これにほど近い妙心寺派の徳授院には、吉法師以下、那古野からの一行が宿をとる。
しかし林のみは配下の者が多いからと称して、徳授院の塔頭の一つ、祥雲庵に個別に宿を手配していた。
吉法師が久助に確かめさせたところでは、祥雲庵は塔頭といってもそれ自体が一つの寺と呼べるほど大きいが、徳授院とは八幡社の境内を隔てた先にあり、隣接しているわけではないらしい。
林には自身が吉法師の家臣であるという意識が薄く、備後守から与力として那古野城に派遣されている考えでいるのだろう。
那古野城下に新しく建てると言っていた屋敷も着工する様子はなく、寺への仮住まいを続けている。
(いずれあの者にも、おのれの立場を思い知らせてやらねばならぬ)
そう吉法師は心に思い定めている。
吉法師は久助たち近習、小姓とともに徳授院に入った。
まず本尊へ香華を手向け、そのあと宿舎となる書院へ住持に案内された。
開山である柏庭宗松の肖像は、普段は祖師堂に架けられているはずだが、吉法師の来訪に合わせて書院に移したのであろう。
吉法師は肖像を見上げながら住持に言った。
「我が一族は曹洞宗に帰依しておると思うていたが、妙心寺に住持した偉き和尚もおられたのだな」
「はい、曹洞禅は黙照禅、臨済禅は看話禅とも申しますが、いずれの道をとられたとしても禅の境地に至ることができれば、それがその方にとっての禅なのであろうと存じます」
「されば禅とは目的であろうか手段であろうか」
「それは恐れながら、その境地に至らねば悟りえぬものと存じまする」
「……であるか」
武士であっても入道して法名を称する者はいる。
だが若年のうちに出家した者は別として、実際に寺に入ることは稀である。
後継者に家督を譲って隠居した建前をとりながら我が家の実権を握り続け、戦となれば甲冑を身に着け出陣する。
一度武士として生きた者が、その生き方を捨てることは難しいのであろう。
吉法師は武士として生きようと決めている。
生まれたときから織田備後守の嫡子として育てられて来たからだ。
もし何か事情があり備後守から廃嫡されることがあったとしても、生き方を変えるつもりはない。
出家を命じられたとすれば寺を出奔するだけだ。
住持が申し出た。
「夕餉がお済みでなければ斎堂にてご用意いたします。また、次の間にお付きの方のものも含めて寝具を御用意いたしております。よろしければ誰ぞ遣わして床を延べさせますが」
「それでは夕餉の支度のみお願いいたす。家来どもが皆、朝から諸々の手伝いに駆り出されて腹を空かせておるはずゆえ」
「かしこまりました。お支度が整いましたら、お伝えに参ります」
住持は一礼し、引き下がった。