第三章 那古野(5)
吉法師は平手に、尾張ではどの宗派の寺がどれだけあるかとたずねたことがある。
「さて、御当家は代々、曹洞宗に帰依なされ、霜台様の弟君には大雲永瑞和尚と申されて曹洞禅林の名刹、雲興寺の前の住持を務められた方もおいでです。されど御仏の教えは宗旨によらず皆、ありがたいものでございまする」
もっともらしい顔をして答えた平手に、吉法師は眉を吊り上げる。
平手は無用な言が多い。この男を好きになれない理由だ。
「左様なことは存じておる。和尚には一門の法要で幾度もお会いした。我が家の宗旨ではなく尾張一国についてたずねておるのじゃ。あるいは父上の御領内のみでもよい」
「さればやはり曹洞宗が多いものと存じまする。日本曹洞第一道場の勅額を賜る永平寺が越前国にございまするが、彼の国は長く武衛家の守護任国でございました。また隣国の能登には大本山の總持寺もあり、北陸道では曹洞宗の教勢が盛んにございまする。御当家は応永年間、武衛家が尾張守護を併せ任ぜられたるに際して守護代を仰せつかり、御一統の方々が越前から尾張へ移られ申した。それに付き従い先祖が越前から参りました者が領内には多くございましょう。尾張と越前との縁は、まことに深うございまする」
「それはそのほうが思うておるだけのことであろう。確かな数は、わからぬのか」
「さて確かめるとなりますと、いかなる手立てがございましょうか」
平手は首をひねり、
「それぞれの所領にある寺につき、家中の者に指出をお命じになりまするか。一向宗の念仏道場などは寺の数にも入らぬゆえ除くといたしまして」
「なぜそれを除く。伽藍のかたちは整わずとも門徒が集うておるなら寺と変わらぬ。むしろ知らぬ間に数を増やして国中が念仏道場だらけとなっておったら、いかがする」
「は……いかにも仰せの通り」
「あるいは市江島の興善寺のように桓武の帝の勅願により建てられた古刹が、いつの間にやら一向宗に宗旨替えいたした例もあろう」
「よく御存知でございまするな。いや、津島と縁の深い市江島にまつわる話ゆえ、姉上様からお聞き及びでございましょうか」
目を丸くしてみせた平手に、吉法師は苛立ちのあまり声を大きくする。
「誰から聞いたかなど、いまは関わりがないであろうが」
「いかにも、ごもっとも。されどまた難しきところでございますのが、門徒どもは、おのれの宗旨を真宗と称しておりまするが、叡山ではこれを自立した宗派と認めず、いまだ本願寺を末寺とみなしておるのです。されば興善寺も叡山から見れば、いまなお天台宗の寺というわけで」
「それがいかにも山法師の申しそうな詭弁であることは平手、そのほうの顔に書いてあることよ」
「これは恐れ入りましてございます。とは申せ、本願寺がいまだ叡山へ年に三千疋の末寺銭を収めておりますことも確かにて」
「…………」
平手は、ものをよく知っている。
ただいつも話が回りくどくて吉法師を苛立たせるのだ。
吉法師は咳払いして、
「いずれにしろ加賀における一向宗、畿内の同じく一向宗や法華宗、あるいは叡山のように寺やその信徒が騒擾を起こす例は数知れぬ。されば領内における各宗派の教勢を知ることは領主の心得であろう」
「いかにも、いかにも」
吉法師の言葉に、平手は感心したように鷹揚にうなずく。
しかし平手という男の常で仕草が大袈裟すぎて、ただそうしているフリとしか見えないのである。
「もうよい、平手。下がるがよいわ」
と、吉法師は苛立ちを抑えきれず、そこで話を打ち切ってしまったが、いずれ宗派ごとの寺の数は実際に確かめなければならないと思う。
それにしても平手め、まだ調べていない、わからないと、どうして最初から素直に言えないのか。
吉法師の祖父、弾正忠信定の葬儀には、導師を務める大雲永瑞はじめ、尾張中の主だった曹洞宗寺院から長老とその従僧らが参集した。
僧侶が集まりすぎて、ほかには故人にごく近い親族しか龕前堂に入れず、それ以外の一族や家臣は堂が建つ丘を取り巻いて居並ぶことになるようだ。
僧侶以外で堂内で葬儀に参列するのは、喪主の備後守とその嫡子である吉法師。
与次郎、孫三郎、四郎次郎、孫十郎という故人の子息たち。
それに備後守の正室である土田御前と、その所生のもう一人の男子である坊丸のみである。
信定には備後守の養女とした蔵のほか数人の娘があったが、いずれも他家に嫁いでいるので、この場に姿はない。
代わりに彼女たちの夫かその代参の者が来ているが、堂内に席がないのは、ほかの参列者と同様だ。
清須の武衛家からは小守護代の坂井氏の一族だという坂井某が弔問の使者として来たが、備後守は挨拶だけ受けて、
「愚父がごとき家来筋の、それも隠居の葬儀に武衛様からのお使者の代参など、もったいないことでございまする」
と、早々にお引き取りを願った。
守護代の織田大和守、また織田一門の本家筋で岩倉城を本拠とする伊勢守からは使者代わりの僧侶が遣わされたので、これは与次郎が顔見知りである犬山城下の曹洞宗寺院の僧に事情を伝え、席を譲ってもらった。
だが使者の僧侶が連れて来た従僧たちの席まではなく、彼らは外で待つことになった。
ほかにも席を得られない僧は何人もいて、外から堂内を覗き込み、どこかに潜り込めないものかと様子を窺っている。
「こりゃあ寺同士で参列させる人数を張り合うておるようじゃ」
「なるほど父上の御遺徳でも、喪主である三郎兄者の威光でもなく、和尚たちの意地と見栄でございますか」
孫三郎と四郎次郎が呆れているが、その通りであろうと吉法師も思った。
吉法師は以前、大雲永瑞にたずねたことがある。
「尾張にある曹洞宗の寺では、和尚がいた雲興寺が一番大きいのか」
「何をもって大きいと若君はお考えか」
「末寺の数じゃ。それが一番その寺の宗派の中での立場の強さを表そう」
「数ならば下津の正眼寺。直末のみで五十、孫末を加えて百は超えよう」
「雲興寺の末寺はいくつじゃ」
「さて十八から増えたか減ったか」
「数でなければ何でなら和尚の寺は正眼寺に勝てようか」
「争う理由がござらぬ。されば負けたとも思わぬ」
「それが禅の教えか」
「曹洞禅は只管打坐。黙して坐するのみ」
「では、いまの和尚と儂との問答は何じゃ。ただの言葉遊びか」
「愚僧の処世術をお伝えしたばかりのこと」
俗縁で吉法師の大叔父に当たる禅僧は、涼しい顔で答えたものだ。
雲興寺は尾張東部、山田郡内でも三河との国境に近い最東部に所在する。
室町幕府四代将軍、足利義持公の崇敬を受けて七堂伽藍を構えるが、本来のところは山中の禅道場である。
その住持を大雲永瑞は天文三年、五十三歳まで務めたのち、
「儂が俗人であればもう隠居しておる年じゃ」
と唱えて山を下り、同じ山田郡でも北西部の大森郷に正法寺を建てて住持となった。
一方、正眼寺は大本山總持寺の直末寺として後小松の帝を開基とし、およそ百四十年前の応永元年、下津に創建された。
下津は木曾川の数ある支流の一つ下津川の渡船場であり、鎌倉道の宿場として栄えた土地だ。正眼寺が開かれてまもなく武衛家の守護所も置かれている。
歴代住持には曹洞宗門の有徳の僧が招かれ、その退隠後の庵居となる塔頭が七堂伽藍に加えて次々と建てられた。
格式でも規模でも尾張随一の大寺院であり、成り立ちからして雲興寺とは違うのである。
そのことを吉法師はあとから知って、大雲永瑞の処世術に納得がいった。
納得はしたが、それが常に通用するものとは思えない。
(寺にも本末の争いがある。数多の門徒を抱え寺運隆盛を誇る本願寺でさえ、いまだ叡山へ末寺銭を収めておるとは平手も申したことよ。立場の強き者は、それが弱き者より奪うことができるのじゃ)
俗人の世界とまるで変わらない。
(雲興寺が正眼寺の風下に立たずにおれるのは、前の住持である大雲永瑞和尚が我が織田弾正忠家の一族であるおかげもあろう。争わねば負けぬと澄まし顔でおれるのも、相手に争うつもりのない間のことじゃ)
吉法師は武士の子である。
それも、この尾張でいま最も有力な武将と目される織田備後守信秀の嫡子である。
だから物事は力の強弱を物差しとしてとらえることが、当たり前に習慣づいている。
(やはり力を得なければならぬ。力さえあれば争わずして相手が降ることもあろう。儂は俗人であり武士であるゆえ、和尚とは違い力をもって争いを鎮めてくれようぞ)
その大雲永瑞は導師であるから、まだ堂内に現れていない。葬儀の開式にあわせて入場するのだろう。
脇導師を務める四人の高僧──正眼寺、知多の乾坤院、熱田の圓通寺の各長老と、雲興寺の現住持である春崗東栄和尚も同様だ。
だが彼らが座すべき席の後方には、従僧や末寺の住持、そのまた従僧たちが、ずらりと席を占めている。
そしてこれら四大寺院と別系統の寺の者たちは、残りの席に肩身を狭くして辛うじて収まっているか、席を得られず困っているかだ。
「のう孫十郎様、霜台様と愚僧が良き碁敵でござったことを御存知でないはずあるまいに。されば末席のどこなりとでもようござる、霜台様に経を手向けさせてはくださらぬか」
「そう申されましてものう、お坊様同士のことはお坊様同士で計ろうていただくようにと、三郎兄者の言いつけでござるからのう」
孫十郎が堂の入口あたりでどこかの老僧につかまり、困りきった様子でいる。
それに気づいた孫三郎と四郎次郎が呆れたように、
「孫十郎のたわけが、いつまでも東司から戻らねえと思えば何をしていやがる」
「あれは津島の宝珠山の和尚ですな。父上が隠居なされる前、勝幡におられた間に親しくさせていただいたはず」
「宝珠山といやあ、あれもなんだか古い由緒のある寺じゃねえのか。それでも席が回って来ねえのか」
「さて遅れて御到着なされましたかな。和尚との碁はいつも日をまたぐと父上も申されておりましたから、とても気の長い御方のようで」
「……四郎次郎」
与次郎が弟に呼びかけた。
「これでは埒が明かぬ。控えの間におられる大雲永瑞和尚に執り成しをお願いして参れ」
「はい、承知いたしました」
四郎次郎が席を立って行く。
父上はこの状況で何もなされるおつもりはないのかと、吉法師は備後守の顔を見上げる。
備後守は、にやにやと笑いながら与次郎に告げた。
「我が家の威光を示すには、本堂がこの程度の広さでは足りぬということだのう。いまの那古野の城下は竹王丸様の代から変わらぬままゆえ、新たに町割いたして、より大きな寺を建てることもできようが」
「は……左様なものかも知れませぬな」
孫三郎は曖昧にうなずく。
それからしばらくして、堂内がざわつき始めた。
僧たちの席が全ては決まらぬまま、大雲永瑞が四人の脇導師を従えて入堂したのである。
まだ葬儀が始まる刻限でもないはずで、それは犬山城下で最大の寺院である真言宗の薬師寺が最初に鐘を搗き、宗派を問わず各寺がそれに倣って知らされる段取りであった。
五人の高僧が祭壇の前に安置されている棺のそばまで進むと、ようやく堂内は静まった。
大雲永瑞は脇導師たちとともに合掌したのち、居並ぶ僧らに向き直る。
そして手にしていた中啓を床に投げ、声を張り上げた。
「此の衣は信を表す、力をもって争う可耶、君の持ち去るに任す」
「堂の外にも、まだ多くの御参集の方々がおられる」
正眼寺の長老が穏やかに言い添える。
「されば堂内の読経に和して、外の方々に経をお伝えすることも、ありがたきお勤めにござろう」
堂内の僧たちは気まずい様子で顔を見合わせ、何やら囁き交わす。
そして若い者から順に席を立ち、龕前堂の外へと出て行った。
三分の一ほどの席が空き、堂の外にいた、より年長の僧たちが席を得られることになりそうだ。
その様子を見ていた吉法師は、与次郎にたずねた。
「和尚は何を申されたのか」
「あれは『無門関』という書物に記された禅の公案でな。奪い合おうとしているのは祖師から受け継いだ衣鉢なのか、教えそのものなのかという問いかけじゃ」
天狗に似た大きな鷲鼻をした与次郎は、吉法師には優しい目を向けて来る。
吉法師は、この叔父が嫌いではない。
「曹洞禅は只管打坐と和尚は申されたが、公案をいたすこともあるのか」
「儂もいくらか禅に親しんでおるが、坊主ではないゆえ、まことのところはわからぬ。されど曹洞禅は大徳寺派、妙心寺派と並び林下と申して、それこそ儂のような俗人にまで広まった教えじゃ。民草に禅を説く手始めに『無門関』を講じて聞かせることはあるやもしれぬな」
与次郎の答えに、吉法師はうなずいた。
「……であるか」