第一章 津島(1)
(……こやつどもが悪心を起こさば、儂の命など儚いものよ)
吉法師には幼い我が身が厭わしい。
一人では馬に乗れず、町まで歩くには時がかかりすぎる。
やむなく十蔵の手綱を握る腕の間に収まり、抱かれるかたちで馬の背に揺られる。
御伽草子の牛若丸さながらの水干姿。
ただし被衣は頭にかぶらず、入元結で束ねた艶やかな垂髪を露わにしている。
肌は白く唇は紅く、幼いながらも人の目を惹きつける美貌である。
しかし物憂げな眼差しに年相応の無邪気さはない。
この年、天文七年。
吉法師は五歳である。
吉法師と十蔵の前後には年若い近習が四人、騎乗で従う。
彼らから見て吉法師は主君の御曹司。
その主君、すなわち吉法師の父である織田備後守は、この尾張国で旭日昇天の勢いにある。
家臣どもが、いま備後守を裏切ったとして得るところは乏しいだろう。
だが勢いが盛んであるというのは、それだけ敵も作っているということ。
隙あらば備後守を追い落とそうと狙う者たちが秘かに手を結び、力を蓄えつつあるかもしれない。
彼らが巧言をもって家臣どもを誘い、離反を促すことがないとはいえない。
あるいは敵方に利があると見た家臣が、自ら造反しないとも限らないのである。
(……されど、いまはそのときではなかろう)
吉法師は他人の好悪の情に鋭敏であった。
尾張随一の旗頭、織田備後守の嫡男である吉法師には、誰もが愛想よく接してくる。
だが本心からの親愛の情を示している者は、そのうち一握りにすぎない。
常に側近くにある近習でさえ、内心で吉法師を軽んじている者がいる。
吉法師を幼子と見くびっているのが言葉や態度の端に見え隠れするのだ。
それでも害意まで向けてくる者は、いまのところは見られない。
幼子と侮っているからこそ、危害を加えようとまでは思わないのだろう。
備後守の敵たちが勢いを増したときには、状況は変わるであろうけど。
(……早よう、おのれで我が身を守れるようになりたいものよ)
それが吉法師の、いま一番の望みだ。
吉法師が黙したままでいるので、近習たちも無言である。
御機嫌とりの巧言を、吉法師は何より嫌う。
地勢や歴史、政事に関する話なら耳を貸さないこともないが、それ以外は家臣どもは問われたことのみ答えればよい。
一行は備後守の本拠である勝幡城から、三宅川に沿った堤の上の道を南へ下り、津島の町へ向かっている。
近在の者は上街道と呼ぶ道である。
堤といっても人の手で築かれたものではない。
大雨のたびに上流から運ばれた土砂が川に沿って自然と積み上がったのである。
それゆえに、ところどころが低くなっており、川が溢れたとしても水を堰き止めるには、ほとんど役立たない。
しかし堤の幅が広くなった場所は比較的安定した高地として、田畑が作られたり人家や社寺が建てられている。
堤の左右は川面でなければ葭の茂みである。
元来、尾張南西部のこの辺りは、木曾川、揖斐川、長良川という三大河川の下流域であり、それぞれの支流が網目のように合流と分流を繰り返している。
三宅川も木曾川の支流であって、この先で別の支流である萩原川と合流している。
大雨や長雨となれば、たちまち川は氾濫して低地にある何もかもを押し流す。
堤の上とて油断はならない。
水の勢いに堤自体が崩されたり、水量が増せば堤を乗り越え、家屋も人も洗い流される。
その一方で木曾谷をはじめとする上流の渓谷から運ばれてきた土は肥沃である。
水害のない年には田畑に豊かな恵みがもたらされる。
さらに川は物流を担っている。
ことに津島は木曾川流域最大級の川湊であり、河口に位置する伊勢国の桑名とともに古来、東海道の要衝ともなっている。
備後守は、この津島を支配下に収めていた。
彼の力の源は、津島商人からの莫大な運上金だ。
道には堤の高低とともに、ゆるやかな上り下りと湾曲がある。
堤の左右の葭は人の背丈を超えるほど茂り、道が低くなった場所は遠目には青々とした葭に埋もれてしまう。
津島方面からこちらへ向かって来る人や馬の姿は近づくまで見えたり隠れたりで、相手から見てもそれは同じであるだろう。
「あれは平手様でございまするな」
十蔵が言った。
葭の間から行く手に姿を現した一行のことだ。
騎乗の侍が三人と、従う数人の小者たち。
吉法師には誰が誰であるか見分けられないが、十蔵は遠目が利く。
「……であるか」
吉法師は、それだけを言った。
平手は吉法師が赤子のうちに付けられた傅役だ。
吉法師は彼をかたちばかり「爺」と呼んだこともあるが親しみの情はない。
平手もまた心中で吉法師を軽んじていることが日頃の言動から透けて見えるからだ。
顔が見分けられるほど近づいたところで、平手らの一行が道の端に寄って足を止めた。
馬を下りることはしないが、吉法師たちに道を譲るつもりだろう。
吉法師は何も言わず、十蔵も黙って馬を進める。
幼い御曹司の望むところを察する気働きが、十蔵にはある。
彼は近江国の生まれであるという。
寡黙ながら切れ長の目をした美丈夫であり、勝幡城中で働く女房や下女らは彼のことを「京の戦乱を逃れて近江へ下った、いずれかの高貴な方の御落胤」であろうと勝手に噂している。
それを莫迦げていると一蹴できるほど、吉法師は十蔵について知るわけではない。
近江で生まれた彼が備後守に仕えるまでの経歴を何も聞かされてはいないのだ。
嫡男付きの近習は備後守が選んでおり、働きがいい者も、そうでない者もいる。
吉法師は家臣に気を許すつもりはないが、十蔵の働きは評価している。
「──これは若君、また姉上様をお訪ねでございまするか」
平手が呼びかけてきた。
馬上にあって、ひときわ長身に見える彼は、しかしすでに五十に間近い。
体つきは痩せて骨ばり、薄くなりかけた髪を頭の後ろで小さな髷に結っている。
ともにいる二人の侍は平手の息子たちだ。
兄の五郎右衛門は肩幅が広く、日に焼けた顔には、いつでも険がある。
弟の甚左衛門は色白で細身であり、兄よりも額が広く老成したような柔和な顔つきだが、常に笑みのかたちに細めた目が腹の底を読めなくさせている。
「…………」
吉法師は平手を一瞥したが、答えない。
代わって十蔵が馬を止めて口を開いた。
「津島の町を巡り民情に触れますことも、いずれ御領主となられる吉法師様には得るものが多いことと」
「ふむ。いまは書物に向かい御学問なされることこそ肝要と心得るが、十蔵らでは若君をお諌め申し上げることも適わなんだのであろう」
十蔵には冷ややかに言ってから、平手は吉法師に追従の笑みを向けた。
「津島には他国者の出入りも多うございます。近習たちと離れることなく、間違いが起こりませぬようお気をつけなされませ」
「……であるか。参るぞ、十蔵」
吉法師は平手から目線を外し、十蔵を促す。
平手の言うことなどに、吉法師は何の値打ちも感じていない。
十蔵は平手に一礼して、再び馬を進めた。四人の近習も、それに倣う。
平手は頭を下げ、吉法師たちの姿が見えなくなるまでその場に留まった。
彼も愚かではない。自身が吉法師に疎んじられていることは、とうに承知していた。